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【第六章】             飛 翔


 今迄紹介した例はごくほんの一部の方々であり、実際はこんなものではありません。この障害の特殊性から地方が特定され、明らかにその人と分かるのではないかと思われるケースは全て外しました。
 交通事故(車・バイク・自転車・轢き逃げなど) 海とプールの飛び込み失敗・山菜採りと釣りの崖下転落・スポーツ事故(スキー・スノーボード・ラグビー・柔道、レスリング・サーフィン・トランポリン・器械体操・モーグル・ジャンプ・フリースタイルスキーなど) 樹上と屋根からの高所転落。家庭内事故 (立ち眩み転等・階段・風呂場など) 労働災害・学校内事故(プール・騎馬戦・組体操の崩れ・棒高跳び・野球のヘッドスライディングなど) 伐採での倒木の直撃・屋根の雪下ろしでの滑落。スポーツ趣味(モトバイク・バイクサーキット・マウンテンバイク・トライアスロンなど) 重量物落下・医療事故・そして先天性血管異常(動静脈瘤破裂・硬膜外血腫・脊椎側弯症など) OPLL(後縦靭帯骨化症)
およそありとあらゆる発生原因で脊髄に損傷を負った方々からの問あわせと悲鳴に息苦しくなったのです。

 脊髄を損傷して動く機能を瞬時にして奪われた方々がこんなにも、との思ってもみなかった厳しい現実に私は寒気がしたのです。年代は圧倒的に若者に多く、受傷後3ヶ月の方から2~3年、長くて20年以上の人もいました。
 この障害は安静にしていれば快方に向うというものではなく、それどころか何もしなければ第二次障害の褥瘡、内臓機能低下、関節拘縮、排泄障害など次々と襲いかかります。画期的な治療法、リハビリ法など望むべくもありません。
 私はこれらの方々と直接会い、また電話と手紙のやり取りから皆さんに共通する切望に気付いたのです。それは『医学は日進月歩であり、今に必ず脊髄の、再生・移植が可能になる』との一縷の望みです。
人間の個を表す脳。その考えをそのまま伝える脊髄。
それにより起動して働いてくれる筋肉。ここで初めて意志というものが伴った動作となります。不随意運動とはここが決定的に違うところです。

 確かに再生医科学の進歩は目覚しく、現在動物実験での移植再生の研究が盛んに行われています。
 神経は筋肉の連結部とも言うべきシナプスへの絶えざる刺激によって筋肉細胞の劣化と退化を防ぎ、外的刺激と常に揉み、屈伸させることによって運動神経を刺激し、ひいては神経細胞も活性化させると同時に、感覚細胞も昂奮して目覚めさせるという相関関係にあります。当然ですが自律神経もこれ等の刺激により立ち上がります。それは森さんの訓練で目の当たりにしてきました。微かに神経が繋がり、動きが目で確認できた時から感覚がゆっくり起き上がってきたからです。

 森さんに8年間にわたり運動刺激を与え続けた結果、動きを取り戻したというのはまさにこの説にかなっているのではないでしょうか。
 諦めて何もやらなかった筋肉中の運動・感覚神経細胞は、どんどん劣化、退化してやがては廃となり、更に関節拘縮と極端な骨密度の薄さとなったとき、仮に移植、再生が可能になっても動くことは無いと多くの学者は指摘しています。「諦めないで」「年月の長さに耐え」「再生に応え得る訓練をやって来たかどうか」これが全てと常に警鐘を鳴らしているのです。
 絶望を宣告された森さんが、専門家ですら信じられない回復振りを見せましたが、このことは臨床的にきわめて稀な例かもしれません。これは科学的には証明できないことでしょう。
 私のレポートを読んだある大きな病院の院長は『このような極めて稀なケースを以って臨床例の一つとして取り上げていいものかどうか…いずれに致しましても今までの医学の常識をはるかに超える衝撃的なことには間違いありません』と驚きの返信を寄せてくれました。

 専門医から『貴方は歩く事は出来ません』と宣告されてもなお決して諦めず、森さんを見て勇気付けられ動きを取り戻した先ほど紹介した方々。そしてこの本の後書きに紹介する人達の中から機能が著しく改善した人たちが続々と出ている紛れもない現実に対し、今まで散々言われた「あれはたまたま」と実に非科学で気軽な一言で片付けてもいいのでしょうか。
 ではこれらの方達全てが『動くことは無い』との宣告の根拠は何か。極論すればこれこそが誤診と思っています。完全麻痺を宣告された人が立ち歩くなどは全く以って非科学的であり漫画的と思われるでしょう。しかし私は歩けるだけの機能が残されていたから歩けたのであり、諦めず訓練を行った人のみが動きを取り戻したと解釈します。

 絶望の淵につま立ちしている時、『1%の可能性があるならまだしも貴方の場合それもないのです』『どんなことをしても動きません。やるだけ時間の無駄です』『本人にこの現実を告げ気持の整理をつけさせなさい』この最後通告の前に、何よりも重要な急性期における刺激という徹底集中した果敢な訓練を受けさせての通告でしょうか。またあらゆる角度から密度の高い症例集積の判断でしょうか。
残念ながら一人もいませんでした。そこには「中枢神経を損傷したからには動く筈は無い」との絶対的先入観が常にあるからです。

 今までどれほどの人達が全く同じ文言でこの宣告を受けてきたのか。私のところに来た方々は全てこの宣告で立つための訓練を諦めた方達ばかりでした。
 いや諦めさせられた人達です。それと私がどうしても解せないのは切断です。メールを読んでも、訪ねてきた人達に聞いても切断と言われたと言います。
 本当に切断なのか。私は森さんの術後真っ先に聞いたのは『切断ですか?』でした。一瞬言いよどみ『いや、切断ではありません』『では?挫滅ですか?』『その状態です』こう言われました。
 数年後、島田先生、そして主治医に聞いたところいずれにしても医学的、臨床的に見ても挫滅であれ切断でも同じ事であり、要はその先生がなんと言うかの差だと言うのです。横断、ボロボロの表現でも同じとも言っていました。

 肉眼で見て物理的にcm単位で切り離されているのは切断でしょう。しかしそのようなことは滅多にあるものでは無いと多くの先生は言っています。部分的に切断されている、もしくは顕微鏡的にあちこち切断されている。これが圧倒的だと言うのです。医学に無知な家族が専門医に切断、と宣告されたなら何が頭に浮かぶか。
それはブツリと切り離され、ダラリと垂れ下がった脊髄です。
 従って森さんの挫滅というのは医学用語にはなく正確には「神経横断」が正しいと脳外科の先生に言われました。

 運動神経、感覚神経も全て麻痺しているから切断と判断するとも言われたのです。逆に解釈すると切断だから動かず感覚もないという言い方です。
 『森さんは他の病院で手術していたなら、先ず間違いなく切断と言われるでしょう。よくて切断状態です』『どうしてそのとき私に切断ではありませんと言ったのでしょう?』『それはその先生の優しさかも知れません』島田先生はこうも言いました。
 頸髄を損傷してピクリとも動かないとき、執刀医から『あなたは立つ事も歩くことも出来ません』と言われてもなお諦めず『何としても!』とリハビリに挑む人は果たしているでしょうか。訓練を行う以前の一番大切な『よし!』という決意を根底から覆してしまうからです。

 敢えて言うなら『あなたは癌です。それも治癒はあり得ない悪性の癌です。』とはっきり宣告するのと何ら変わりありません。
専門医の一言は後々迄重大な結果をもたらします。逆に重篤な頚髄損傷者に『あなたはリハ次第で歩けますよ!』という先生はいるとは先ず思えません。これこそ無責任の最たるものです。
 この宣告は臨床的見地からの判断。今までの例からして。現代の医学を以ってしても。医学の常識でありヒポクラテス以来の定理。これらを前提としての宣告ということも分かるのです。

 しかし日進月歩の科学が今迄の謎を次々と解明していく現代でもそれは定理であり絶対なのでしょうか。
それと心であり精神です。その精神の力が肉体に及ぼす影響という不思議な作用は科学で解明されているでしょうか。
 同じ事実を宣告された時、その担当医の言い方一つで一方は闇の奈落に落ち、一方は光にすがる希望へと大きく揺れます。そして本人と家族は一生を決めさせられる厳しい分岐点に立たされます。これは取り返しの付かない選択であり残酷なほどです。
 心身ともに深く傷付いたとき、どのような先生に出会い、どのような言葉と言い方であったかで一生が決まる怖さに震えがきます。これこそが人間性の差であり、心の差と思っています。

 事実を伝えるのにも、その言い方にもその人の人間性がおのずと出る、と思っています。札幌での転院では信頼する、できる、との一番大切なものを不幸にも私達は最後まで持つことは出来ませんでした。まして実際に執刀して確認したわけではなく、全ては第二病院からのカルテを見ただけの判断です。
 不用意にポロッ漏らした次の患者を回して貰うための繋ぎの患者、という事が分かった以上、どうしてその人間性を信じる事ができましょう。

 『森さん、あなたは一生ベッド生活でトイレも清拭もベッドだよ』このように完膚なきまで傷つけ、絶望に追い討ちをかけ、追い詰めることを島田先生は勿論、第二病院の先生方誰一人としてしませんでした。
 心から信頼している先生に森さんは絶望を宣告された場合、その厳しい現実を従容として受け止めた筈です。私はこれらの医師としての良心とその人間性が言わせた言葉。これに万に一つの可能性を賭けました。
しかし現実はこのように実際に言われています。

