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【第一章】             奈落 

                                                               

午前10:30分丁度、私は森さんの家へ行く前に、先ずベルトのバックルを軽く叩き『ヨシ!』と自分に気合いを入れてリハビリルームに入ります。
 その部屋は16畳のワンフロアーで、当然バリアフリーに作られています。森さんの姪であり、私の訓練をアシスタントする塚本美子が緊張して出迎えますが私は直ぐMDにスィッチを入れます。
 やがて喜多郎が奏でる「無限水」のシンセサイザーが天空に舞い上がり、光芒が部屋の空間に徐々にきらめいていきます。
 専用のソファーに腰をおろして美子が入れてくれる熱い番茶を一口すすり、手に鞭を持ち『ヨシ!』との合図で一日の訓練がこうして始まります。  
 この間、3人は全く無言で挨拶さえ一切抜きです。それは一言でも喋ると緊張が崩れるからであり、8年間ただの一度も変らない私なりの儀式なのです。

 森さんを立たせ、脇に松葉杖を装着して、握りのグリップを確認してから最初の歩行訓練に入ります。床には直線4mに赤のマーカーラインが引いてあり、スタートと中間点、折り返し点、その際に外周に膨らむ角度と内周の接地点、杖の幅など細かく設定したポイントが目盛りになっており、そのライン上に沿って正確になぞり歩く訓練です。
 次は松葉杖を外して2本ステッキ歩行です。これも寸分の狂いもなく見事にこなした後、1本ステッキに入りますがこの頃から身体はリズムに乗り『セーノ セーノ』と最初は低く気合いを入れて自ら励まし、だんだんそのピッチは早く高くなり、息遣いは荒く顔が強張って来るのが分かります。
 その歩行姿勢と腰の崩れ、リズムの乱れなどが起こった時、私は『膝の力を抜け!』『足首の角度!』『そのコーナリング、それは何だ!』『松葉を繰り出すのは手じゃない。肩だ!肩からだ!』『腰、腰で歩け!』と容赦なく激しい檄を飛ばし、すかさず手にした鞭がピシリ!と太ももに飛びます。

 次はいよいよ一切の装具無しに自立歩行に移りますが、無限水が奏でる幽玄の世界が張り詰め、私は椅子から居住まいをただしていつでも飛びかかれるように身体をぐっと前に乗り出して身構えるほど三人に一気に緊張が貫きます。そこは緊迫という完全な無の空間になるのです。
 息を深く吸い込み呼吸を整え、瞑目して動悸を鎮めてから、足を一歩、更に一歩前に進める森さん。その連続が歩くのに繋がります。
 精神を統一するためのBGM、森さんが自分に入れる気合い、そして私のムチと檄。
『シャッ!シャッ!』と床をこする規則正しい足擦れの音。リハビリルームにはこの音しかありません。

 8年前、頚髄を広範囲に損傷して瞬きだけに陥った人の動きとは私でさえ時には信じることが出来ない身の動きです。
 今迄この厳しい訓練を知らない人達が部屋に入ってきましたが、余りの迫力と部屋に漲る異常な緊迫感に恐れをなして、一言も喋れず帰っていき、もう二度と来ないのが常でした。
 
 これが8年間に亘り一日6時間、しかも一年364日(元日は休み)続いているのです。 


■不気味な音 

森 照子さんは小樽でも歴史のある手宮で、家業は80年以上続いている老舗の自転車店の一人娘として昭和12年に生まれました。両親はそれこそ目に入れても痛くない可愛がりようでした。
 父親は古武士然とした無口な人で、義に厚く包容力があり、親分肌の一本芯の通った典型的な明治の男であり、一方、母親は石狩の大きな網元の娘で、世話好きで涙もろく、おっちょこちょいで寂しがりや、というごくごく気の好い世話女房でした。
 
 この両親は実に素晴らしい人達であり、徳高く、情に厚く、何より二人とも豊かな度量を持っていたのです。一人娘ということでお婿さんをもらい、子供はいません。
 私もその場に居合わせてよく知っていましたが、兎に角いつも茶の間には問屋、友人、業者の方々が入れ替わりたち代わり来て、茶菓の接待とご飯の支度に忙しく働く典型的な下町の家風に育った森さんでした。
 このような人柄でしたので商売も手広く、業界のまとめ役として信頼されていたのです。これは何よりも人との信頼関係を築くとの父親の生き方であり、殊更厳しく教え込まれたといいます。

 後に頚髄損傷で全身麻痺になった森さんはこの両親の徳をものの見事に引き継ぎました。やがて奇跡と迄言われる劇的な回復を見せた陰には、既にこの世にいない両親の徳を慕った多くの方達の善意が助けおこし、歩かせたとしか思えない数々の出来事があったのです。

 私は昭和16年生まれで森家とは直ぐ並びであり、父の代から家業の写真スタジオをこれまた80年以上続けている2代目です。双方の親の代からの家族ぐるみの付き合いであり、特に私の長男はどっちが自分の家かわからないというほどの下町独特の交流があったのです。

□1993年6月6日、日曜の午前11:57。この日の記録から書き起こしていきます。

 北海道の6月は一番季節の良い時期であり、この日も抜けるような青空でしたが風が冷たかったのは今でもはっきり覚えています。
 私はこのとき門扉にペンキを塗っていました。
 直ぐ近くの消防署からまた救急車の出動ですがもうすっかり馴れていました。私の家から5分足らずのところに市の救急指定病院があり、同じ町内には島田脳外科があって救急車の出動など日常茶飯事で、何とも思わなかったのです。

 その時、私はチラッと時計を見たのです。どうして見たのかいま思えば不思議です。午前11:57分でした。

 それから間もなく島田脳外科から『森さんが自転車で転んで今運ばれて来ました』と連絡が来たのです。
『またやったか、ほんとにそそっかしい』そんな軽い気持でしたが、しかし行ってみてちょっと驚きました。警察の方がきていたので一瞬『轢き逃げ?』と思ったのです。軽い脳震盪位にしか思っていなかったのですが、3時間以上も出てこない異常さに『一体何があった?』と次第に不安になってきたのです。

 やがてストレッチャーに乗せられたその顔を見て息を呑みました。『…これがあの森さん?』と目を疑うくらいその顔は腫れ上がり、すっかり面代わりしていたからです。
 何がなんだか分からないまま呆然としていましたら『これはあなた達が考えているような簡単なものではないですよ。ここでは無理なので第二に搬送します』と島田院長は救急車に運び入れの支度をしています。

 第二というのは森さんの家から車で10分足らずのところにある市立小樽第二病院のことで、住宅街から離れており、眼下には小樽市街と札幌方面を眺望できる高台に建っています。この病院の科目はちょっと特殊で、精神科・神経科が200床。心臓血管外科が50床。脳神経外科が50床と内科が50床の計350床からなっています。その他人工透析、麻酔科などがあり、特に脳神経外科、心臓血管外科などは後志しりべし管内を広くカバーする最先端医療の中核をなす病院として位置付けられています。
 
 ともあれ森さんには島田院長が付き添い第二病院に搬送されたのです。
その後、森さんの薄れた記憶と目撃した人の話から、事故の原因と経過が次のような事だったと分かりました

 森さんは前から気になっていたお風呂場のスノコを買いに家から4~5分足らずのところにある大型スーパーに自転車で出掛けました。その時『スノコは大きいし重いから後から届でもらおう』と一瞬迷ったといいます。しかし子供の頃から乗り慣れていたため『ゆっくり走れば大丈夫』と自分に言い聞かせて出かけました。
 これが取り返しのつかない結果となったわけですが、更にこの大きなスノコを用意していた紐でハンドルに縛り付けたのです。
 当然ハンドルはふら付き、『これは危ない』としばらく押して歩きましたが車のこないのを確認してから今度は勢いよくペダルに全体重をかけて漕いだその瞬間、このスノコが膝に当たって何と前輪に挟み込まれ『ガキッ!』とロックされてしまったのです。
 当然、急ブレーキ状態となった自転車は前につんのめり、体は大きくハンドルを越えて頭から真っ逆さまに道路に投げ出されてしまいました。
 当時の体重は67~68㎏あったといいますから、何の防御姿勢もとらずにほぼ垂直に叩きつけられたわけですから、頭蓋と首の骨に受けた衝撃は凄まじいものがあったと容易に想像できます。
 
 『その瞬間、私の身体の中で何かがすり潰されるような、何とも形容し難い不気味な音がして頭の中で閃光が走って目が眩み、その後、実に気味の悪い熱いシビレが足元からジワジワと胸に這い上がってきたのです。これが頭まできたらもう終わりだ、と恐怖に駆られてもがきました』
 『道路の真中でぶざまに投げ出された自分が恥ずかしく、必死に肘を付き、膝を立て起き上がろうとしましたが、あの熱いシビレに全身をすくわれてしまった自分の姿を今でも忘れることは出来ません』

 交通事故での発生による頚髄損傷では多くの方々はその瞬間を覚えておらず『気が付いた時はベッドだった』との報告が殆どですが、しかし森さんはこのように鮮明に覚えています。
 この時、偶然通りかかった知人がそのただならない様子をみて『森さん、森さんでしょう!私を知っているかい!森さん、目が見える?』急速に薄れていく朦朧とした意識の中で『…島田病院、島田先生に…』そう呟いた途端、意識を失ったのです。
 
