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あ と が き


 これは森さんが事故に遭った1993年6月~2000年12月迄の足掛け8年間にかけ生きてきた全軌跡です。
2000年10月、私は遅まきながらインターネットを始めました。当然、脊髄損傷の項を検索する毎日でしたが、その中でこれらの人達の情報窓口になっている「はがき通信」という小冊子を主宰する、九州の向坊さんという方を知り『何と凄い人なんだろう』と激しく心を揺さぶられたのです。

 ご自身が最重度頸損にも関わらず、その驚くような行動力、指導力、統率力と国際性。全国の仲間のどんな些細な相談にも懇切に語りかけ、励まし続けるその人間性に加えて博識、数多くの著書。そこに私は真の指導者の姿を見たからです。

 この方から森さんのところにお電話がきました。
 『今、歩いてらっしゃるんですって?良かったですね。これは医学の常識を覆すそれだけ凄いことです。是非私どもの会報に投稿して下さい』
 直ぐ編集委員の藤田さんからも『待ちに待った余りに衝撃的な明るい情報でした。この記録は当事者やその家族にどれほどの生きる勇気と希望を与えることでしょう。是非皆様に紹介したい』
この返事を頂き、私は耳を疑いました。これは今迄初めてだったからです。藤田さんもまた頸損です。

 森さんの8年間の生き様をどう受け止めるか。想い出したくない古傷をえぐる残酷な記録と取る方もいるでしょう。ある方が言ったように『科学的裏付けが無いから認めない』との考えは当然です。しかし藤田さんは『これを読んで訓練する、しないかは本人が決める事』と言い切りました。この一言で私の迷いは一気にふっ切れて公開する事にし、一切をお任せしたのです。

 こうして森さんは隔絶された密室から解放されて私の手元から離れ、インターネットという途轍も無い通信媒体に載りました。大きく飛翔する鳥となって放たれたのです。
その捉え方、見方は人様々であり、私が口を挟むなにものもありません。

 完全四肢麻痺を宣告され、事実その躯体から一切の動きを奪われた森さんに対して、「訓練のきっかけは?」と実に多くの方々より問い合わせがありました。
 私はこう考えたのです。
 ヒトとして複雑精緻に創られている生体が、一ヶ所破壊されたらゼロということが有り得る筈はない。複雑精緻だからこそ、必ず代替機能が備わっており、セキュリティーシステムを有している、このように発想を転換したのです。

 また、完全四肢麻痺だから動かない。この考えは私の頭の中には微塵もありませんでした。「訓練をしないから完全四肢麻痺となる」と逆に考えたのです。
 私が森さんに対して行なってきたリハの原点とは何か。それは文中何回も語られている「人間の尊厳を取り戻す」いわば自己崩壊を食い止める、この一語に尽きます。それが「精神的立ち上がり」と「自力排泄」でした。

 森さんが立ち、歩くまでにはここに書かれてある通り、言語を絶する特訓を8年間に亘り課しました。しかし、小樽に来る彼等には同じ取り組みを強いることを私は決してしません。重脊訓練とは、明るい希望に胸を弾ませ、動いた手足に感動し、そして驚きながら行なってこそ、その効果は最大限に活きるものと思うからです。その彼等がやがて立ち、歩いた時、振り返ってみてかつて悲惨で絶望の日々は、20代という若さ、その長い人生からするとほんの数日です。

立つための時間はたっぷりあるのです。

時として、私達はその若さが持つ可能性に眩しさと羨ましさを感じます。何を絶望することがありましょう。
動きを取り戻した人達の共通点はただ一つ。「決して諦めなかった」それだけです。
「必ず動く!」と信じ本人と家族が頑張った結果です。

 突然我が身に襲い掛かった不幸にベッドで涙するより、努力に報いて動いてくれた手足に感動して涙するほうがどれほどの価値があることでしょう。
 
 老若男女問わず国内・国外から実に多くの脊髄損傷者が身も心も疲弊しきった状態で小樽に来ています。その方達が訓練最終日、リハルームに掲げられた森さんの両親の遺影に深く頭(こうべ)を垂れ、手の利く方は合掌し瞑目しているのです。

その頬から滂沱と涙が伝い、シンとした感動にうち鎮みます。

 『…このご両親がいたから森さんを知ることが出来た』『森さんがいたからいま私はこの部屋にいる』
 あれだけ峻烈・過酷な訓練を行いながらも、ついに森さんは「健常者」となることは出来ませんでした。私の究極の目的である自主トレが叶わなかったからです。しかし彼等は森さんから希望とは、勇気とは、そして生きることとは何かを与えられ、精神的に見事に立ち上がり、人間の尊厳を取り戻して帰路につきます。

 彼等にキラリ!と射る陽を与えた森さんこそ訓練に携わった私から見て、誰よりも健常者そのものと映るのです。
 
 現代の医科学はこの忌まわしい脊髄損傷を近い将来必ずねじ伏せ、大きな福音をもたらすことは間違いありません。連綿と続いた「一旦中枢神経に損傷を受けたなら、決して動くことは無い」との観念が「かつては」と言われる時代は間違いなく来ます。これは断言できるのです。

その日が来るまで私も森さんも恐らくいません。
しかし、医学の常識に敢然と立ち向かって挑戦し続けた森 照子というごく平凡な一女性が、「動く!」との揺るぎの無い信念を持ち、凛として人間の尊厳を失わず、文中、鮮やかに歩いている姿を思い浮かべ、福音をもたらすその日まで決して諦めず訓練に励んで頂きたいと祈るような気持ちで膨大なメモを纏めたのがこの本です。

ここに2001年に来た藤本先生の年賀状を紹介します。
「私のところにも年々脊髄損傷者が増え続けています。これ等の方々を見るとき、敢然と立ち向かう森さんの姿が何時も浮かんでくるのです」

最後に森さんを励まし続けてくれた実に多くの友人。この記録をいち早くネットで紹介した向坊先生と藤田編集委員。過酷な訓練に耐え抜き通し、まさに完璧なアシスと共に、森さんの介護に徹してくれた塚本美子さん。
強い心の支えとなってくれた島田先生と藤本先生。また、真っ先に「広く知らしめるべき」と出版のきっかけをつくってくれた掖済会病院の髙田院長。

常に勇気付け、私の方向を修正してくれた兄とその家族に対して言い尽くせぬ感謝の気持ちを込めて…。

 

右近 清  2005年10月

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