『動く可能性がゼロということを早く本人に認めさせなさい。…私から言ってもいいですが』
『足が僅かに動いたというけど、それが実生活でどれ程の役に立つの?』
『脊損のリハは時間の無駄です。それより最低限の社会生活に順応できる訓練に費やしなさい』
これでは動かなくなって当たり前です。

 私は脊髄に損傷を受けたから動かない、とは考えませんでした。深淵の闇の中で傷ついた脊髄は深い眠りについている、と発想を変えたのです。
 常に語りかけ、絶えず揺り起こし、明るくして、ありとあらゆる方法で刺激を与え続けていると今に必ず目覚めると信じていました。実際、その通りになりました。
 10年前とはまさしく隔世の感で科学が次々と解明してくれる神経伝達のメカニズムの仕組みと信号の伝わり。脊髄の再生は有り得ない、と主張する学者は今では変人と見られている変わりよう。中枢神経の再生・修復は有り得ないというのは間違いであった、とはっきり言われている現在の科学。軸索の伸長とその架橋。更に伸長を阻む物質まで解明されて来ています。それと治療法、薬剤の開発。

 現に森さんが受傷のとき、島田先生はその2~3年前に開発されて脳手術から脊髄損傷の症例に使われ始めたステロイド剤の大量投与を行い、第二次傷害のフリーラジカルという続発性損傷の誘引を防いでくれました。
 加えて本来人間に備わっている驚くべき自己再生能力と自己治癒能力。それを触発させる精神力。
 『絶対駄目』『やるだけ無駄』『ゼロ』『永久に』専門医の宣告は本人と家族にとって先ほど言ったブツン!と断ち切れ垂れ下がった脊髄神経であり、ただの紐です。この宣告により、殆どの母親は廊下に崩れ落ちているのです。この断定がもたらす本人の一生という重大な意味を果たして何人の医師が自覚しているでしょう。


■確かな目                

 足の機能は完全で手の機能が麻痺したという人は一人もいませんでした。全ての人が肩・胸・腰から下が麻痺し、一番軽度の人でさえ両腕の不全麻痺でした。これらの方々は森さんが歩くのを見て、一様に絶句してガクリと俯き顔を上げようともしません。
 付き添いの人でさえそのひたむきに生きる余りの迫力と自分に鞭打つ気迫の鋭さに言葉を失い、激しく慟哭します。『…人間ってこんなにも頑張れるものなんでしょうか』と泣き伏した方もいました。『立つ事はありません』この宣告をそのまま受け容れてしまった地団駄踏む後悔。『今からでも…いや、もう遅すぎる』その大きな心の揺れ。森さんが次々こなすこれまでの成果全てを見終わったとき、部屋には深い沈黙、重い嘆息、そして感に耐えない絶句でした。

 ある時、石井さんというカイロプラクティックの先生が『是非会いたい』と電話がきました。カイロというとアメリカで生まれた整体治療学で、なかには症状が悪化したとか、不随にされたなどで一時期随分と裁判沙汰になり問題になりましたが、この先生は勿論全く違います。
 大方の不評の原因はほんの半年ほど学んだだけで開業をした人、それに免許を乱発した一部の悪徳治療院のせいであり、この石井先生はアメリカにしょっちゅう行き、研鑚を重ねて治療の効果と間違ったやり方の恐ろしさを誰よりも熟知している学究肌の先生です。現に札幌で開業する傍ら大きな病院でPT・OTをしている人達への講師もしています。実家が小樽ということもあって10数年前から知っていました。
 
 森さんが札幌に入院していた時に見舞った際『とてもこれでは助からないだろう』と思ったと言います。
私が森さんの事故の経緯とこれまでの訓練内容を説明してから実際に立たせようとしたそのとき『右近さん!待って下さい。ほんのちょっとでいいから右近さん!待って下さい!』と叫び手で顔を覆い『…本当にすみません。立つ、という前に森さんがこうして座っているのが私にはどうしても信じられないんです。』こう途切れ途切れに言ったのです。
この言葉を聞き私達は涙が溢れました。『とうとうと頸髄損傷を分かってくれる人がいた』という感動です。

 Cレベル2~5番損傷。しかも後の骨が全て外された人がベルト無しで座り背筋を真っ直ぐ伸ばして時折話の途中で頷く森さんを見て、こうなるまでの凄まじいリハビリの全てを見抜き、分かってくれたとの確かな目に私達は胸が詰まったのです。
 それからは驚嘆、驚嘆の連続で頭を抱え、顔を覆いながら『信じられない。信じられない』と何回も呟いていました。

 後日、このような手紙がきました。
『右近さんのレポートを拝見して、森さんが実際に歩くのを見て涙が溢れるのをどうしても禁じ得なかったのです。どんな言葉を以ってしても決して言い表す事が出来ない三人の真剣な訓練。私が想像していたリハビリよりはるかに凄い訓練とその闘いに、心底自分の魂が揺さぶられました。これを何と表現したらいいのか。心からの感動を有難う、有難うと言う言葉でしか見つかりません。
 訓練を施す側、それを受けて立ち向う森さんの身の震えるような緊迫感と迫力。私には何よりの教えとなりました。
 この話をセミナーの席で紹介したところ、『是非会いたい、連れてって下さい』と泣きながら言うのです。彼らは医療の第一線で脊損のリハビリを体験している人達ばかりです。
 励ましの言葉をかける事も出来ず、希望も明日も見えない脊髄損傷の凄まじさに直面して限界に突き当たり、破れてきた人達ばかりです。限界、不可能、これらの言葉を撥ね退けた森さんを見て、今迄絶対不可能と言われ続けてきた脊損の人たちに少しでもお役に立ちたいと思っているのです。
 森さんがこうなるまでに辿り着いた年月と膨大な時間。そして想像を絶するリハビリ内容。決して甘えの許されない選択。それを考えると気の遠くなることばかりです。三人の真剣なリハビリを見てただただ自分が恥ずかしかったのです』(原文のまま)

 それから一ヶ月もしないでこのPT・OTの4人と石井先生がきました。私はこの方達は専門家でもあり、実際に脊損者へのリハビリを経験している人達ばかりでしたので、その経緯をできるだけ詳しく説明していました。その間30分位と思います。しかしなにか雰囲気がおかしいのです。皆そわそわしていて落ち着きません。
 『それではこれから実際に歩いてもらいます』と森さんを立たせたとき、皆一斉にあっ!という顔をしたのです。それで全ての疑問が解けました。
まさか目の前にいる人が森さんとは思ってもいなかったのです。

 椅子に座り、手をテーブルの上に置きながら、時折手足を動かして頷き、屈託のない笑いとごく自然体に接するその姿。『これが当の森さんか…。』とその道の専門家すら分からなかったのです。
 『何時森さんは出てくるんだろう』とのそわそわだったのです。 私は迂闊にも森さんを紹介するのを忘れていたからです。
 この4人の中にただ一人、最初から最後まで全く無言の人がいたのにはずっと気になっていました。『無感動な人なんだ』と思っていたのです。しかし全く違っていました。
その手紙です。

『私が健康な身体を持ってさえ日常生活において悩み落胆している事が全くもって恥ずかしかったのです。森さんに対するリハビリの壮絶さは話には聞いていましたが、実際に拝見して、これが地獄の日々から抜け出す特訓だったのかとの感動とその迫力の凄まじさに言葉を奪われてしまったのです。
 私達のようにリハビリを施す者が患者さんと同じ身体的、精神的状態になって行うことがいかに大切であるかが思い知らされたのです。感動し、ものごとの素晴らしさを感じ取る感性も必要だという事も改めて認識しました』(原文のまま)

 無感動どころか余りの衝撃に言葉を奪われていたのです。どうりで帰るとき、森さんの肩を無言でポンポンと叩いて出て行った理由が分かりました。
 端座位を見ただけで『どうしても信じる事は出来ない』と絶句した石井先生は頸髄損傷というものの怖さを知っている数少ない一人なのです。立つ、歩くよりはるか以前のベッドから縁が切れ、端座できるまでになった森さんの努力に感動して心を衝き動かされ顔を覆った先生は、傷付いた者の視点で見てくれる確かなこころの目を持った先生でした。
 森さんは1年に3~4回、腰の調子が悪くて歩行訓練が辛くなったときこの先生のところに行き整体治療を受けてきます。そうするとピタリ!と治まるのです。


■蘇った名前        

 私は今迄問い合わせのあった全ての方々に資料を送り続けました。その作業で連日午前1時までに寝る事は先ずなかった位です。
 私は渡す前に手紙、電話で『このような訓練をやったら動くなどとは決して思わないで下さい』と必ず念を押します。脊髄を損傷した人達に『動く事は絶対ありません』との残酷な一言と同じく『このようにやったら動きます』などの無責任な言葉は、より重大な結果をもたらすことを誰よりも分かっているからです。
ワラをもすがる本人と家族の突き詰めた怖さを知っているからです。

 脊髄損傷という実に複雑な症状の表れに対し画期的に効果が上がる訓練方法などあろう筈はありません。
森さんの記事が大きく報道された時、立って笑っている写真には、『奇蹟のリハビリ指導』と『独自に考案』と書かれた大きく目をひくタイトルでした。
確かに専門家からみて考えもつかないユニークなものばかりです。しかしこの独自に考案、というのは全て自分でやってみて考案したという意味です。
 この記事を読み『動かすマニュアルを今直ぐ送って下さい。新聞に出ていたそのユニークな方法です』『右近さんは140種類位の訓練法をやったと書かれていますが私は5~6種の訓練を娘に行って今、動きを取り戻しつつあります』