 『私はその瞬間を見ていませんでしたが、森さんは道路に投げ出され、身体は「くの字」になっていました。そうしてウワ言のように、しきりに島田病院、島田先生に…と言っていたのです』
『分かった今直ぐ呼ぶから』これはその知人の言葉です。
その意識を失うほんの一分足らずの間のウワ言は、その後、決定的な人生の岐路となったのです。
 意識の薄れていく中、なぜ『島田病院、島田先生に…』と言えたのか。
 これは命が助かるために、そして再び立ち上がるための不可欠な無意識下の深い心からの助けの叫びであり、これ以後連綿と続く、何とも不思議で運命的な因縁がもうこのときから始まっていました。

 私が門扉にペンキを塗っていた時の救急車の出動は現場への急行であり、その時偶然に見た11:57分から逆算すると、事故は53~54分頃と推定されます。これが事故の全容です。


■1.5センチの奇蹟

 島田先生は搬送時での応急処置と経過、MRI・既往症など第二病院で詳しく説明したと思いますが、私はその詳細について当然分かりません。
 直ぐ手術に取り掛かると思ったのですが、以外にも『少し様子を見ましょう』との返事に『そうか、意外と軽かったんだ』と安堵したのです。しかしこれはとんでもない私の思い違いであり、それから6年後にこの真相を聞かされた時、まさに慄然としたのです。

 翌朝『これから手術に入る』と連絡があり私達夫婦は駆けつけました。6時間以上にわたる手術でしたが、その結果を急ぐ私達に対して執刀の先生の実に気の毒そうな顔を見たとき、『あぁ これはもう駄目だ』とおおよその察しがつきました。
 『手術そのものは成功しました。ここまでになったのは島田先生の初期の適切な応急処置の対応があったことが全てです。しかし今後のことは様子を慎重に見なければ何とも言えません』
 単なる自転車での転倒事故がどうして命まで左右する重大さに繋がるのかが当時は分からなかったのですが、その後次々と明らかにされた医学的事実により、生きていること自体が不思議だと分かったのです。

 そこには実に峻厳な幸運と不運が偶然の数々で絶妙に絡みあっていました。

 先ず不運と不幸の最たるものは、スノコを買いに行く時、『大きいから届けてもらおう』と行く寸前まで迷いながらもハンドルに縛り付ける紐まで用意して出かけたのです。当然ふらつき、勢いをつけて漕いだその瞬間、このスノコはスポークの僅かな隙間に食い込み、ロック状態となって身体は飛びました。
 私はどうしても信じられず、このスノコを実際に車輪に当てて再現してみたのです。何十回、何百回やっても挟み込まれることはありませんでした。
 しかしハンドルの角度と車輪の回転する速さ、そしてポンと膝に当たった時のスノコの絶妙なその角度。更に勢いをつけるため立ち上がって漕ぎ、加速をつけた運の悪さ。しかもこの時に限っていつも乗っているものとは別な自転車で出かけています。これらのおよそ考えられない条件がピタッと噛み合ったとき、ガキッ!と食い込んだのです。

『これだ!』私は鳥肌が立ちました。『こんな運の悪い確率はあっていいものだろうか』と愕然としたものです。こうして何千分の一、いや何万分の一の確率で森さんの首に最重度脊髄損傷という斧が振り下ろされたのです。

 ここまではまさしく不運の最たるものでした。しかし、次からかろうじて生きるための、実に不思議な幸運の数々が続きます。
 何と言っても運の良さの第一は、あれだけの凄まじい衝撃にも関わらず瞬時に意識を失わなかったことです。『朦朧とした中で、何とか喋ることが出来たから森さんは助かったとも言えます』と言われ『ちょっと考えられない』とも専門医は言っていました。
 次に偶然通りかかった人が知人であった事が実に幸いしたのです。意識を失う直前『島田病院、島田先生に』と聞き『分かった、今すぐ呼ぶから』と救急隊にそのことを伝えてくれたのです。

 更に幸運が続きます。その日は日曜日にも関わらず島田先生が在宅しており、一目見るなり 『とうとうやってしまったか、これは大変なことになった』と直ぐ分かったといいます。
 それは森さんに既往症として首の後縦靭帯骨化症があったからで、そのために肩、首の懲りなどで島田病院にたびたび通っていたのです。応急処置室のドア越しから『森さん、ここに衝撃を与えると今に大変なことになる、とあれほど言ったのに。あの時手術していればこんなことにならなかったのに…』と何回も何回も残念がっていた声が漏れてきました。

 次の大きな幸運は日曜のため当然第二病院は休診でした。しかし前日大きな手術があり、ドクターとスタッフが何とそのまま残っていたという考えられない偶然が続きます。更に私の妻と、この病院の看護婦さんとは無二の親友であり、病院と医師への連絡の全てを実にてきぱきとやってくれたのです。
 そして決定付けた幸運は手術の結果、損傷部位があとほんの1・5cm上にずれていたなら頚椎一番をすり潰されて延髄を破壊し、呼吸中枢を直撃して間違いなく即死か、本当に運が良くてもベンチレーター(呼吸器)のまま、寝たきりの一生のどちらかということを後に知ったのです。
 これ等偶然の一つ一つの幸運は、まるで複雑なジグソーパズルがピタリとはまって精緻な絵を描き出すごとくに私には思えました。
 もし、瞬間的に意識を失っていたら当然一般の救急当番病院に搬送されます。その状態は一刻を争う時間の問題と言われました。それは後縦靭帯骨化症のため、骨化した靭帯が強烈な衝撃で折れて頚髄に損傷を与えた第一次障害と、損傷を受けた細胞から発生する毒性物質のため正常細胞迄で破壊され、しかも連鎖的に障害の範囲がどんどん広がっていく最も恐ろしいフリーラジカルといわれる第二次障害が起こるからです。それを防ぐため、島田先生はメチルプレドニゾロン(ステロイド剤)を経過と時間のタイミングをはかりながら大量投与してくれたのです。しかもこの薬剤は1990年代に開発されたものであり森さんが受傷する僅か2年前の事です。

 時間の経過と共に損傷を受けた脊髄が腫れ上がり、頚椎に遮られ逃げ場がなくなり、やがて呼吸中枢を圧迫して死に至る最悪のケースを島田先生はこうして防いでくれたのです。
 それどころか、この受傷直後のステロイド剤投入により、酸素を食い荒らしながら伝播して正常細胞破壊と死滅を最小限に防いでくれ、森さんが歩くための運命を決定付けたのでした。
 島田先生からの引継ぎで既往症、応急処置、頸部MRIなどを見て詳しく説明を受けた第二病院の先生方は『これはもう動くことはないだろう』と直感したと言います。
 搬送された手術前の森さんはこのような状態であり、先ほど書いた『もう少し様子を見ましょう』と言ったのは、今手術しても結果は同じどころか、刺激により更に重篤に陥るとの判断であり、カンファレンスで手術中止を検討した「あわや」のギリギリの選択だったのです。

 『ここまでこれたのは島田先生の初期の応急処置が全てです』と言った本当の意味を私は7年後に知る事となります。


■頚髄損傷

 ストレッチャーで手術室に運ばれる途中、森さんは執刀の先生にこう聞いています。『手術してくださる先生ですか?済みませんけれどお名前をお聞きしておきたいのですけど』 『私? 私は藤本と言います』
 ここでも森さんは動き、立つための一つの輪が繋がったのです。
 全身麻酔で意識が遠のいていく中、森さんが聞いたのは『この患者さんを意識があるうちに何とか立たせてやりたかったなぁ』と交わす執刀医の会話であり、これはとりもなおさずこれからの悲惨な人生を予告するものでした。それを聞き『あぁ 私はもう二度と立つ事は出来ないのだ』と朦朧とした中で震えがきたと言います
 そして島田先生と第二病院の先生方が予見した通り、手術で開けたとき『これは駄目だ。動くことはもうないだろう』と執刀医は思ったと言います。

 ここで森さんが受けた頚髄損傷とはどのようなものなのか。
 当然医学の知識がない素人の私でしたので、色々な先生に聞き、関連する本を読み、資料を集めている内に少しずつ分かりかけてきました。何よりも最初に思ったことは『これは大変なところを損傷した』という事と『よく生きていれたものだ』との驚きです。

 人間は脊椎という柱があるから立てるのであり、この脊椎は頭を支え胴に繋げる頚椎C(サービカル7椎)、胸椎T(スォーラシク12椎)。腰椎L(ランバー5椎)、仙椎S(セイクラル5椎)そして尾椎(3~6椎)の骨のブロックの積み重ねが脊椎で、いわゆるこれがバックボーンです。

 その固い椎体の中にある脊柱管の中に、脳から中枢神経である脊髄が通り、運動機能の命令、伝達、知覚、内蔵機能への調整など、いわば生きていくためのライフラインとも言うべき電線の束が通り、これが胸髄、腰髄、仙髄を経て全身にくまなく末梢神経経路が張り巡らされております。
 人間の手足は脳からの命令により実に複雑な動きをしますが、しかし大きく分けると「曲げる」「伸ばす」というこの二つが基本となっていることも分かりました。
 その伸展、屈曲はもとより、私達が危険を感じたとき、咄嗟に手を伸ばし、あるいは引っ込め、足を出し、生体としての無意識の防衛反射と痛覚、温覚、触覚等の感覚神経と内臓機能の様々な調整を司る自律神経、更には排泄障害までも併発することを知り、今更ながら頚髄損傷がもたらす深刻な障害に蒼ざめたのです。
 しかもその麻痺は脳に近ければ近いほど高位障害であり、森さんのようにC2頚髄損傷とは、首上部から下への命令、伝達が損なわれ、ほぼ躯体全域にまたがって運動麻痺、感覚麻痺が広がり、しかも内臓へのコントロール機能さえ損なわれるということを知り、言葉を失いました。
しかもこれらの第一次障害のほかに、寝たきりでの褥瘡と膀胱、直腸などの排泄障害に加えて、呼吸筋、横隔筋、腎臓、肝機能の衰えなどありとあら障害が襲い掛かる事を知り愕然としたのです。