 マニュアルを直ぐ送れ、との問いには『動かすマニュアルなんかありません』とピシャリと断り、娘を5~6種のリハで動かした人には『じぁ そのまま続けて下さい』とこれまた相手にしません。まるで動かす説明書を送ってくれとの注文と、140種より5~6種で動かしたとの自慢。このような人に貴重な記録を送ること自体、今迄訪ねてきた方々に対して申し訳ないからです。大体自分の娘を動かしたからといって自慢する親の気持が分かりません。
色々な人がいるものだと苦笑させられます。

 私は来る前に資料を送って読んでもらい、それでもなおという人にきていただきます。そこには想像をはるかに超えた厳しい訓練に立ち向かう森さんの決意とそれに取り組む姿勢を感じる筈です。
 機能を失い動かなくなった外面的、表面的の運動より、『何としても』との精神的立ち上がりと決意がなければ効果の出ないのと比例して、時間の無駄と本人が更なる挫折に傷付くばかりだからです。
 私は講演のときもそうですが、今までの記録を多くの先生方に目を通してもらっています。これらの方々に送る返事を書くときも当然です。それは医学に全く無知な素人の一言がとんでもない結果を生むのではないかとの危惧からです。
読んでいただいた先生の中からこういうご返事も頂戴しています

 全国に24の施設がある掖済会病院の髙田院長で専門は消化器外科の先生です。
『…医師という職業柄、業病と闘い、あるいは敗れ、あるいは克服して生還を果たした人達を何百人も、何万人かも知れませんが診ましたし関わったりしてきました。
 患者さん一人一人の結末は問題ではなく、それに至ったご本人と周囲の人達が何をしたか、という「経過」が重要なのです。医師の力なんて微々たるものなのです。改めてお二人に拍手を送ります。』(原文のまま)

 森さんはこの髙田先生の手紙を額に入れ、リハビリルームに架けて頑張っていました。
 森さんを知って訓練に取り組み、その結果、立ち、歩くことは出来なかったかも知れません。しかし今まで諦めて寝たきり生活から精神的に起き上がったその大きな気持ちの転換こそ、自分を誉めてやるべき成果と思うのです。
 ただはっきり言えることは成果が無いどころか、何もしなかった1年と、精一杯頑張った1年が同じであろう筈は絶対あり得ないということです。
 森さんは今迄いらした方々、問い合わせのあった人達全てにほんの数行でも返事を差し出して励まし続けています。当然この数行が限界だからです。
 いくら私がこれらの方々に叱咤激励しても地獄の葛藤は無いし、まして手足が動く健常だからで、そこには取り払うことの出来ない天と地の差があります。ところが便箋にほんの数行の森さんの励ましの文字から、彼らは奮い立ち、訓練に敢然と立ち向かう決意を伝えてきます。
 歩く事を奪われた人達。手の自由が利く人達にかつて瞬きだけだった森さんが手紙を書いて励まし続けているのです。

 ここに自分の気持を文字という形に表す、というただ一点にだけ絞った厳しい訓練の軌跡があります。
そのグイ!と迫ってくる激しい気迫を見ていただきます。この特訓は指がまだまだ開かない棒状の手であり、当然手首は鷲手で固いままでした。
1995年1月。つまり事故以来2年9ヶ月経ったときです。私は先ず太いサインペンを弾力包帯でグルグル巻きにして手に縛りつけました。そして一番簡単な横棒線を引かせたのです。

(※写真は掲載しておりません)
①   森さんが脳に命令したこれが直線です(95年1月)。
その一ヵ月後手が僅かに横に伸び横線らしくなりました。
②(2月)更に一ヵ月後、一気に三角を描かせました。
③今までとは比較にならない難度の高さです(3月)。同じ三角の一ヵ月後です
④同じじゃないかと思うでしょうが全然違います。④の方が綺麗な二等辺三角形をしていて何より線の太さが均一になっています。これは筆圧の加減を覚えたからです(4月)。今度は句読点をやらせました。
⑤簡単と思われるでしょうがこの『・』が非常に難しいのです。なぜなら手首が上がらなければ絶対これは描けません(5月)。
⑥(6月)更に高度になり筆を止めないで□に挑戦させました。
⑦(7月)そして最も難しい〇を描かせたのです。。私はこれで手の方は何とか助かると思ったのです。〇を描けるという事は当然肘と手首が僅かに回転した何よりの証拠だからです。

いよいよ最後の仕上げとして自分の名前を書かせました。
30分以上もかけてついに名を書き通したとき、森さんはとうとう耐え切れず泣き崩れてしまいました。
そこには瞬きだけだった森 照子という自分が紙の上に蘇ったからでした。
それをこの手で書いたという信じられない事実をはっきり確認したからです。
片仮名と違い直線と曲線が入り混じる(な・を・ね・ぬ)これにはつくづく泣かされました。

 文字を書くというただ一点に全魂を傾けて、一日6時間、一ヶ月ずつ、横棒線から始まり9ヶ月掛けてついに自分の名前を書いたのです。
森さんは事故前、素晴らしい達筆でした。
しかし私はこの文字を書くという特訓を自分の名前を書いた時点で止めさせたのです。それは指先の癖を何より怖れたからです。
これは全ての力をただ一点に指先に絞るために固く折れ曲がり元に戻らなくなるためでした。

先ほどの髙田院長からの返信です。
『森さんのお手紙を拝見致しました。全身の筋肉をただ一点指先に集中したであろうあの手紙、あの文字は書道大家の揮毫をはるかに超えたと思っています』
 院長が言った『そこに至るまで本人と周りの人が何をしたかという経過が何より重要なのです』とのあの言葉を必ず添えて森さんは自筆で励ましてやるのです。

ここに1999年の年賀状がありますので比べて見て下さい。
棒の手にサインペンを縛り付けてから4年。森さんの頑張りが何よりこの文字に表れていると思います。
(※写真は掲載しておりません)


■執刀医との再会    

 1998年6月。森さんは事故以来何時の間にか6年が過ぎました。この年は私達にとっては決して忘れる事が出来ない数々があった年です。二回の講演、三回の新聞報道。全道各地からの来訪と本州からの問い合わせ。その応対とレポートの作成、写真撮りなどで密室に外気がどっと入ってきたからです。
 あれ程恐ろしかった痙性・反射は嘘のようにピタリ!と治まり、ゆっくりですが確実に機能が回復してきているのが分かるようになってきました。
 不思議なことに、一旦指令が脊髄を流れるとその反応振りは目に見えるように二ヶ月単位で分かります。しかし、ある一定のレベルまで上がるとまたピタッ!と止まってしまい頑なに返答を拒みます。
 ですからなだらかな右上がりの曲線ではなく指令が流れた時にグン!と、弾みが付き、また、ピタリととどまるいわゆる「階段上がり」です。

 この時『あぁ 森さんはここまでが限界だった』と痛切に思います。お互いこんな辛くて厳しい訓練からは一日でも早く解放されたいと思いますが、実はこの時期は神経が一生懸命考えている時であり、それを乗り越えるとまたジワリと上がって行きます。これが分かるようになってきました。
 6年間この繰り返しでした。ですから諦めたら最後であり、今迄何回も『あの時諦めていたら』とゾッ!とする事はしばしばです。
いくらか心の余裕が出て来たこの頃です。
私達の頭から常に離れる事がなかった強い思いがありました。

 それは6年前に手術した先生になんとしても会って今の森さんを見てもらいたいという念願です。
手術の日、森さんがストレッチャーで名前を聞いた先生。札幌に転院するとき消灯時間後フトンを叩きながら『大丈夫。森さんは強いから頑張れる。大丈夫!』と励ましてくれたあの藤本先生です。
 森さんを担当して間もなく辞め、色々な病院を経て、現在北海道でも有数な規模の総合病院の脳外科に勤務している事が最近分かったのです。
 私は藤本先生にどうしても聞きたいことが沢山あったのです。実際の執刀医しか知り得ない当時の状態と障害程度。どのような手術だったのか。森さんの今後をどのように予測していたか。現在の病院では脊髄損傷の内でも頸髄損傷を主に手がけている、というその豊富な経験と脊損患者さんの状態。そして6年後の森さんを見てどう思われるか。

 何より私が聞きたかったのは『大丈夫!森さんは強いから頑張れる。大丈夫!』と確信を以って送り出してくれたその言葉の真意です。単なる慰めとはどうしても思えず、今の森さんを予見していたのかどうか…。
 健常者を100とすると、ようやく手が動き物を握れる状態が25。支えを必要とせず立っていれる状態が50。バランスをとり前進できるのが75。森さんの場合25どころか瞬きだけで限りなくゼロに近い状態でありながら常に励まし続けてくれた藤本先生になんとしても会って一言お礼を言い、頑張り抜いた6年間の今の姿が何よりの恩返しと思ったからです。


□1999年1月の記録から書き起こして行きます。

 資料を送りましたら早速『会いたい』と連絡があり、この年の1月31日、私達は6年ぶりで再会しました。森さんは椅子に座っていつものように体中で笑い先生を出迎えました。

『おーっ 森さん!』先生はそう言うなり、顔には驚愕がサッ!と走りました。ベルト無しで首がしっかり据わり、しかも挨拶するために頭を下げたのを見たからです。瞬時に見抜いた脳外科医の目です。
『先生。当時の森さんの状態と手術など、6年経った今でも覚えていますか?』
『勿論覚えています』その確かな答えには職業意識と同時に忘れがたいそれほど酷い症状だったことが窺われます。
『それで臨床的にはどういう状態でした?』言下に『最重篤障害でした』『どのように?』『既往症のOPLLで折れた靭帯が脊髄を傷付け更に頚椎で圧迫されていた状態でした』
 この時点でみるみる顔が浮腫み、呼吸器というギリギリの選択であり、島田先生はこの腫れをステロイドで叩き、呼吸停止を抑えてくれたのです。