 脳が固い頭蓋と硬膜など何層にも保護されているのと同じく、この脊髄も筋肉の分厚い布団と脊椎の固い骨、更に靭帯という強靭な繊維組織と硬膜、軟膜、クモ膜、そして髄液などにグルリと囲まれ、滅多に傷を受けることが無いように保護されてはいますが、自立歩行を成し遂げた人類の宿命でしょうか、重い頭部を支え、しかも自由に曲げ伸ばし出来る首への頚椎損傷が、全脊髄損傷中、実に75%の割合を占めるという戦慄すべきデーターにうすら寒くなったのです。

 一番重要でその後の人生を決定付けるのは損傷部位であり、ダメージの程度です。脊髄という無数の神経のどの部位に、どのくらいのダメージを受けたかで身体への機能障害と内臓障害に表れ、その症状は一人として同じものがなく、百人百態と言われております。その障害は実に複雑なものであり、故に高等生物の実に悲惨なものということも分かりました。

 森さんの場合、頚椎2・3・4・5番迄やられたのです(Cレベル2-5)
 1~7番まである頚椎のうち、何と4ヶ所も損傷を受けたのです。
7個の頚椎の内、3~4番、あるいは5~6番のいずれか一ヶ所に損傷を受けても、その程度にもよりますが、四肢麻痺か運が良くて不全麻痺を伴い、下肢機能は当然完全麻痺と断定されます。

 この麻痺という言葉は健常者が解釈するシビレではありません。よく『…いつもの習慣で麻痺してしまってつい』更に『道路は渋滞し交通マヒを起こし』このようにいとも簡単に使います。
 脊髄損傷者にとっての麻痺とは運動機能、感覚消失、失墜、全廃の事なのです。尤もC1番は後脳を支える受け皿の骨であり、呼吸中枢などを司る延髄直下に位置していますので、ここをやられたら呼吸停止か、助かってもベンチレータ―(人工呼吸器)の生活でしょう。

 その一番重要な人間としての脳からの指令、伝達に伴い、躯体全域にわたり運動神経、感覚、知覚神経、更に自律神経と体幹まで麻痺して損なわれたことを知り、余りの重大さに言葉を失いました。
 手術後、執刀の先生は『森さんは神経の表面に傷を受けたから動くことはかなり厳しく、難しいと思います』と言われました。
 私はそれを聞き『あぁ表面で良かった。芯ではなく』と思ったものです。
 しかしこれはとんでもない間違いでした。

 その表面の白質層こそ、脳からの指令、伝達を司る長く伸びた神経線維で作られた神経伝達路の「鞘」であり、髄鞘、ミエリン鞘とも言われ、全ての指令の伝達被覆だったのです。芯は灰白質と呼ばれる神経細胞でした。


■瞬きだけの身体に

 手術により呼吸停止という最悪の危機は脱しました。しかしその姿は目を背けさせる悲惨なものでした。どんなに目を凝らしても身体はピクリとも動きません。生きている唯一の証は瞬きと自発呼吸だけでした。

 特に予想もしなかった驚きは平衡感覚さえ失ってしまったことでした。
 真っ平らの柔らかいベッドに寝かされているのにも関わらず『身体が斜めになって恐ろしい』『ゴツゴツと固いところに寝かされて苦しい』『身体の捩れを直して』など際限のない苦痛を常に訴え、さいなまれていました。私は事故による平衡感覚の失調かと思ったのですが、色々な本を読んでいる内に次のような事が分かったのです。

 あの一瞬の事故により道路に叩き付けられ、凸凹の固い地面に身体はよじれ、足は捻じ曲がったまま投げ出されました。次に何とも気味の悪い熱いシビレが足元から這い上がってきたと言います。
 この間、恐らく何秒もなかった事でしょう。なぜならすり潰される無気味な音と、頭の中で閃光がきらめき、意識を失う直前、浮遊する自分の身体をはっきり覚えているからです。
 その姿が瞬時にして脳の記憶回路に強烈な衝撃として刷り込まれた結果ということが分かりました。
 最後の記憶は手足をすくわれ、捩れて横たわった無惨な森さんの姿を留めた脳への残像記憶だったのです。

 この障害特有の自律神経まで損なわれましたので、暑い、寒いは勿論、全ての感覚は当然ゼロで、しかも自分の身体に手足が付いているとの感覚も当然ありません。躯体からの一体感・接続感も無いのです。
 かつて立ち、歩いた足。物を掴み持ち上げた手。今では用も成さず躯体からダラリとぶら下がったままの無機質で死んだ付属物でした。もっとも首を動かすことが出来ず、確かに付いている手足さえ目で確認することは不可能だったのです。

 これが中枢神経を損傷した脊髄損傷の恐ろしさであり、その中でも高位頚髄損傷ほど悲惨で残酷この上ないと言われる所以です。惨状とも言うべきその様がいかに凄いものであったか、次のことが何より物語っています。
 面会許可が下りて、6人部屋の森さんの所に親戚の人が見舞いに来た時、その顔を見分けることさえ出来ず、名札で確認して余りの酷さに息を呑んだ事実です。
 森さんはしきりに鏡を見たがっていましたが、一切見せませんでした。

 親戚さえも見分けることができなかったその顔は腫れ上がり、頭蓋とまぶたにまで血痕はこびり付き、激しい衝撃で歯は欠損して、手術後何日経っても耳から、髪からも砂が出てくるのです。
 手術後、二ヶ月近く経ったある日、担当の先生が『うちの病院では一応二ヶ月をメドとしていますが、森さんの場合特殊なのでもう一ヶ月、様子を見ることにします』と言いました。
 当然というか、相変わらず瞬きと自発呼吸だけの毎日で、その容体は落ち着いたものの、悪くもなければ良くもなりません。
 神経をやられたのだから、ある日突然その神経が繋がり、あるいは目覚めて、手足が嘘のように動くようになると私は突飛でもない望みを託していました。『あす行ったら指が動いている筈だ』と思うことはしばしばです。

 当時、私の脊髄損傷に対する知識はこの程度のものでした。
 期待と恐れの半々で行くと、相変わらず瞬きと息だけで、しかもその声さえ言語として発声されることはありませんでした。事故による肋間筋・横隔筋・横隔膜の極端な衰えで腹圧を失ったためでした。
 当然ですが森さんは私以上に安静にしていればそのうち絶対治ると信じて疑いませんでした。誰しもが思う手術が成功して傷さえ治れば、です。
 入院していた病院は脳外の科目の内、特に脳疾患のいわゆる植物状態の方達であり、しかも最重篤患者さんばかりの部屋でした。頚髄損傷は森さんだけでした。当然意識は清明です。
 それでもこれ等の患者さんに対して脳に刺激を与えるために終日テレビはつけっぱなしです。事故のニュース、フアッション、グルメの旅などが否応無しに耳に飛び込んできます。これは何よりも森さんにとって残酷な拷問でした。

 ある時、一番好きだったジプシーキングスの「ウン・アモール」という曲がかかりました。ジプシー音楽特有の哀愁漂う胸を締め付けられる旋律と激しいリズム。流浪の民の哀しみに満ちたその曲がかかった時、今迄こらえにこらえていた感情が激流となって一気に噴き出し『…他の人は意識もなく穏やかに眠っているのに、どうして私だけが』この残酷な現実に、地の底まで引きずり込まれる絶望と恐怖で『…早く私もあぁなりたい!』と狂おしく煩悶していたのです。
 腹圧が無く大声で泣くことは出来ませんがそれでも堰を切ったような呻き声が看護婦詰め所まで聞こえたのでしょう。廊下を足早に走る音が聞こえましたが、部屋のカーテンの前で、ピタッ!と止り様子を窺い『…森さん!』と言いかけプツンとスイッチを切り、何も言わず出て行ったといいます。
 私はそれを聞き、瞬時に見抜いた看護婦さんの優しい労わりが胸に染みて胸が詰まります。

 今の森さんには慰め、労り、まして励ましなど全てが空虚であり、一切通用しない身体と心です。脳の命令にピクリとも反応しないその身体は、生きる望みさえも断ち切ってしまいました。
 周囲の者、そして森さん自身に出来ることは、身体中の涙を流させ、涸れさせてしまうしかなく、労わりと励ましの言葉こそが残酷なのです。
 交際の広い森さんには訪れる見舞い客が多く、その日もカーテン越しに何人かの友達の話し声が聞こえます。ところが、一歩部屋に入った途端、その顔は白く凍りつき絶句します。励ましをかけるなどのそんな生易しいものではないからです。