 私達は緊急手術とてっきり思ったのですが、もう少し様子を見ましょう、と言われたので、思ったほどでもないと少しは安堵したんですが』『それほど酷かったのです』と言い、その間の事情を初めて詳しく教えてくれたのです。
『搬送された当時の状態からみて、今手術してもいい結果を得るどころか逆に刺激を与え、より重篤になると判断したのです。そのためカンファレンスでは手術中止の結論まで出たのです』
まさに森さんの命はこのとき風の前で微かに揺らめいていた、か細い命の灯火そのものです。
その手術は話を聞いただけでも寒気がする緊迫感です。

 脳神経は勿論、脊髄も術野に入るためにドリルで骨を削る際、その僅かな振動にも重大な影響を受け、しかも削る時の摩擦熱にも敏感に反応するといいます。邪魔な脳を静かによけて進む時、神経はその圧迫に耐え切れない場合があり、ましてメスの背中でちょっと触れただけでもどこかが麻痺してしまうという命を削る作業だという事が分かりました。
『森さんの手術で一番印象に残っている事はなんでしょう?』
『今でも忘れる事が出来ないのは骨を外した途端、脊髄がポン!と飛び出してきた事です。それを鮮明に覚えています。』
圧迫され、逃げ場がなくなった脊髄が骨を外された為、一気に解放されたからです。

 『いま現在先生の所にC損患者はいますか?』『勿論います。4人です。それも年々増えてきています。』
『森さんより酷い例は?』『当然あります』『どのように?』『ベンチレーター(呼吸器)です』『呼吸器を外すリハ?』『血圧がゼロになります』『後の3人は?』『森さんより軽いです』『軽いといってもどの程度ですか?』『完全四肢麻痺です』
これが高位頸髄損傷の本当の怖さ、恐ろしさ、残酷さです。

 藤本先生が担当している頸髄損傷のこれらの方々は森さんより「軽くて」完全四肢麻痺。他の方は呼吸器を外すと血圧ゼロの状態。その呼吸器を外してウィーニング(自発呼吸)に漕ぎつけることさえ出来ない目を覆う重篤症状。これは当然ですが当時の森さんは呼吸器スレスレの状態であったわけです。
 私が一番聞きたかった『そのような患者さん、家族の方に先生は何と言いますか?』先生はじっと考え『とにかく結果を聞きたがります。何時治るか、何時立てるか、そして何時歩けるか。このような途方もない事を聞きたがります』『これは本当に途方もない事です。しかもそれを早急に私の口から直かに聞きたがります』
やはりそうでした。6年前の私です。

 『で、なんと?』『…そこが悩んで行き詰まっている所です。臨床的に機能回復の可能性はありません。仮に立てたとしてもこれは途方もないはるか彼方のことです。しかし、無責任な希望を与えてもなりません。これは取り返しのつかない結果になるからです』『その判断は?』これこそが私の核心です。
『…この厳しい現実を受け止められるかどうか。それは私が患者さん、家族の方を見て判断します』

 6年前、森さんを執刀医した藤本先生はその障害の程度から臨床的に回復不可能と判断し、立つなどとは途方も無い事だったに違いありません。
 頸髄損傷を専門に手がけている第一線の脳外科医にしてこのように『途方も無い』と何回も連発している先生が『大丈夫だ!森さんは強いから頑張れる!大丈夫!』と確信をもって送り出してくれました。当時先生は『ひょっとしたらこの人は立てるようになるかも知れない』と森さんと接しているうちに出たのがあの言葉ではないかと私は思います。
 それは森さんの持つ天性の明るさ、度量の広さ、そして立ち向かい強さを医学者、科学者以前の目で感じ取っていたのではないかとも思えるのです。

 『私は先生に、このような酷い状態でリハに頑張り立って歩いた例はありますか?と、今思えば全く馬鹿げた質問をしました。先生は一瞬困った顔をして、ない事もないのです、と言ったのです。 その時私はあぁこれは本当に無いのだ、とここで絶望を確認したのです』と言ったところ『……。』
『しかし、私はその嘘の言葉を信じ、それだけにすがり6年間頑張ってきたのです』この言葉を聞き、先生は深く考え込みただ黙って万感の想いを巡らせているようでした。

 手術前から、そして手術後も『もう動く事は無いだろう』と判断してもなお『無い事はない』と言った相手を思う優しさ。患者が一番求めている人間的な温かさ。病める者、傷付いた者の心をもった医師。その視点で接してくれた人間性。それによって培われたお互いの信頼関係。改めて『いい先生と出会って…』との感を深くします。
 色々な病院を廻ってきた先生にとって森さんは何万人かの患者の一人です。しかし絶望に喘いでいた当時、島田先生、札幌のK先生、村井先生、そして藤本先生。これらの諸先生の人間性の温かさから滲み出る言葉は絶対的な信頼でした。それを心の支えとして森さんは私の異常とも言える厳しい特訓に耐え抜いて来たのです。
 しかも藤本先生はこうも言ったのです。『森さんは脊髄の上の方、それも表面に傷を受けたから手はちょっと厳しいかも知れない。望みがあるとしたら足のほうです』。
『手はちょっと厳しいかも…』『望みは足』なんという温かな言葉でしょう。
 前に書いたように藤本先生はフラッとさりげない様子で部屋に入ってきて何も言わずフトンの裾をポンポンと叩いていくのが常でした。『…恐らく今の病院でも同じ事を』と思うとジワッと熱いものが目に迫ります。

 夜中に村井先生がきます。手術着のまま森さんの顔をじっと覗き込み、起こさないよう静かに帰る姿に、森さんは申し訳なく寝たふりをしていますがその温かさにいつも涙がツーッと流れると言っていました。
 当時はその症状に加えて真夏であり、時々呼吸が苦しくなり、肩で喘いでいました。藤本先生は『僕が付いてる。安心していい』と看護師さんに指示して酸素マスクを付けてくれるのです。途端に傍から見ても顔が和らぎ、ゆったり息をしていました。
 医師としての良心。心の崇高さ。その真摯な姿に『このような先生方に診てもらえたから頑張れた』と心が濡れてきます。これこそ深く傷付いた心と身体を救ってくれた恩人だからです。

 転院先の札幌の病院は周囲がビル街です。狭い部屋に6人が寝ていました。
 窓際はおばあさんであり、窓を絶対開けようとしませんのでその息苦しさには耐えられません。みな休憩室、あるいは外に出る人もいます。いつも森さんは一人ぼっちで寝てました。『息苦しくて…酸素マスクを』と頼んだところ『そんなの何の意味もないよ!』とピシャリと拒絶されたのです。これは単なる個人の人間性の違いなのか。
 この余りに大きな隔たりは一体なんなのだろうと、その対極に8年経った今でも体が震える憤りと、言い知れぬ索漠とした寂寥感に襲われます。

 前に書いた規則外に髪を洗い厳しく叱責された看護師さん。非番に外に連れ出し咎められた看護師さん。二度に亘り森さんを救ってくれた恩人。これらの方々はあの病院を辞めた後、当時よりずっとずっと大きくなって温かい気持で患者さんに接しているだろうと思う時、切ないほどの感謝で、手を合わせ拝みたい気持が突き上がります。


■心の中に温かい陽ざしが     

  藤本先生にこれまでの経緯を説明して、私が聞きたい全ての事を聞いた後、いよいよその回復振りを見てもらいました。森さんの執刀医であり、現在は頸髄損傷を主に手がけている脳外科医の目で見てもらうのです。
 立ち、歩き、見事な寝返りと床運動。健常者と何ら変わりない前屈、後屈運動。渾身の気合を込めて手を肩迄上げる森さん。障害物乗り越え。自力椅子立ちと座り。そして最も危険な自立歩行。
 私も森さんも傍にいるのが執刀した脳外科医との意識は訓練が始まった途端全く無く、いつも通り張り詰めた緊迫のなか、檄が飛び交い鞭が鳴ります。

 先生は立ったまま腕を組み、ジッと見据え全くの無言でした。時折『ハァー…』『これは…凄い!』『うーん!』この繰り返しだけです。私はそれを聞き『頸髄を深く、広範囲に損傷した人が歩くという事は本当に稀有なことなんだ』と思ったのです。
 この手で手術したかつての最重篤患者が目の前で次々と見せる動きに完全に言葉を奪われ、呆然と見ていました。絶句という表現はまさにこの事と思ったのです。

 『先生。この動きをどうみますか?』『驚きです。全くの驚きです』『動くという事は神経が繋がった何よりの証拠と思うのですが』『全くその通りです』『ではどうして繋がったのでしょう?』『恐らく損傷を免れた残りの神経がリハにより活性化したからと思われますが』『その他に刺激によってバイパスの迂回路伝達、あるいはニューロン・シナプス・アセチルコリンなどの神経伝達物質の活性化による再生、という事は考えられませんか?』『それは末梢神経段階では可能と言われていますが中枢神経となるとちょっと、だけどこの分野はまだ分からないことが本当に多いのです』