 想像すらしなかった面貌の変りと身体。
 何よりシーツから出た手、足。陶器のように冷たく青白いそれは、どんなに揉んでもさすっても反応せず、身体は鋳物のようにピクリともせず、その声はただ唇を振るわせるだけであり、何を言っているのか全く聞き取れません。友人が強張った笑みで懸命に励まし涙をこらえているが分かるのです。
 私が病院の長い廊下を歩いている時、向うからハンカチを目に当て、小走りにやってくる友人を何人も見ています。『…今迄こらえていたけど、あれでは余りに残酷で…』と声を上げて泣くのです。入院当初の森さんはそれほど酷い状態でした。

 やがて森さんは、とうとう自分の置かれている立場を認識したのです。
 完全に時間の止まった中で『私は一体どうなってしまったのだろう』と意識し始め、茫然自失となり、更に泣く声さえ奪われて、瞬きのまま抜け殻のムクロとなって横たわり反応しなくなりました。


■宣告

 やがて期限の三ヵ月目に入った8月、主治医が『どんな患者さんでも三ヶ月も経つと何らかの兆候が出てくるものなのです。しかし森さんには一切それが見られません。したがいましてうちの病院としてはこれ以上医学的に対処の仕様がありません。』ここで初めて、臨床的見地から絶望宣告をされました。
 更に『周りの人達、特にお見舞いに来る人達には、なに、リハビリで頑張ればよくなる、という安易な慰めは言わせないよう注意してください』と言ったのです。

 ある時、森さんの知人で医療関係に従事している方がお見舞いに来て『事故のショックで身体を動かす神経が忘れただけだから』と励ましたのです。それをたまたま聞いた先生は別室に彼を呼び、きつく咎めたのです。私はその意味を全く理解できないどころか、この先生は何と冷徹な人だろうと恨んだものです。
 その後色々な本を読み、先生が言いたかったのはこのことではなかったのかとハッ!と気づいた個所がありました。
 世界的ロングセラーとなった『死の瞬間』の著者であるアメリカの女性精神科医、エリザベス・キューブラー・ロス博士の言葉で、末期癌など宣告された患者はほぼ例外なく、次のような精神的過程を経るという個所でした。

①否認
ショックの状態で何も考えられず呆然自失を経て、やがて『何かの間違いだ。そんな事はない』との否認。

②怒り
『何でよりによって私だけが、世の中に役に立たない、悪い奴が一杯いるのに』という不条理に対する怒り。

③取引
今の状態を救ってくれるなら、財産、名誉は一切いらない、という取引。

④抑うつ
それさえも叶わず絶望とあせり、悲哀の感情にさいなまれ、沈鬱な感情落ち込んでしまう抑うつ。

⑤受容
この四つの精神的段階を経て、ここで初めて運命は運命として受け入れ、また受け容れざるを得なくなる受容という諦め。

 また、先生はこうも付け加えました。
『このような患者さんの場合はその内、例外なく拘禁症に陥ります。それを特に気をつけてください。』
 自分の意が全く伝わらない身体。そのため、精神状態までも捕われ、束縛される事による起きる拘禁症です。
 このキューブラー・ロスが言う精神的段階をものの見事に経て、最も恐れていた抑うつと拘禁症がやがて森さんに襲いかかります。それは地団太を踏む悔恨であり、『何でひと思いに!』と命が助かった自分の運命を呪い、救ってくれた医者と現代の医学を心底恨んでいました。

 これを境にその精神状態は大きく傾いて翳を射し、頭の中ではどうすれば死ねるのか、ただそれだけでした。
自殺をしきりにせがむのです。
『点滴のスピードを上げて』『強い麻薬を打って精神を錯乱させて!』
この毎日でした。
 しかし、森さんにとっての本当の地獄とは、ピクリとも動かず、完全四肢麻痺に変わり果て、自殺さえも絶対不可能になった身体と、自由を全て剥ぎ取られたそのものがもたらす身体と精神の崩壊でした。自分の心と身体が朽ち果て蝕み、それを正気の自分が崩れながら見ている地獄です。
 
 それにしてもこの第二病院の脳外科のスタッフは素晴らしい方達ばかりでした。ドクターは『森さん、苦しかったらなんでも言っていいよ。いつでも僕は付いていてあげるから』と言ってくれましたし、拘禁症のため、精神状態が崩れ、大きな振幅を見せたとき、婦長は手をさすり、髪を撫でながら何時間もの間、気の済むまで、その心が落付くまで話を聞いてくれました。看護師さん達も本当に優しく、無理な要求に嫌な顔一つせず、森さんの身になって実に細かいことにまで応えてくれたのです。
 瞬きしか出来ない完全四肢麻痺のまま、これから生きていかなくてはならない哀れみや同情からの優しさではないことは何より森さんが敏感に察していました。真から優しく、朗らかに、そして明るく接してくれたのです。それは森さんの気持に少しの負担を感じさせない、実にさりげない好意であり、病める者、深く傷ついた者への職業柄の使命感と共に、人間性そのものの善意でした。
 このお陰で、最も心配していた抑うつと拘禁症から短期間に抜け出すことが出来たのです。驚いたことに、もうこの頃から立つ、歩くための善意と、温かい励ましに囲まれていたのです。
 当然ですがナースコールを押すことさえ叶いません。そこで首と肩の間に挟み込み、僅かな首の動きでボタンを押すことの出来るものに換えてくれましたが全く用を成しません。それほどの障害でした。
 万策尽き、口元の僅か数センチのところで感知する呼気圧コールを婦長さんは森さんのために取り寄せてくれたのです。
『あぁ これをどんなに待っていたか…。いつでも看護師さんが来てくれると思うとほんとに嬉しくて…』
私は今でもあのときの心から安心した顔と言葉を忘れる事は出来ません。

 こうして入院三ヶ月の期間中、回復の兆しは全く無く、病院から言われていた退院期限が近づいてきた8月下旬、主治医に呼ばれ『森さんの症状と今の全身状態から見て、この北海道で引き受けてくれる病院は恐らく一ヶ所もないでしょう。引き受けてくれる病院がない以上自宅での生活となります。その時、特に注意しなければならないことはいかに精神状態を安静に保つかという事です。そのことだけに全力を集中しなければなりません』
 
 私は、退院後リハビリ病院に転院して頑張りさえすると今の症状は幾らかでも好転するのではないかと思っていたのです。しかしとてもそんな生易しいものではなく、いつ崩れ落ちるかもしれないその精神状態を支え、維持する事に全力を注ぐべきという「はるか以前」のコトの重大さに血の気が引く思いでした。これは二度目の絶望宣告であり、駄目押しでした。
私にはどうしても信じる事が出来ず、執刀の先生に『森さんのような症例でリハビリの結果、立って歩いた例はありますか?またそのような例は学会、症例報告などで発表されたことがありますか?』と質問したのです。先生の顔に一瞬、ほんの一瞬ですがチラッ!とためらいが走り、何ともいえない複雑な困った表情がよぎりました。慎重に言葉を選び『…無いことも無いのです』と言ったのです。
 私はそれを聞き『あぁ…これはほんとに無いのだ』と、ここではっきり機能回復の絶望を確認し、またそう言わざるを得ない先生の苦しい胸の内と優しさが分かり、言葉を失い立ち尽くしていたのです。

 しかし嘘と分かっていても私はこの言葉を頑なに信じ、また信じようとしたのです。それは取りも直さず、Cレベル2~5番最重度頚髄損傷という恐ろしさを全く理解していない素人の実に底の浅い知識であったからに他なりません。今思えばこの時の私の質問はいかに荒唐無稽で、馬鹿げた質問であり、先生を戸惑わせたか。
 ところが『無いことも無いのです』と言った言葉は、その後、森さんが立ち、歩くために繋がるそれほど重要な意味を持ったものでした。
 ストレッチャーで手術室に運ばれる時、森さんが『…先生のお名前を聞いておきたいのですけれど』 『私?私は藤本です』と言ったあの藤本先生でした。


■転院

 私には『この北海道で森さんを引き受ける病院は恐らく一軒も無い』というあの言葉をどうしても信じることは出来なかったのです。
 それともう一つ『不治の病ではあるまいし、現に命は助かった。リハビリで頑張ればきっと何とかなる』と思っていました。それからは連日、病院を探し回る毎日となったのです。

 森さんの先代時代、健ちゃんという人が勤めていました。昭和14年生まれですので森さんより二つ下です。
この人もまた先代の人柄に惚れて辞めてもずっと森家との付き合いは続いていたのです。今では建築、土木、不動産を手がけ、その顔の広さは驚くほどであり、何よりも気風の良さから、先代に『健!健!』と目をかけられて我が子同然でした。
 丁度森さんの退院さなか、トラックに重機を積み込む際、荷が傾き足指を潰されてしまったのです。しかし病院から抜け出してその顔の広さとツテ、あらゆる人間関係をたぐり連日、道内を泊り込みで駆け回っていたのです。長靴の中に血がぐっしょり溜まっていました。『どうしてそんな無理を?』と聞くと、『姐さんのことを思えば俺の足の一本や二本くれてやる!』と言うのです。
私は何も言えませんでした。それは先代の娘を思う一点の曇りも無い純粋な情と気迫の固まりでした。
 
 その結果が深夜、早朝を問わず私に報告が来ます。私は私で、ここ、と思ったところに電話をかける毎日でした。
 しかし、この考えはとんでもなく甘かった事が程なく思い知らされたのです。