 先生は帰り際『森さんのような症状の人が訓練の結果、電動車椅子に座って自由に乗り回せる状態になっただけで顕著な回復例として学会に発表する充分な価値があるんです』『え! 電動操作で学会発表…』
 それを聞き『…立たせ、歩かせたのは私達がやったんじゃない』と錯覚し、立ち眩みを催し、茫然としたまま思考が停止してしまいました。
 当時『どんな患者さんでも3ヶ月もすると何らかの兆候が出て来るものなんです。しかし森さんにはそれが一切ありません。従ってうちの病院では医学的に施しようがありません』『引き受けてくれる病院はこの北海道では恐らく一軒も無いはずです』これらの最後通告を私は森さんには一言も言っていないのです。それは屍に鞭を打つからでした。
 逆に『泣けるだけ泣きな!そのうち涙の出ないほどリハで締め上げ、絶対動かす!必ずやってみせる!』と凄まじい憤怒で言い放ちました。森さんは寂しそうに『うん…うん』と目で頷いていましたが一杯涙が溜まっていました。嘘と分かっていたからです。

 その後私が課した特訓はこの言葉どおり、いや、それをはるかに超える峻烈過酷なものとなりました。
涙が出るどころか泣きそうになっただけで『…何か勘違いしてるんじぁ無い?足を出すだけで3年掛かった!瞬きに戻るのはあっという間だ。それでよかったらいま直ぐベッドを下ろしていい!』ビシッ!と撥ね付けます。
私自身『…もっと別なやり方は無かったのか』と胸が傷み後悔する事はしばしばです。

 森さんが歩けるようになったのはこの厳しい訓練は別として、その時その場面での出合いという点があったという不思議さをいつも感じます。しかも極限の分岐路に立たされた時ほどこの方達が明確な方向を示してくれる幸運に驚きを感じます。

誰しも人との出会いはあります。しかし森さんの場合、その点を何時の間にか線という信頼関係まで繋げる独特の人間性を持っている人だと強く感じます。
 島田先生、村井先生、藤本先生、K先生、婦長初め看護師さん。二回にわたり間一髪を防いでくれた札幌の看護師さん。まだまだあります。
 痛い時、痒い時ほど笑わなければならない人からは心のケアの大切さを学び、不幸にして亡くなった天女のような奥さんと個展を開いたご主人からは震えるような命の尊さと感動を与えられました。
 更に森さんの所に訪ねてきた多くの方々とご家族。そして励まし続けてくれた友人達。これらの方達の善意と励ましが私の厳しいリハビリに挑む心の支えとなっているのです。

 訓練最中は決して上がってはこず、入り口に森さんの好物の焼きたてパンをそっと置いていく人。リハ最中には電話は絶対かけてこず、定期的に励ましの手紙を送り続けてくれる人。季節の旬の果物、珍しいお菓子、暖かい靴下とセーターの差し入れは8年経った今でも絶えません。
 元気な時、よく利用した小さな日本料理屋さんは今では成功して目の廻る忙しさです。その最も忙しい暮れの31日に豪華なオードブルを8年間、毎年欠かさず持ってきてくれます。『…余りに勿体無くて…。』と不自由な手でじっと拝んでいるのです。

 更に健ちゃんは森さんが島田病院挙げてお世話になっている事を知っていますのでクリスマスの時、全職員は勿論、患者さんの分までケーキを届けます。それも自分の名は一切出さず『森 照子』で。

11月8日は森さんの誕生日です。
毎年この日になるとリハルームは驚くほどの花と贈り物で一杯になるのです。道内・本州からインターネットで森さんを知った同じ脊損者の方々からの誕生プレゼント です。その花と贈り物に囲まれて、森さんは立ち、年賀状用の写真を撮るのを恒例としているのです。それを見るとき『…あぁ この人には本当に幸せが寄ってくるんだ』とつくづく思います。

 健ちゃんは父母の命日にお寺に行けない森さんに代わり、朝一番にお参りして娘の回復振りを報告していたことが大分経ってからお寺からの連絡で分かりました。
 『姐さん。頑張ってくれ!俺は何としても広いリハルームとゆったりしたお風呂を作ってやる』と自分の事を投げ打って懸命に頑張ってくれています。訓練の事は自分では何も出来ないでいる切ない気持からなのです。
『私が逆な立場だったら8年間とても…』といつも泣いています。先代にたった数年使われていたこれまた不思議な縁です。

 これらのことを知るにつけ、全てを知っている積りの私でさえ『森さんは一体どういう人なんだろう…』と思うときがあります。
 藤本先生は帰り際、不器用に『何にしたらいいかと思ったけど これ…』と言って大きな包みを差し出しました。開けてみたらいかにも温かそうな膝掛け毛布、そしてふっくらしたカーディガンが入っていました。
 
 この6年間『早く2月が過ぎてくれれば』と私達はただひたすらそればかりを思って過ごします。
北海道は冬の前触れの11月下旬の寒気がジワジワ森さんの身体に溜まって積り、2月の厳寒はそのピークに達して身体を硬くします。それほど脊髄に深い損傷を負った森さんにとっての2月の厳寒は辛く厳しいものです。
 部屋は当然完璧な暖房と床暖を施していますが、窓を開けられないため空気の乾燥と何より夜間と朝方の冷えです。その日の寒気と体調を合わせる訓練の調整には実に神経を使います。逆にいうとこの2月さえ乗り切ればもう大丈夫なのです。

 その2月の下旬、私の兄との間に交わされた今までの膨大な手紙を見せました。兄は札幌に住んでいてその家族共々森さんの事をいつも気に掛けていました。
 弟に任せっきりで自分は何も出来ないでいる気持から励まし続け、その回復振りを切に願っている様子は本当に頭の下がる思いがします。そして私自身、森さんが怪我をした時から兄には励まされ続けて来ているのです。

 3時を過ぎて厳しい訓練が終わりソファーで仮眠をとるか静かに音楽を聴き、あるいはビデオを見る時間帯です。森さんは不自由な手にゴムキャップをつけてページをめくっています。長い時間を掛けて読んでいました。
美子は音を立てず静かに食器を洗っています。ようやく読み終わり、顔を上げた森さんは深く考え込んでいました。

 ポツンと『済みません。…カーテンを少し開けてくれませんか。このまま外の陽をみていたいのです』
森さんはその日、一言も喋らず、僅かに春めいてきた外の陽をカーテン越しに何時までも何時までも陽が落ちる迄見ていたのです。
膝には暖かな毛布、そしてふっくらしたカーディガンを着込み…。



■6年目の衝撃的な事実

 1998年1月2日。私は今までの訓練の比率を足30%,手70%に変えました。
 それは前年の12月暮れに島田先生は森さんの歩きをじっくり見て『もう歩きに関しては完成したのではないかと思います』と言ってくれたからです。

 藤本先生が来て間もなく『第二の先生は森さんの手術の際、命を削る思いがしたと思います』島田先生はこう言って何気なく『森さんの首の骨は後ろ側全てにわたって無いんです』それは私も知っていました。しかし打撃の大きかった3~5番までと今迄てっきり思っていたからでありこれは初めて聞く話です。『えっ!2~7の全部ですか?』『そうです。今度精密な写真を持ってきましょう』

そのフイルムに映し出された森さんの首。そこには延髄直下、2~7番までごそりと削り取られた素人でも分かるまさにがらんどうの首でした。『あぁ…一番も削ってるんだ』と先生は言い、しかも戦慄したのは不気味にへばり付き、骨化し白質化したOPLLの陰影でした。
更に決定的な衝撃を聞かされることになります。
『あの状態では恐らく2~3日で呼吸は停止するのではないかと予測していました』『手術で命を取り留めたとても、枕から頭を上げることは恐らく出来ないだろうと思っていました』
『で、どうして今頃?』『それはこのことを最初から右近さんに言ったらリハビリは絶対やらなかっただろう、と私は思ったからです。』
先生はじっと私の顔を見て『…それでもやりましたか?』
私は顔色を失いました。

 当然ですが医学に全くの素人の私は脊髄損傷の何たるかは知りませんでした。ただ中枢神経であり、一旦損傷されたら回復すること無く麻痺するとの認識でした。まして頸髄損傷はその中でも最重度くらいの知識だったのです。それが入院中色々な先生に聞き、関連する本を読み資料を集めている内にこれは大変な所を直撃されたと慄然としたのです。
 脳の一部であり、指令と意志を運んで身体を動かし、しかも内臓器官への調整と働きはまさしくこれはライフラインです。首の後側の骨が全て取り去られたという事は当然骨という「蓋」が取り外された剥き出しの脊髄だからです。
 
 私が知識を得ようとしたのは、訓練を行う上でどうしても行き詰まり、そのメカニズムを知る必要に迫られたからです。そうして分かった事は脳からの考える意思を伝え、それを動きに変える神の領域という聖域であり、畏怖さえ覚えたのです。まかり間違うと即、死か、二度と動かなくなる危険この上ない激しい訓練を6年以上にも亘って続けてきたのです。

 私が頸髄損傷の何たるかを人並みの知識に追いつき、その怖ろしさに震えた時、森さんはもう立って歩いていました。ここから私は『絶対失敗は許されない』と肝に命じ、精神を一点に凝縮して一切の雑音を排除し、息を詰め、剃刀の刃をわたる精神訓練に切り替えたのです。
 『今まで4回転倒して奇蹟的に首への衝撃を免れました。もしこの奇蹟が無かったらどうなってました?』
 『それは当然後の骨が無いわけですから丁度ダルマ落しの原理で前の骨がスポン!と抜けるかも知れませんし、運がよくて事故直後の状態に戻るだけです』
 更に『第二での手術の際、後の骨を全部取ったという事は取りも直さず一生枕から頭が上がる事は無いと想定した手術だったのです』『医学書には人間の頭は首の前側の骨と頸部筋肉だけでも支えることはできると書いてありますがその通りでした。』