 Cレベル2~5。現在、四肢の運動機能麻痺と感覚麻痺、と聞いただけで
『うちの病院ではそのような患者さんを引き取った例が無い』
『全身麻痺の患者さんにはリハビリのやりようが無い』
『Cレベル2~5?そのリハ?』まるで信じられないことを聞いたように絶句した病院もありました。
 なかには『いくら〇〇先生の紹介でも、僕の所に来たら動くと思われたらほんとに困っちゃう。これ、呼吸中枢の直ぐそばだよ』と呆れられたのです。

一番好意的な?返事だったのは『ベッドに空きが無い』これが殆どだったのです。
 ここで主治医が言った『森さんを引き取る病院はこの道内には一軒も無い』という意味がわかり、引き受けどころか高位頚髄損傷者に対するリハビリがいかに見離されているかという目の前に立ちはだかる厳しい現実に愕然としたのです。

そうこうしているうち、とうとう引き受けてくれる病院が決まったのです。其処は札幌でもかなり規模が大きく、しかもリハビリに関しては名の通った病院です。
 私は早速パンフレットを取り寄せて実際に見に行き、近代的な建物と充実したリハビリ施設。中でも器具とスタッフ等を知り正直『これで助かった』と安堵したものです。ところが、この病院での入院5ヶ月間の扱いでその後、在宅リハビリを行う上で取り返しの付かない結果となったのです。


■1993年9月1日。この日の記録から書き起こしていきます。

 転院が決まってからの森さんは全身で張り切っていました。これは誰の目から見ても分かります。転院数日前は昂奮して『私、余り眠れなかった』と言います。
 婦長さんが『…森さん、いよいよあす転院だけれど、あの病院のリハは厳しいよ。頑張ってね。それとこのナースコール、向うの病院に無いと思うから持っていって。これを使う人はもううちの病院ではいないと思うから』こう言ってくれたのです。
 森さんは『元気になって必ず返しに来ます』とその位、張り切り『来年の3月には車椅子で帰ってくるからね』とお世話になった看護師さん達と賑やかに話をしていました。
 消灯時間になって今度は執刀した先生が来て『あす転院するけど大丈夫。森さんは強いから頑張れる、大丈夫!』
『先生、私は決して強くないのです』『いや、森さんなら大丈夫だ。リハに頑張れる』あとは何も言わずフトンをポンポンと叩いて出て行きました。前に書いた藤本先生です。
 この時から6年後、森さんは藤本先生と再会し、目の前で見事に歩き、絶句させるなどとは当時は思ってもみなかったことでした。

搬送の救急車ではベルトごとストレッチャーでがっちり確保しての転院です。今迄お世話になった看護師さんが付き添い、出発時間と到着時間、その細部まで綿密に打ち合わせも済ませました。
 前日婦長さんが『…もううちの病院でこのコールを使う人はいない』という言葉を思い出し『なるほど、そうだ…』と何かもの哀しい切ない思いが込み上げてきて婦長さんの温かい思い遣りに目頭が熱くなってきたのです。

 いよいよ転院というその朝、私は看護婦詰め所に挨拶に行きました。これまでの婦長さんはじめ、看護師さん達の献身的な看護と、心のこもった温かい気配りに言い尽くすことの出来ない感謝の思いで一杯でした。
 『…本当にお世話になりました。これからリハビリに頑張り、何年後かにこの詰め所に歩いて挨拶に来ます。必ず来ますから』
 この言葉を聞き朝のミーティングをしていた看護師さん達は一斉に立ち上がりました。
『必ず来てね、森さん!』『約束したよ、森さん!』目に泪を溜めて手を固く握ります。それを見て『あぁ この人は本当に人に好かれる人なのだ』と改めて思ったものです。
 
 私の口から咄嗟に出たこの言葉。しかも『必ず!』と念を押しての断言。
 それは4年後のこの日、約束通り、寸分違わず見事に実現することになるのです。

 




 入院初日、いきなりネックカラーでがっちり固定されました。当然第二病院でも固定されていましたが、慎重に検査し、経過をみて『もう大丈夫ですよ。森さん暑かったでしょう』と外してくれたのです。
 首から上だけ感覚があるため、このカラーは先ず耐え難い暑さとそれに伴う痒みであり、食事介護の際、往々にして首に汁が伝わり、そのうっとうしさと不快感は想像に余りあるものです。
 特に森さんは真夏の真っ盛りの入院でした。

 手が利く人は細い棒を差込み掻くことも出来ますが、当然それは出来ません。それを外されてからというものは、傍から見ても呼吸が楽になったのが分かり、何よりも今迄目で追っていたのがほんの僅かですが首で追うことが出来たのです。
『第二ではもう大丈夫と言われましたが』と言うと『整形は整形のやり方があります!』とピシャリと拒絶されました。私は『さすが整形の専門は違う』と感心したのです。
 次に院長が添付されたカルテを見ながら凄い速さで、刷毛、突起物で皮膚表面をなぞり運動機能、感覚のテストをしていましたが言うまでも無く、全くの無反応であり、殆どの項目は間違いなくゼロであったことでしょう。

 そうして森さんはじめ全員を別室に集めてこう言ったのです。
『ここの病院でどうしてもらいたいの?』

『?…何かが違う』との微かな食い違いがこのとき初めてよぎったのです。


■不信の芽生え

 森さんにとってはここの病院が最後でした。
転院前あらゆる病院、施設に問い合わせた結果、名のある病院では最低3ヶ月待ちという状態であり、健ちゃんはその広い人脈を通して政治家の方に仲介してもらうように奔走していたのですが私が断りました。それは森さんの割り込みで誰かがまた数ヵ月待たされるからです。
 しかも運良く入れたとしても早ければ3ヶ月。遅くて6ヶ月で退院させられるという異常ともいえる現状を知っていたからでした。あとは本州の病院へ再転院か在宅介護しかないのです。
 私はこの自宅療養などは一切頭にも浮かびませんでした。瞬きだけの、しかも首の後ろ側全ての骨が取り外されたその頭は、外的刺激、とりわけ転倒などを考えただけで背筋が寒くなります。
 しかもこの障害につきものの褥瘡併発、自律神経を損なわれているための身体管理、排泄障害、内臓機能の低下、血圧の不安定と発熱。呼吸筋の極端な低下かがもたらす排痰と絡まりなどキリがありません。

 その後、行く度に手足がむくみ、それも何とも形容し難い赤黒い皮膚の色であり、押すと気味の悪いほど凹みます。第二病院の時よりその全身状態は徐々に、そして確実に低下していることはいくら素人目でも明らかでした。
 何より最も著しい変化は、顔から笑顔が全く消えて極端に口数が少なくなったことでした。しかも目には力が無く、私の話にも無表情に常に遠くを見ていました。あれほど『リハビリに頑張ろう』『半年後は車椅子で帰り、第二病院に行って驚かしてやろう』と張り切って転院したのに、日ならずして『あぁ 人生を捨てようとしている』と分かる変わりようでした。

 やがて私は勿論、森さんの中にもこの病院の対応に不信と不満、そして懐疑が芽生え始めました。
 その理由を挙げる一つの例です。
 全身麻痺で寝たきりの場合、手は必ずといっていいほど、内側、内側に曲がり、よじれていきます。指はバラバラに方向性を持たなくなるか、関節が固くなり、固い握りこぶし状なるかのどちらかです。その固く握られた指を開くのは容易ではありません。
 手首は折れ曲がり、文字通りの鷲手状となり、当然重力のかからない足はダラリとぶら下がってきます。いわゆるこれが尖足です。
 第二病院ではこれを防ぐため、手はよじれないように包帯で固定して手首を揉み、指は常にマッサージして血行を促し、刺激を与えていたのです。また、尖足を防ぐため、箱枕で矯正です。これは時間がある、無いに関わらず、森さん担当外の看護師さんでも当然のようにやっていました。ところがここでは私が注意して初めてあり合せの物で箱枕を作る始末であり、矯正の基本すら念頭にありません。
 このように寝たきりの場合、細心の注意を払わなければ、強い筋肉が弱い筋肉を引っ張って曲がり、しかも子宮胎児の姿勢に戻ることくらいは私も知っていました。

その不信感がやがて決定的になる時が来ました。

 院長が『人間の基本動作は寝返りです。寝返りが全てです。これから寝返り訓練を徹底します』
『えっ!寝返り?』
『…全身麻痺の森さんに寝返り…』『それも後側の骨の無い首で…』
私はその意味を直ぐには理解できず唖然としていたのです。

 Cレベル2~5という損傷を負ったその脊髄は挫滅(医学的には横断)され、筋肉を動かそうにも命令する意志という電流が流れないのです。
 脳からの指令は首で留まったままの森さんです。更に入院4ヶ月以上も寝たきりのまま天井ばかり見ていたその筋肉はすっかり削げ落ちて萎え、しかも四肢の関節はブラブラです。
 私が今迄数多く見てきた脳疾患患者、いわゆる片麻痺の方々の訓練では一方の機能する手足を支点としての寝返りでした。残存された機能を最大限に活かし、それでもPTに叱咤激励されて歯を食いしばってやっていたのを見て、普段何気なくやっている寝返りがこんなにも難しいものだったのかと驚いたものです。
 それは全身のありとあらゆる筋肉を総動員して、遅くも早くも無い頃合のタイミングを必要とする連携動作であり、その無意識の複雑な命令は当然脳からの指令です。単に腕を挙げて足を伸ばす、などの単一動作とはわけが違います。日常生活対応訓練でも最高難易度の動作であり、逆に寝返りを成し遂げた事はリハビリの半分以上は成功したと言っていいでしょう。
 その理由は、『寝返りせよ!』との命令が筋肉に伝わり、微妙な強弱(収縮)で筋肉が動く連携動作・協調運動が出来たという事であり、取りも直さず、今後あらゆる運動、動作への訓練に応用が利くからです。
 自力で寝返りが出来無いからこそ介護者に多大な負担がのしかかり、本人は褥瘡に苦しみ、恐れられています。しかも森さんの状態よりもっともっと軽い人達でさえです。