2~3日で呼吸は停止するかもしれないとの予測。
その首は枕から一生上がることは無いだろうという想定のもとでの手術。
そしてこのことが医学書に記載されているという稀有な例。
『退院してしばらく経って首が据わり、頭を下げて頷くのを見てびっくりしました』
どうりで藤本先生が森さんのベルト無しの座位姿勢と頭を下げて挨拶をした時のサッ!と走った驚きの表情がいま分かったのです。
 素人の希望的な観測等木っ端微塵に打ち砕く驚くべき医学的事実でした。先の藤本先生の言葉といい、6年後の今、次々と明らかになった衝撃的な事実に私達は息を呑み、膝が崩れて目眩がする思いでした。

 私には6年前の忘れることが出来ない一場面が目に浮かびます。
 札幌に入院していた時です。藤本先生が『ちょっと大学まできたから』と言い本当にさりげない様子でお見舞いに来てくれました。この当時は第二に入院していた頃より全身状態、精神状態共に最悪の時でした。先生はベッドで瞬きだけの森さんを全くの無言でジッと見下ろしていたのです。
『…第二の時と比べどうですか?』とは素人の私が聞かなくても分かります。

 この衝撃的な事実を聞かされ、あの時の先生の無言の胸中が今、はっきり分かりました。もう引き取ってくれる病院などあろう筈はありません。いずれ退院させられ自宅で寝たきりの生活。身体を蝕む褥瘡。関節は拘縮を起こして躯体は硬くなりベッド上でのトイレと清拭。
 枕から頭さえ上げることは出来ず、内臓機能は衰退して基礎体力は極度に衰えて抵抗力を失い、いずれは手に負えずどこかの施設に引き取られて行く余生。ベッドで悶々としながら朽ちていく身体と心。その余りの酷さに訪ねる人もいなくなり、瞬きだけの一生を終える森さんを見たはずです。
『…森さんは強いから大丈夫、頑張れる!』と送り出したかつての患者の全く意外な哀しい姿をそこに見たはずです。

 もし私が訓練を行う前にこの事実を島田先生に聞いていたら立ちへの特訓は決してやらなかった事だけは断言できます。脊髄という脳の一部とも言うべき人間としての最重要器官が後側の骨、全てが取り去られ、いわば剥き出しの状態での歩きと寝返り特訓。これは正気の沙汰ではありません。
 どうりで藤本先生が森さんの所にきた時、『森さん、ちょっと傷を拝見しますよ』と言って髪の裾をかき上げた途端『おっ!』と言って手を払いのけて飛びのいた姿を思い出し『…そうか。この事だったんだ』と初めて納得したのです。

 杖の滑り、足のもつれ、痙性と反射、腰砕けと目眩。転倒する条件はいくらでもあるのです。しかも手、足で咄嗟の防御姿勢をとれないその身体はまともに棒倒しになり頭を直撃します。
 今までにも数え切れないほどのあわやがありました。その都度私と美子が飛び込み、下敷きとなって逃れてきましたが、これだけ気を付けていても完全な転倒が4回もあったのです。この命拾いこそ奇蹟であり、ここにも森さんの強運が見られます。


立つ訓練を諦めた森さんはどうなっていたか。
足より障害の範囲がより広く深い手の訓練をやるというその発想すら浮かびません。頸髄損傷で立てるわけはない、という絶対的と言われた定説とその事実に打ち負かされ、結局はベッドから離れる事が出来た椅座位だけで終わり、ここまでが限界とお互い見極めをつけて諦めていた事は間違いありません。
 その事を最初に言ったらリハビリに取り組まなかっただろうと言う先生の真意が6年後の今、初めて分かり胸が詰まります。それは瞬きだけで一生を終える森さんを不憫に思った心からの優しさだったのです。『…なんという先生なんだろう…。』私達は俯くばかりでした。

 一人の人間の一生を左右するからこそ敢えて言わなかったこの衝撃的な事実。それ故に私も知る事がなく、言葉では到底言い尽くせない厳しく激しい訓練を6年間に亘って森さんに要求してきました。
 これが動きを取り戻す原点となったと思う時、言葉の選び方の一つ、相手を思う配慮によってこうもその人の人生が大きく転回(展開)をして決定付けられました。その一瞬に交差した森さんの運の数奇さをざまざと思い知らされます。
私は自分の感情を制しきれない感動と怖さに震え、肌が寒くなります。


■終章の無いドラマ   

  それはほんのちょっとしたきっかけで行われた1998年6月の第一回目の講演は、今思うと密室というリハルームに外気が流れ込み、私達が初めて辺りを見回したようなものです。
そしてこの年の11月に二回目の講演と報道により今度こそ開け放たれました。隔絶された場所で行なっていた息を詰めた訓練が6年ぶりに風と陽を浴びたのです。
 6月の講演ではこのための訓練として3月から始め、11月の場合は9月から準備訓練を始めていたのです。
 これは2ヶ月ごとのローテーションで一つの目標を達成するという私の訓練計画はこの年には僅か1~2月、7~8月と12月。この半年しか出来なかったことになります。しかも11月から暮れにかけ多くの方達の対応に追われていたのです。これは今迄キチッと組んでいたリハスケ(リハビリスケジュール)に慣らされていた身体にとって取り返しの付かない遅れでした。

ところが思いもよらない事が起こったのです。
体調と回復振りがなんとジリッ、ジリッと右上がりに上がってきたのです。これは全く予想外の事でした。
 今迄ごくほんの一部の方々しか知らなかった6年間の訓練が一気に公になり、何より新聞に報道された事によって地方に散らばった多くの友人から森さんの懸命に生きようとするその姿を知り『私は今迄生きているということは当たり前な事と思っていました。』『…こんなにも頑張れる森さんを知り私は自分が恥ずかしかったのです』と励ましの電話と手紙が数多く来るようになったのです。
 森さんは脊髄損傷に悩む人達には勿論、健常の多くの友達をも励ましているといった実に奇妙な立場になりました。

 私は自分の状態が今より少しでも良くなろうと必死で、周りを見る気持の余裕など全くなかった6年間でした。講演で紹介された時からつくづく思うのは、私が頑張る事によって同じ障害に悩む多くの方達にこんなにも大きな希望を与えているという事を考えますと、こうなるべくして事故が起こったと、とんでもない事を思うときがあります。また、そう思う事によって自分を励ましているんです』
ものの見方、捉え方がこのように大きく変ってきました。

 全く立てずようやく車椅子座位が可能になった時のことです。私達はデパート・スーパーに頻繁に連れて行きました。『あっ!この品物をもう少し見たいな』と思っても何の頓着なく押して行きます。
 視界からすーっと遠ざかる時、『あぁ 私は立つ事も品物を手にとって触る事も出来ない身体になってしまった…』との哀しく厳しい現実をいやというほど思い知らされたといいます。どうりで買い物から帰った森さんはいつも元気がなく、口数が少なく寂しそうに遠くを見ていたのです。

 立って歩けるようになった時、初めてこの言葉を聞き私は『そうか…疲れではなかったんだ』と立場の余りの違いを思い知らされました。それから4~5年経ち、松葉杖でデパートに買い物に連れて行った森さんは異常でした。美子にあれもこれも持ってこさせ胸に当てます。
 『どうしてそんなに』と言うと『見るものみんなおしゃれで素敵に見える』と言うのです。格別素敵でもなければしゃれてもいません。それは事故以来決して叶わなかった上からものを見る、自分が見たい角度で見るというその新鮮な角度です。
しかし選んだ物は全てTシャツでした。

 今の森さんにとってはハンドバックもブラウスも全く無縁であり、訓練用のTシャツだけが唯一のおしゃれなのです。それさえも激しい床運動で直ぐ駄目になってしまいます。
 かつて元気な頃着ていた洋服箪笥に納まった沢山のブラウス、セーターを見て『もう着る事がなくなった』と寂しそうに呟いていました。退院して間もなく、部屋を少しでも広くにと思い、必要としないものを処分しました。真っ先に処分した物。それはもう「絶対」必要としない何十足もの靴です。
 ダンボールに次々と入れられていくのを見て、みるみる涙が溢れ懸命に嗚咽をこらえていました。それは一生歩く事を奪われ、もぎ取られた足だからです。

 押入れを整理していたら中型の立派な皮のトランクが出てきました。父親が娘の修学旅行のために自転車のサドルに使う馬皮の最高級の部分で作ってくれたといいます。その中を見るのは初めてだそうで私は開けて見たのです。森さんは『あっ!』と悲鳴を上げました。
 なかには皺一つなく折りたたまれた制服。小学校時代からの成績表と共にあらゆる賞状の全てが丁寧に紙で包まれ、しまわれていたのです。
 そこには『照子の制服』『照子の賞状』その褪せることなく記された鮮やかな父の筆字をみて『私は…親不孝』と、とうとう泣き崩れてしまいました。


 1999年1月から私は最大の難関である手の訓練に取り組んでいます。この7年間で手は確かに肩迄上がるようになりました。しかしそれはただ上がっただけです。
肘から下の自由な回転としなやかさ。手首のキック、意志どおり動かせるその指。これらの機能の回復訓練ですが、今迄7年間の訓練の内、これほど複雑で難しい訓練はありません。
 指先の繊細なその動き。それはまさしく拍動し呼吸をして考える脳を持ち、知性と感性すら感じさせる余りの完璧さに驚嘆し怖れをなします。