 この寝返りがいかに困難を極め、膨大な日数を要したか。私の常軌を逸するとさえ言われた8年間の凄まじい訓練の究極の目的は自力体位変換の一点といっても過言ではありません。その苦しみは当事者でなければとても分かってはもらえないでしょう。森さんへのこの訓練は赤ん坊に『立って走れ!』と要求しているのと全く同じ事なのです。いやそれ以上です。
 
 そしてもっと重要なこと。それはこの寝返りは今の森さんにとって大変危険が伴うということでした。
どうして危険かというと首から下は躯体全域にわたる完全麻痺です。逆にいうと首から上は何ら損傷を受けていません。
 人間は瞬発の力を込めるときには無意識に息を止めます。その結果、頚部筋肉は緊張して硬直し、この過大な圧力と負荷は身体で唯一機能する首が受け止めるからです。
 C2~7番の頚椎を取り払った首。しかもまだ4ヶ月も経っていない森さんにこのような危険この上ない訓練をさせたのです。事実、この訓練では激痛が走ると言っていました。これは当然であり、頚部上部は運動・感覚とも「健常」だからです。

 第二病院では『首への衝撃はくれぐれも気を付けて下さい。今度与えたら取り返しのつかない結果になります』と言われていたのです。反面、第二病院で『もう大丈夫』と取り外してくれたネックカラーで再び固定するこのやり方。
 リハビリに関して有名なこの病院は『もしかして重度頚髄損傷者のリハビリを扱ったことが無いのではないか』との強い疑念が私の中によぎったのです。
 あとから分かったことですが扱ったことが無いどころか、そもそもこのような全身状態ではリハビリ対象外であり、訓練以前の問題とされ、ベッドで寝たきりが当たり前であり、社会復帰などは想像すら付かないというのがここに限らず、全国のリハビリ専門病院の常識であり定説でした。
要するに病院のお荷物だったのです。

 当然病院側としては実に厄介で危険極まりない患者です。第二病院では部屋の移動、検査、入浴の時は院内放送をかけます。そうするとなにをさておき駆けつけてきます。しかも脳外科のベテラン看護師6人がかりです。左右の手足に四人、頭を支える人が一人。更にストレッチャーの操作に一人。二人がかりでシーツを持ち上げてのトランス(移乗)などというそんな生易しいものではありません。
 ちょっとした不注意で首をガクンとのけ反らせただけで即、命に関わるということを脳外の看護師は知っていたからです。これは脊髄を圧迫していた頚椎全て取り外したためで、簡単にいうと首の前側の骨と、頸部筋肉だけであの重い頭部を支えているからです。
 いわば脊髄を保護する蓋、あるいは屋根ともいうべき頚椎2~7番全てが取り払われたため、極端に言うと脊髄が剥き出しになっている状態だったのです。

 その後,島田先生、また6年ぶりに再会した当時の執刀医である藤本先生より、ことの詳細を知り、私が森さんに課した常軌を逸した訓練を振り返った時、身の毛がよだつ思いに震えたのです。

 この当時の会話は決まっていました。
『…どお?』 『ええ…まぁ 何とか』これだけです。
その会話すらだんだん反応しなくなってきたのです。
 
 これは私が最も恐れていた精神の支えが日々失われていく兆候であり、第二病院でようやく乗り切った拘禁症による抑うつの表れでした。しかしここではそれに対処して受け止めてくれる人間性などとても望むべくもありません。

『これはひょっとして自宅でリハビリをやることになるかも知れない』と思ったのは『このままでは精神状態は必ず崩れて森さんではなくなる。 それもそう遠くないうちに…』との確とした予感でした。
 こうした私の不信の積み重ねがそう思わせたのでしょうか。私はこの病院が弱い立場の患者を利用している営利主義のようにさえ思えてなりませんでした。

ほんの一例です。

患者さんが退院するときは決まって何かかにか買わされます。
『これから自宅療養するにはこのベッドにしなさい』『電動はこの車椅子です』『ロホクッション(除圧)は3枚セットが必ず必要です』『浴室マットはこのメーカーが一番』これは移動器具と松葉杖、ステッキの果てまでであり、それも全てメーカー指定でした。
 ある時、患者さんが『ステッキはもう買ってある』と言ったところ、『そのようなことは病院と相談してもらわなくては困る。こちらとしては用意してあるのに』と散々叱責されていたのです。

森さんの場合はなお更です。
介護用品、リハビリ用品と名が付くとどうしてこんな値段が付くのだろう?と驚くものばかりです。あれこそ現在の市場主義から到底考えられない異常価格です。絶対、取りっぱぐれの無い保険と言う国の補償のせいでしょうか。ベッド一台、車椅子一台、移動器具など、それ等は到底常識では考えられません。いかに第一種一級障害の補助があるとはいえ、その差額は相当の負担となります。

 案の定、一番高額な電動ベッドを『森さんにはこれです』とメーカー指定で押し付けてきました。
 私はこのやり方に前から不信感を持っていましたので高額用品は勿論、ステッキ、リハビリシューズなどの小物の果て迄カタログを全て調べ上げ、実際に使っている人達からの情報を元に、在宅リハビリに備えるために全て揃えていたのです。これらはケースワーカーと称する者の担当でしたが、私は単なるメーカーのプロパーの役割とセールスそのもとしかみていませんでした。
 しつこく、時として強引に押し付けるこれらの用品購入に私は一切の妥協をせず徹底的に排除したのです。恐らく初めてでは無いでしょうか。

 このことだけでしたら多少感情がギクシャクしても私は自分の主張を通します。どうしても我慢が出来なかったのは院長の言葉でした。
 入院初日『この病院でどうしてもらいたいの?』と言われた事は前に書きました。この病院ではスタッフ間でのカンファレンスの結果を患者、並びに家族に懇切丁寧に説明する、とパンフレットに書かれてありました。

実際はその通りだったのです。
しかしそのやり方です。
 患者・家族・そして友人全てを別室に集めます。しかも其処は大勢いる病院職員のいる事務室です。その職員のいる前で『森さん、あなたは一生ベッド生活だよ。トイレもベッドだよ』と断言するのです。
職員のペンが止まります。そして聞き耳を立てているのです。
それはまさしく断言であり、患者本人と家族にとって専門医の言葉は神の決済であり、最高裁裁判長の判決です。
 私と森さんはこうして何人もの患者さんと家族の方がうなだれて泣いて出てくるのを見ているのです。

 何でこのように皆の前で断言しなければならないのか。
 私には患者と家族、そして職員の前で院長が権威付けているとしかみえませんでした。医療に携わる医師としての倫理観の欠如。その人間性に対する不信。訓練に対する疑念とともに、それは日を追うごと確かになってきました。そして傷ついた患者と家族を慰めるのは決まって担当看護婦です。
『院長先生の言葉は厳しいけれど、本当は…』見事な演出ではありませんか。

見方を変えると強引とも思われる器具の押し付けは、在宅訓練のために必要な器具の入手方法を知らないで戸惑っている家族にとって、これらのアドバイスは何から何まで親切の一語に尽きるともいえるかも知れません。
 また、裁判長のごとくの宣告も、本人や家族に事実を受け入れてもらうべく院長の立場として取らざるを得ない演出なのかも知れません。しかし、この病院での5ヶ月間は、僅か30分間のとても訓練といえないものであり、後の膨大な時間はただただベッドに寝かされ、励ましも、温かな人間性も無く、心が傷ついただけの期間だったのです。
 いま思えばこの期間と経験があったからこそ、その後、在宅での何ものにも形容し難い壮絶な自主トレーニングに身を投ずることが出来たのではないかと思うことがあります。


■その余りの違い

 夜、消灯時間になって看護婦さんがこう耳元でささやいたと言います。
『ごめんね 森さん。傷ついたでしょう。だけど私は森さんを見ていると今に必ず立てるようになると思う。もう直ぐ私はここを辞めるけど絶対諦めないで頑張ってね』
『どうしてこんな私が立てるようになると思うの?』
『いや、森さんを見ていると何となくそう思う』

 丁度その頃、森さんと同じ頚椎を損傷した20歳の若者が呼吸器を付けたまま東京の大学病院からドクター付き添いで搬送されてきました。しかし私は森さんよりずっと希望があると思ったのです。
 勿論医学に無知な私が分かるわけがありません。けれど何と言ってもその若さ、それ故の筋力と体力、そして順応性です。
 その若者もつまるところ、自ら身も心も朽ち果てらかしてしまうかのように死に急いでいました。
いくら言っても食事は一切拒否していたのです。さすが喉の渇きには耐え切れず、缶コーヒーだけは飲んでいました。病院側としてはこのような幼稚な自殺行為を見逃すはずも無く、強制的な栄養補給点滴の毎日です。
骨折などの患者が退院に向けての訓練で入院するのとはわけが違います。
 リハビリに関して権威があると言われているこの病院とスタッフ。それを統括する院長の言葉に患者は勿論、家族はワラをもすがる思いで一縷の望みを賭けてすがっているのです。
絶対的優者としての心の奢りに私はどうしても我慢が出来ませんでした。
 例え臨床的に回復の見込みが限りなくゼロであり、いや絶望的であったとしても、心のリハビリというメンタルケァの面で患者の傷ついた心と身体にもう少し温かく寄り添えないものなのだろうか。
 つい2ヶ月前に別れた第二病院のスタッフの方々がこれほど懐かしく思った事は無かった』と森さんは涙ぐみます。