 両手が自分の意志どおり動いたら何をさせるか。これだけはどうしてもやらなければならないと訓練を始めたときから心の中で決めていることがあります。いつもこれを言い、励まし、そして激しい檄を入れているのです。自由に電話を掛け、自分の手で食事する事ではありません。
 それは7年に亘って励まし続けてくれた多くの友人達を松葉杖で歩いて訪ねて、その手をしっかり両手で包み込むとの悲願です。言葉に尽くせぬ感謝という意思の通った手、その指でしっかり握らせることなのです。
森さんが瞬きだけの時、この方達は同じ事をしてくれました。
このほんのささやかな恩返しのために、何時果てるとも知れない辛く厳しいリハビリに頑張り抜いてきているのです。

 転びそうになった時、バランスを崩した時、咄嗟に出る足の一歩。身体を支える手。生体としての無意識の防衛反応と反射が機能しない限り、森さんは常に命の危険に晒されています。
 7年間の筆舌に尽くし難い辛い訓練を乗り越えてmm単位で這い上がってきた努力がこの一歩の足、咄嗟に出ない手のために森 照子という人間そのものが一瞬にして砕け散り、無くなってしまいます。
これさえ機能してくれると自主トレーニングは出来ます。本当にこれだけなのです。これが私にとって大きな区切りであり、この日を以って私が課した凄まじい訓練から森さんは解放されるのです。

 リハビリで終った一生というのは余りに残酷過ぎます。私が求めるのは限りなく健常者になれとの途方も無い狂気そのもののドラマです。終章という段落の目途が全くのつかない壮大な脚本。その桝目を一字一句埋めていく果ての無い作業であり、何時完結するかは私には分かりません。
 前に書いた通り、私は『今に動く!』『必ず立ち、歩かせる!』との目標という旗を掲げました。藤本先生の言葉を借りるとそれは途方もないことであり、臨床的に有り得ないことです。
 行く手を阻む障碍のため数え切れない挫折も経験しました。何とかその旗に近づこう、何とか輪郭を確かめようと滑り落ち、匍匐しながらジリジリと進んできたのです。
しかし私達3人はその旗から決して目を逸らすことはしなかったのです。それが希望です。


■座標  

 瞬きから抜け出してようやく端座位に漕ぎつけた時です。
私は『これから立って歩くための特訓に入る!』と言い『何年掛かるか全く分からないし駄目かも知れない。しかしやってみる。歩けたその時、最初に何をしたいか考えておくように』と言いました。
 これから凄絶になることであろう立ちへの特訓。途方も無い事と言われようが、何か一つ楽しい宿題を与え自らを奮い立たせる為でした。

 やっと端座が出来るようになった森さんにとっては、立って歩くなどとは想像も出来ない絵空事です。何日か経って『もし立って歩けるようになったら人と同じ目線で話をしたい』と全く意外な事を言ったのです。 
 私は『自分の意志で身体を運びたい』『外で風と陽を浴びて行きたい方向に歩きたい』とてっきり言うものとばかり思っていたからです。
しかし、この言葉の深い真意が分かったとき胸が詰まりました。

 森さんは今迄常に人から見下ろされた目線で話をしなくてはなりませんでした。相手が立っているとき見上げなくてはなりません。もし夢が叶うならお互い立った目線で話をしてみたい。これが立つ足を奪われた頸髄損傷者としての切実な願いだったのです。
 『よし!分かった。これからその願いを叶えさせてやる!』と言い、私自身予想をはるかに越えた激しい訓練にお互い身を投じて、ついに立ち、歩く事が出来ました。

 『何時森さんはそれをやるだろう…』と気になっていたのです。
 それは島田先生の往診の時でした。

 先生が来る前、『松葉杖を外して挨拶したい』と言うのです。部屋の入り口で立ち、先生を迎え『…お陰さまでこうして先生を出迎える事が出来ました』と立った目線で話して頭を下げていました。
『そうか…。最初に先生と話したかったんだ』と私は突き上げて来るものをこらえ、天井を仰いでいたのです。

 もし手が動いたら最初に何をしたいか、同じ宿題を与えました。足とは比べ物にならない無限とも言えるあれこれがある筈です。相当迷い悩む質問と承知の上です。
 しかし即座に『ナナちゃんの首に手を廻してこの手で撫でてやりたい』と言ったのです。
 第二病院から転院するとき、何回やってもズルリと垂れ下がり、とうとう抱いてやることが出来なかった哀しい深い傷は7年近く経った今でも病んでいたのです。
 今ではしっかり首を抱き、自分の手で撫で、餌をやることが出来ました。
足と手。それぞれたった一つの願いを7年掛けて見事に成し遂げました。


 森さんは自分の身体が絶望を教えてくれた時、何としても精神を錯乱にしようと頑張っていたのです。
虚ろになり、異常にはしゃぎ、一日中喋りまくり、貝のように口を閉ざして何とか狂おうと努力しました。
『まともな人間が狂おうと「しょうとしているから」まともなんだ!やれるものならよし!やってみろ!』私は突き放しました。
 この障害の特徴である脳を破壊されていないため、意識が清明というところが何よりも残酷なのです。
この事実を自分はどう受け止めてどう対処すのか。それは他人が決めるのではなく、自らがスパッ!と転換を図る割り切りがいかに大切かがこれからの生き様と思っていたからです。

 気の狂うまで悔やみ悩んで神経が繋がる訳ではありません。私の温かな? 励ましが利いたのでしょうか。それからの森さんは間違いなく何かが『ストン!』と落ちたのです。
 森さんは何とか発狂しょうとするまで自分を追い詰めました。やがてその努力がいかに無駄であったかを悟り、「無」になってからの本来その人に備わった人間として真の価値を知り、畏怖と畏敬を覚えるのです。

 脊髄を損傷する事を常に念頭において車を運転し、スポーツを楽しみ、階段に気を付けて上がり下りする人は果たしているでしょうか。私も森さんも脊髄損傷に対しては何の関心もありませんでした。
 それは雷が我が身を直撃する位の確率の低さという認識でした。いや、それすらなかったと思います。しかしこの残酷な事故はいつか誰かに、全くの予告無しに必ず襲い掛かります。
それがたまたま森さんでした。
もし私にこの災難が降りかかっていたなら、と思う事はしばしばです。
 
 私はこれだけの厳しい訓練の7年間にはとても耐え切れません。また、それを支えきる多くの友達がいるとも思いません。いかに瞬きから抜け出させようとはいえ、私が要求する過酷ともいえる訓練を、血と汗と涙、自らの身体に激しい喝を入れて圧倒する気迫でついにねじ伏せ、立ち上がり、人間の尊厳を取り戻したその努力と精神力に私は残酷な傷みを感ずる事があります。
『…こうでもしなかったら動く事とは無かった。』と自分を慰めている時があるのです。
それは訓練が終わり自宅で私の大好きなフォーレのチェロソナタを聴く刻です。

 このときこそ次に行う訓練項目を組み立て、頭でイメージして森さんになりきり、全神経を集中する私だけの精神道場です。そして実際にやってみます。しかし、このように自宅で音に浸っている時、常に頭から離れず気に掛かる事があります。
 森さんを知り各地から多くの脊髄を損傷した方達が訪ねて来ました。またそれ以上に手紙、電話FAXの問い合わせがあり、全ての資料をお渡ししました。
 『…今頃あの方達はどうしているだろう』『森さんを知らなかったほうがかえって良かったのではないか』との後悔にも似た落ち着かない不安です。

 そのような時、前に紹介した府中でバイク事故により脊髄を損傷した青年の言葉を思い起こします。
『右近さん。私がここに来てもう4時間くらい経っています。この間、全国で確実に交通事故が発生してそのうち何人かは私のように脊髄を損傷して悲嘆に喘いでいる人は間違いなくいると思うんです』
私はこの青年の言わんとする事が分かります。
 自分は医師の宣告によりリハビリを諦めてしまったが、森さんの実態をもっと世間に広く紹介し、自分の二の舞を防いでくれといっているのです。

 『これをインターネットで公開してもいいですか?』と何回も念を押していたからです。我が国の脊髄損傷患者は10万人と言われ、そのうち森さんのような頸髄損傷は75%を締め、しかも年々5,000人ずつ増えていくという戦慄すべき現状です。これらの方々は生きるのに精一杯です。
 前に紹介した掖済会病院の髙田院長も『このような貴重な体験は何らかの形で印刷物にして広く知らしめるべきだと思います』と言っておりました。
 私は何で森さんの記録が『広く知らしめるべき』なのか当時は全く理解できなかったのです。何回も言うように森さんを立たせ、歩かせたからといって大それた事をしたとはただの一度も思っていなかったからです。

 当時の私はインターネットはやっておらず、また訓練漬けの毎日であり、これ等の情報を知る心のゆとりと時間さえなかったからです。しかし、新聞に報道された途端、私達は全く予想もしなかった大きな波に翻弄されて肝心のリハビリどころか、私自身が目標を見失いがちになりました。

こんなにも多くの脊髄を損傷した人がいるとの驚き。本人と家族の悲鳴。
しかも何ともやりきれないのは殆んどが20歳代の人生を謳歌すべき若者達でした。50歳後半の森さんが激しい気迫で立ちに挑んでいる時、完全四肢麻痺を宣告されたこれらの若者達は、人生のまだ三分の一にも達しない年代で在宅のまま寝たきりとなり、終日全介護のままの一生となる無念さ、その残酷な生涯。
 受傷数年も経ちながらあの事故の一瞬がフラッシュバックとなって鮮明に蘇り、夢にうなされ、枕が涙で濡れている、と多くの方が言います。その夢とは失った手足を「歩きながら」さまよい、血眼になって探している自分であり、ついに見つけることが出来なかった無念の涙です。そして目が覚め、躯体から伸び、機能を失った我が手足を見たときの身を捩る現実の涙なのです。しかも頬から流れ落ちるその涙さえ彼等は拭うことは出来ないのです。