 そして私達は衝撃的な事実を聞かされることになります。
『これからも第二から患者さんを廻してもらうため、6ヶ月の間、森さんを引き取っただけなのです』
 あらゆる所で断り続けられた完全四肢麻痺の森さんが『これが最後!』と興奮したその裏には今言ったこんな駆け引きがあったとは。
 しかし、いかに口が滑ったとはいえ、人の尊厳を踏みにじる重大な事を平気で言ったこの職員もまた、この病院の利益を追求する体質を何よりも象徴する人間性を失った一片の部品という歯車です。

これは森さんに対する犯し難い冒涜でした。

 それにしてもつい二ヶ月前に退院した第二病院のスタッフとの余りの違いに『これが同じ看護師さんなのだろうか』と驚く事ばかりでした。

 こんなことがありました。

 何気なく『森さん、ベッドに座ってみようか?』と言ったのです。
第二病院では手術後の経過を見ながら、『車椅子の散歩はいいですよ』と許可をもらっていました。首をしっかり固定して最初はストレッチャーに全身を縛り付けてから徐々にその角度を上げての散歩です。次は車椅子からずり落ちないように身体中、晒しでぐるぐる巻きにしての散歩でした。
看護師さんは勿論、私達、見舞いに来る人達がやっていましたが森さんがいつも病室にいないというほど頻繁でありそれが日課でした。
 これは何より外の空気を吸いたかったからで、医師達も積極的に応援してくれていたのです。この日課があったからこそ、最も懸念した拘禁症から比較的短期間に立ち直れたのです。それ程楽しみにしていました。

 今思うとこの車椅子での散歩がその後のリハビリを行う上で劇的な効果を上げていたという事を私は当然知りません。お陰で退院間際には晒しで縛られているとはいえ、椅座位姿勢が出来るようになっていましたし、おまけに背もたれの角度を毎日徐々に上げてやることに身体が慣れて起立性低血圧も克服していたのです。
この血圧変動の克服がいかに大切なことかは後ほど痛感する事となります。
 リハビリを行う上で避けて通れないものであり、その位、第二病院での散歩は一番大切な急性期リハビリの原点だったのです。しかしここでは散歩などは望むべくもありません。

 森さんは看護師さんに支えられているとはいえ、何の苦もなくベッドに端座しました。それを見て心底驚き『ちょっと みんな来て!森さんが座っている!』と大声で叫んだのです。皆、驚愕していました。しかし古参の看護師が『そんなことをして怪我でもしたらどうするの』この一言で終わってしまったのです。
 また『森さん、リハビリルームの訓練だけでなく、こうしてベッドに一日寝ている間も出来るんだよ』と天井の頑丈なレールにロープを縛り付けて重りをぶら下げ、両腕筋トレをしてくれました。
しかしこれも『万が一外れたらどうするの』この叱責で一番大切な早期リハビリの機会を失い、その結果森さん本人の取り組む意欲をことごとく潰されてしまったのです。


■命の恩人、勇気ある看護師さん

 森さんは何よりもお風呂を楽しみにしていました。頭の痒さに耐え切れなくて髪を洗いたかったのです。
 他の方は付き添いの家族、あるいは本人がブラシで整えていますが当然それは叶う身体ではありません。それを見るに見兼ねて当番の看護師さんが『洗ってあげる。今日は森さんのお風呂の日じゃないけど』と言って洗ってくれたのです。しかし、詰め所に呼ばれ、こっぴどく叱られました。規則外のことをして他の患者にしめしがつかないという理由です。
『森さん、ご免なさい。…もう私、髪を洗えなくなっちゃって』

 こんな方もいました。
『森さん、外を見たいでしょう?今度僕が非番の日に連れてってあげる』
その看護師(男性)さんは約束通り非番の日に来てくれて病院の周囲を大急ぎでグルッと一回りしてくれたのです。

10月の冷たい霧雨の日であり『…あぁ これが生きているってことなのだ…』と身が震えるほど感動し『生きていて良かった』と思ったと言います。
しかし、翌日これも散々絞られたのです。
 そこには脊髄損傷で汗を拭くことも出来ず、暑さに喘いでいる瞬きだけの人間に対する労わりのかけらもありません。外の空気を吸いたい、というほんのささやかな願いに、わざわざ非番の日に叶えてくれたその優しさに対しても厳しい叱責で挑むこの病院の硬直性。何よりそれに慣らされ、何とも思わない看護師としての原点を失った冷酷な人間性とその仕打ちは8年経った今でも決して忘れる事が出来ない憤りと哀しさです。

 今思うとこうした措置も見方を変えるとあるいは正しかったのかも知れません。患者というのは勝手なもので、万が一事故に繋がっていればこれらの看護師さんをあるいは恨んでいたかも知れません。
 しかし私は思うのです。何事にも前進しょうと思うとそこには多少なりとも危険が懸念されるのではないだろうかと。それを避け、どんなことにも事なかれ主義に徹していれば機能の回復などは望める筈も無く、この人達にはその危惧を乗り越えた決断と共に、起こり得るかもしれない万が一に対して責任を持つという姿勢を強く感じました。

 本当に数少ない人達でしたがこれらの方達の優しい心遣いは森さんとってはまさに天使の行為だったのです。
その中で森さんのこれからの生き方、いや人生そのものを決定的に方向付けしてくれた恩人とも言えるそれほど重要な看護師さんがいたのです。

 ある時、泌尿器科の先生が何の前触れも無く『森さん、これからお腹に管を通す手術をするから』と、いとも気軽に言ったといいます。いうまでも無く膀胱瘻留置です。
 森さんは驚き『私はそんな事は聞いていません!私はここにリハビリをやりに来たのです!』と言い切りました。その時たまたまこの看護師さんがいたのです。
『先生、検査もせずまだ早いと思いますけど。検査してその結果を見てからでもいいんじゃないですか?』
 森さんが傍で見ていてもその態度は毅然として凛とした言い方だったといいます。それに気負わされ『脊損は殆んど腎不全だ。全身麻痺で機能が残っているわけがないじゃないか』『手術しないで済むのはせいぜい一割だ!』と吐き捨てるように言い出て行ったのです。

 この看護師さんのお陰で手術は免れ、お腹から導尿のカテーテルが伸びて腰にウロガードと呼ばれる尿パックを一生着けずに済みました。もしこの手術を受けていたならこれから始まる凄絶とも言える訓練の数々の内、特に床運動でのうつ伏せと寝返りへの実に厳しく激しい特訓に果たして耐え得たであろうか。
 また、この手術につきものの周辺の褥瘡と膀胱洗浄、細菌感染の処置などを考えた時、この勇気ある看護師さんは森さんにとって決して忘れる事が出来ない生涯の恩人なのです。

 ここからこの看護師さんの凄いところです。
自分が身を以って庇った手前、早速売店からオムツを一抱え買ってきて『さぁ 森さん!今日から始めるからね。私も頑張るから森さんも頑張って』『だけどやるだけやって、もし駄目だったら諦めて』
 自力排尿にこぎつけ、導尿カテーテルを外す為の特訓がこうして始まったのです。この自力排尿は脊髄を損傷し、膀胱括約筋が機能しない者にとってこれほど難しいものは無く、またお互い根気が要るもので、何とも形容し難い苦しさ、重苦しさ、そして残尿感の不快さは我々の想像をはるかに超えるものであり、それこそ山のようなオムツを使ったのです。

 看護師さんがビッシリお腹をさすり、刺激して水分の摂取量と時間を克明に記録しながら、カテーテルのクリップを止めては通し、昼は止める時間を徐々に長くして尿意を促し、括約筋を刺激する特訓は続いたのです。
 ある時、森さんはがっくりして急に元気がなくなりました。詰め所に連絡が行き、この看護師さんが血相を変えて飛んできて直ぐその異常を察知して、ものも言わずいきなりフトンをめくった途端、サッ!と顔色が変わったといいます。

 パンパンに膨満したお腹であり、肩で息をして喘いでいたからです。直ぐチューブとお腹を押して強制排尿させて事なきを得ました。
『こんなことして膀胱が破裂したら一体どうする積りだったんだろう。これは看護師のイロハで、全く私は恥ずかしい』と嘆いたといいます。ここでも森さんはこの看護師さんに助けられました。もしこの人がいなかったら『だから自力排尿は無理だと言ったろう!』と今度は否応無く手術されていたことは疑いありません。しかもインフォームドコンセントなどの観念は全くありませんでした。
何よりも瞬きだけの人に『脊損で機能が残っているわけが無いじゃないか』とのズケッ!と突き刺す冷酷な言葉には労わりと温かみ等微塵もありません。

 それからしばらくして『こんなとこ馬鹿らしくてとてもやってられない』と森さんにこっそり挨拶して辞めてしまったのです。
 一生を左右する局面に、このような人に巡りあった森さんはここでも強運がついて廻りました。二度にわたり命を救ってくれたこの看護師さんのことは、毎日の厳しいリハビリの最中でも常に心の隅にあって私達は8年経った今までも、行方と情報をあらゆる人に頼み、集めているのです。まだ不自由ですが、手をしっかり握って励ましと勇気を与えてくれたことに心からお礼を言いたいのです。
 この方なら、あの状態から立ち、歩く迄になった8年間の努力を瞬時にして分かってくれると思うからです。

 行方を捜している、とは大袈裟な表現と思うでしょうが、しかし違います。
森さんを勇気付け、心優しく接してくれた看護師さんが辞めるときには一様にこう言います 『森さん、私は今月一杯でここを辞めるけど、諦めないで頑張ってね』『私は森さんを見ていると、いつか歩けるような気がしてならない』『…今に必ず立てるようになると思う』そして『私が辞めることを絶対内緒にして』と言うのです。これは行く先々での中傷、妨害を恐れるからでした。

 この看護師さんの熱意とそれに応える森さんの努力で度重なる残尿検査を経て、ついにバルーンの導尿カテーテルを外すことに成功しました。事故以来8ヶ月近く、腰から伸びたチューブを外すことが出来たのです。
 これは常に勇気付け、身を以って庇い、森さんになり切って強い決意と熱意で一緒に励まし続けてくれた勇気ある看護師さんに対する何よりの餞別となるはずでした。
しかし、それを成し遂げたのは辞めた後だったのです。
『あなたのお陰で助かりました』『あなたのお陰で頑張ることが出来ました』と、一言お礼を言いたいと何時も涙ぐみます。
これは8年経った今でも何としても心残りなのです。


■ついに退院

 この導尿カテーテルを外せたことが、その後、私が森さんに課した実に厳しい訓練に耐え得る基本であり、計り知れない重要な事になるとは当時の私は全く思ってもいなかったのです。
 この頃、森さんは勿論、私もこの病院に対する不信感は頂点に達していました。
寝返り訓練は相変わらず続いていましたが、ピクリとも動かないその身体を見て、他の患者さんは実に不思議そうに、そして露骨な興味をもって見ていたのです。これ一つとってもたった一枚のカーテンで遮蔽するという気遣いは全く考えられていません。この寝返りがいかに無理な要求であったか、私はこの後、徹底的に思い知らされます。結局は耐え難い屈辱と挫折、その心に重い苦痛と絶望を塗りこめて更に傷を深くしただけの寝返り訓練でした。

 退院間近になり、さすがにこの実に馬鹿げた訓練は無理と分かったのか、今度は「立ち」の特訓となったのです。これも全く噴飯ものです。現在その人が有する最大限の残存機能を調べてからプログラムは当然組まなければなりません。寝返りが駄目だから立ち。しかも瞬きだけの人に。さらに起立台を使わず他力で。
この思い付きのような発想は一体何処から出くるのか。これは単なる骨折か、あるいは半身麻痺患者の扱いと混同しています。立位は勿論、もっと簡単な座位ができる姿勢保持全ての基本は腰なのです。
 完全四肢麻痺の人がベルト無しで椅座位しているその姿勢保持を見ただけで、頚椎損傷の何たるかを知っている専門家は驚きます。
 
 更に椅座位が出来て前屈と後屈に耐え、しかも体勢を立て直せたらリハビリによる顕著な回復例として驚きの目でみられる位、この姿勢保持は至難なことなのです。体幹消失に陥っているからであり、これが体幹麻痺です。それには上肢を支え、その荷重に耐え得るだけの腹筋、横隔筋、後背筋、大腿筋の強化は当然欠かせません。特に腰の安定が最も重要であることは言うまでもないことです。その基本を無視して両脇から二人掛りで支えて手を一瞬離します。
ほんの数秒「倒れるまで」確かに立ちました。

 しかし鏡で見たその自分の姿。それは極端に斜めによじれた腰、大きく傾いた身体、「く」の字に折れ曲がった奇妙な足とぶざまに開いた膝。左右の手は肩から大きくくねり、肘から下はブラブラとし、右の手首は大きく内側に湾曲し、指はバラバラ、左は固いこぶし状であり、それは今にも朽ち崩れる廃木という躯体でした。想像はしていました。いや、想像をはるかに超えた余りの惨めな姿と無惨さに『あっ!』と絶句して涙も出なかったといいます。
 それでもこのことが院長に報告がいきました。『森さん、きのう立てたって?良かったね。しかしその足はどんな事をしても歩くには至らない足なんだよ』またしても立つことを根底から、そして執拗に突き崩す判決です。そして極め付きの言葉。
『森さん、万歳できるかい?ここで万歳してごらん?』

 よく解釈して、手の運動機能を調べる臨床的質問かも知れません。しかしC2~5損傷により、躯体全域にわたる四肢麻痺状態は添付されたカルテから、そして入院初日の院長自身の所見、検査で何よりも最重度機能障害は把握している筈です。私に言わせれば、これこそ「お手上げ」です。
更にこうも言ったのです。
『だけど簡易トイレは使えるかもしれない』一体、この人は何を言いたいのだろうと唖然としました。
便座がしっかり床に固定されたトイレと違い、この簡易ポータブルトイレくらい危険なものは無いのです。それは背もたれが無いからです。

瞬きしか出来ない人間に対するこの言葉は、常識をはるかに超える漫画的なものでした。 


□1994年2月1日。 この日の記録から書き起こしていきます。

 退院の日、例によって森さん本人と私達は院長に呼ばれました。
『まぁ 色々頑張ったけど駄目だったな。これから貴方達のやることは今のピークの状態をいかに保持するかということであり、そのことに全力を挙げるということです。』
・・・何をもってピークというのか。
 第二に入院していたときより全身は浮腫み、基礎体力の減衰は素人目でも分ります。しかも命令が伝わらない四肢麻痺患者に『万歳してごらん』とは。
 第二病院でお世話になった先生方とスタッフの方達に『…半年後、松葉で歩いてお礼にきます』と約束した森さん。
 病院挙げてと言っていいほどお世話になり、温かい励ましを頂いた島田先生と全職員と比べ、余りの人間性の違いに心底、慄然としたのです。

 こうして1994年2月1日。第二病院から患者を廻してもらうために半年だけ引きとった、とポロッと不用意に漏らした言葉どおり、半年目に入ったこの初日、退院しました。ここにも功利と計算を感じます。なぜなら後27日も残しているからです。退院した、というより退院させられたのです。
しかし私から言わせるとようやく退院することが出来たのです。
 案の定『浴室ではこの椅子を使いなさい』と実に無骨で、何より危険この上ないパイプを組み立てただけの手作りのお土産を買わされてです。

 車中、私達は押し黙ったままでした。
『この5ヶ月間は一体、何だったのか』との索漠とした思いからです。5ヶ月前、森さんは北海道でも整形外科として、しかもリハビリに関して名のあるこの病院への転院を全身で喜びを表していました。
 松葉杖で立って帰れる、とそんな奇蹟を願って転院したのではありません。半年後、退院するときは最低でも車椅子と張り切っていたのです。
 その上、少なくても充実したリハビリを受けられ、良い人たちに巡り合い、生きていく勇気を与えられた、との有形、無形の心の弾みが全く無かったことが重苦しい沈黙となったのです。
 それどころか挫折と更なる絶望。加えて抜きがたい人間不信感。その身体と同じく心までも深い傷を負ってしまいました。        

 森さんは『島田先生、第二の先生と看護師さん達が人間としていかに素晴らしい人達であったかを思い知らされました』と泣いています。医療に従事するからには、皆このような人達なのだ、との思いも根底から無惨に打ち砕かれてしまいました。勝手に思っていただけだったのです。
 この5ヶ月間、森さんの頭に占めていたことは『何としても脚力を着けなければ』この一点でした。これは機能回復の切望ではありません。脚力を付けて7階の病室から飛び降りるためでした。しかしこの願いさえ叶う筈も無く、森さんにとって自殺できることは最高の贅沢だったのです。

 私はこのままでは身体は勿論、その心まで確実に朽ち果てることが分かっていました。そこで退院する3ヶ月前位からあらゆる本を調べて自宅をリハビリルームに改造するために素人ながら設計図を引いていたのです。
 16畳全てバリアフリーのフローリングに床暖と完璧な空調。トイレとお風呂はストレッチャーを考えてスペースを広く取り、特にベッドの装置を見た人は皆驚嘆します。その装置とはベッドごと一つの部屋にして寝室という箱で囲み、それを壁に埋め込んだレールで吊り上げてゴンドラ式に上下するものです。
 ボタン一つで操作できるこの装置はエレベーターよりはるかに安く、非常にユニークであり、身障者を抱えている家族の方達が随分と見学に来たものです。当然これらの全面改造には相当の費用が掛かりました。
しかしここでも考えられないことが起こったのです。

 それは先代の父親が娘の為に郊外の閑静な住宅街に100坪ばかりの土地を買っておいてくれたのです。バブル全盛の時は随分と引き合いが来たのですがどういうわけかことごとくまとまりませんでした。それが札幌からの退院間近になった途端、バブルがはじけたのも関わらず、一発でまとまり、しかも改造に要した費用とその売値は、何と30万も違わなかったのです。
まるで娘を不憫に思う両親の強い意志が働いたとしか思えないこの余りの奇蹟という偶然に私は深い感動を覚えました。

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