 『この姿のままで死んでたまるか!』幽鬼のように叫び、血を吐く呻き声が私の耳に残響としてこびりつき、癒えることはありません。その彼等に接するとき、慄然とする深い哀しみ、例えようの無いのめり込む悲嘆、そして残酷な重圧におののきます。
公となり、この厳しい現実がどっと押し寄せて来ました。
しかし、森さんを見て、私の膨大な資料を読み、その反響からこう思ったのです。
今迄なす事も無く、ただ波に翻弄されて疲れきって舵を投げ出した人が、ここで大きく進路を転回させて自分の進むべき方向に今、ピタッと座標をあわせたな、という確かな手応えです。


■娘を思う親心  

 いま、森さんは力強く上腕を繰り出し、上体を心もち前傾させ私の目の前で歩いています。6年経った今、この松葉歩行での身を縛りつけられるほどの緊迫感が大分薄らぎ、余裕を持って見ることが出来るようになりました。
 毎年のことですが、事故日の6月6日になると不思議と退院直後の一場面が鮮やかに蘇ってくるのです。

 それは1994年6月のことです。札幌からの退院はその4ヶ月前の2月1日でした。『例え一週間でもいいから家に帰り仏前にお参りしたい』というのが唯一の我が儘であり強い願いでした。事実『これで死ねたら私は本望です』とまで言っていたのです。
その年の6月23日。この日は父親の命日です。これは森さんにとって一番大切な年でした。それは父親の33回忌・母親の27回忌法要の年で、怪我をする前から『自分の人生の節目としてこれだけはキチンと済ませたい』と口癖のように言っていたのです。それが法要どころか瞬きだけで帰ってきたのです。

 退院4ヵ月後の全身状態と精神状態は誰が見ても『これは間違いなく一生ベッド生活だ』と分かり、どう考えても無理であり、それを一番良く知っているのは当然本人です。法要に関して一言も言いません。しかし、私は最後となるかも知れないこの願いを何とかして叶えさせてやりたかったのです。
『よし!法要をやる。それもお寺で!』森さんは信じられない顔で驚愕していました。が、やがて実に穏やかな和らいだ表情がゆったりと顔に広がってきました。
 お寺でやるのには大きな理由がありました。それは永年功労者として父親の写真が本堂に飾られているからです。

 当日、車椅子に身体中を晒しで縛り付けて急な階段を一段一段運び上げました。薄暗い本堂の高い鴨居から父親の大きな額が見下ろしています。
 その写真はリハビリルームに飾ってあるいつも見慣れた穏やかな表情のものと別であり、口元をぐっと引き締めた晩年の父親の厳しい遺影でした。
それは異様な光景でした。
父親が意志のある目でジッと我が娘を厳しく見据え、それに粟立つ戦慄を感じたのです。
瞬きだけになった娘に『お前はこうまでして生きていかなければならないのか…』父親の胸の張り裂ける切なさが伝わってきます。

森さんは激しく打たれついに一度も顔を上げることは出来ません。
住職が遠くから歩いて来ました。
この住職は大変な人格者で父親も心から尊敬し、そして住職も慕っていたのです。
読経前『何としても立たせてください』とせがまれ、私と美子がしっかり腋を固めて立たせます。

霊前に深く一礼して読経を始めようとしたその時『ウッ!』と押し殺すような呻き声を発して住職は泣き崩れてしまったのです。袈裟がフワリと打ち崩れ、畳に突っ伏してしまいました。その読経は両親の張り裂ける胸の内を絞り出し、涙声で震え、かすれて途切れ途切れとなり、ついには絶句し『…すみません。もう私はこれ以上…。すみません。』と逃げるように立ち去っていったのです。

 突き上げて来る激しい嗚咽で森さんの身体はグラグラ揺れます。
崩れ落ちるその身体を支えながら『…このような辛さと切なさ、そして哀しみは今迄あったろうか。これからもあるのだろうか』と、その余りの残酷な仕打ちが胸に突き刺さりました。
 『すみません。…すみません…私は 本当に…すみません』シンと静まりきった本堂で森さんはしきりに両親に何回も謝り続けていたのです。参列した全員から凍り付く無念の嗚咽が漏れてきました。

 この時から6年の歳月が流れ、今こうして私の目の前で見事に歩いている森さんを見ていると、つくづく思うのです。
 『森さんが立ち、歩き、手が動いたのは私の厳しい訓練だけだったのか』他のもっと大きな力『本人が頑張り抜いてきた精神的な支えはこの両親ではなかったのか』と思うのです。
 身体を支え、足を持ち上げて背中をそっと押し『よし!立ち上がりなさい!』と立たせてくれたのはこの両親に違いないと思われるほどの強い絆を感じ私は打たれます。
 この人達の慨嘆、張り裂ける胸の内を具現化する為に厳しい訓練を強いた私も又、両親に動かされていたのではないかとの深い感慨です。

 森さんはある時『私にとっての宗教は両親です。』と言いました。その言葉は私には充分頷けるのです。
あの悲惨な状態から抜け出せたのは『なんとしても立ち、歩く』との執念です。そのために只ひたすら厳しい訓練に耐えに耐えてきたのです。
 努力・頑張りなどの文字の一言ではとてもは言い表す事は出来ません。それほどの忍耐と根気、何より信念が伴う精神の統一を必要としました。その気力を支え続けたのが両親であり、それを宗教と言っているのです。

 私は今回、様々な障害と病気に苦しむ数多くの方達を知りました。それは脊髄損傷のほかに国が認定した原因不明の様々な病態でした。
 最初、肉親は勿論、友人、知人などの献身的な介護と励ましがあります。しかし、この病気が何十年と長引き、その結果、原因もわからず治療法の確立が無く、治癒が絶望的と分かったとき、一人去り二人去り結局は肉親のごく限られた人に余命を委ねる事になります。そしてその肉親もまたついには介護に精魂力尽き、共倒れになった悲惨な例を何人も知りました。

 森さんの場合ついぞこれが無かったのです。立てるまで今迄どれだけの人が涙を流してくれたでしょう。
ベッドから起き上がる事は絶対不可能と分かったとき、一部の人は確かに去りました。しかしその代わりより深い絆で結ばれた人が何と多く現れた事か。
私にはそれが深い感動と驚きです

 究極の状態にまで追い詰められて絶望の淵にのたうっていた時、これらの人達が身を以って示してくれた多くの励ましと、6年の長きにわたって変らない温かい善意を見るとき、かつての森さんがどのような人であったか私ははっきり知る事となりました。
 森さんが今迄他の人に全く当たり前な事として行ってきたさりげない無私の好意と善意が、四肢から全ての動きを奪われて助けを必要とした時、悲嘆に喘いでいた時、今度はそのままそっくり還ってきたのです。
 ここにも両親は不憫な我が子を『何としても助け起こす!』という強い意志が働いていたのです。

 常軌を逸する厳しい訓練に耐えぬいたのは『私にとって両親は宗教です』とまで言う大きな心の支えと、その徳を受け継いだ森さんの人柄が惹き付ける多くの方達の変らぬ善意でした。私は動かす手段を考え、それを実技にただ取り入れただけなのです。
 私の厳しい訓練を知っている友人達は『よく…ここまで頑張って。後は焦らないでゆっくり…』と口々に涙ぐんで言います。これも森さんを思う優しさです。言われるまでもなく誰よりも私達はゆっくりしたいのです。この6年間、森さんが休めたのは毎年の元旦、6日間だけであり『この訓練から解放され、ゆっくりした2~3日が欲しい』というのは森さんだけではありません。
特にアシスの美子は体力、気力の限界まで酷使されます。

 美子は小さい頃から陸上競技、特に短距離走行には誰にも負けた事は無いと自慢するそれだけ瞬発力のある敏捷さを持っていた子です。
 四肢麻痺の訓練ではそれを施す者から確実に倒れていきます。これは一人の例外もありません。お決まりの腰痛、肩と首の凝り。そして腱鞘炎と全身に跨る疲労と倦怠感で足腰が立たなくなります。しかも森さんの場合には極度の緊張を強いられます。
今までの訓練では何が一番難しく、そして極度の緊張感を強いられたか。
それは神経を繋げる事。足を前に出すこと。そして手のミクロの上げ等など数え切れません。しかしそれよりはるか以前の、グニャリとなった完全な軟体状態の躯体から二本足で立たせた事がいま思うと辛酸を極めた地獄の特訓そのものと思います。何故なら、この二本足で立ったことから全てが始まったからです。

これ等の訓練では体力の限界まで酷使されます。焦らないでゆっくりやっていたらたちまち元の状態に追いつかれてしまうのです。これこそが最重篤頸髄障害の訓練を行う上で最も辛い点です。
 二回目の講演の時こう言った友人がいました。
『あなた、本当に凄かった。歩くのを見て顔を上げることは出来なかった。だけどあんな大勢の前で不自由な身体を見られて恥ずかしくなかった?』
『私の中に恥ずかしいという気持が少しでもあったら、この6年間、右近さんの訓練を受けても立つ事はおろか、椅子に座る事さえ出来なかったと思う』
こう言えるだけ森さんは精神的にも見事に立ち上がったのです。

1999年6月。事故以来丸6年。更なる大きな飛翔に挑む7年目に入った森さんです。

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