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【第三章】       手、その神秘な動き

 
 脊髄に重度の損傷を受けた場合、殆どの方は自律神経も損なわれます。
 暑さ、寒さの体温調整が出来ず、体調の管理と維持には最も神経を遣い、森さんも感覚を奪われた為、季節の移り変わりを肌で感ずることなどは全く無縁でした。暑さでうだる脊損は実に悲惨です。体の中に炉があるからです。
 森さんは特に冷房に弱く、自然通気で体温を下げるしかありません。私はリハビリルームに冷房は付けませんでした。この人工冷風に晒されるとどんなに関節を柔らかくしても瞬時に体幹迄硬くなり、もうそうなったら何をやっても駄目です。酷い時はチアノーゼを起こして、指は完全に内側に折れ曲がり、大の男でも開くことは出来ません。そのため、部屋は完璧と言って言い程の空調、湿度、温度管理に重点をおいたものにしてありました。

 私は在宅リハビリをやる前、少しでも参考にと思い、数多くの病院を見て廻りましたがそこでいつも不思議に思ったことがあります。床が全て固いクッションフロアーであり、それもモップで磨いてピカピカです。当然滑るからリハビリシューズを全員履いていました。
『これでいいのだろうか?』といつも疑問を感じていました。
感染、清潔、危険防止、足首の保護、安定性などが大きな理由です。しかし『どうして?』と、いつも思い、それが疑問であり納得できなかったのです。尤も脊髄損傷者を扱ったことがないからかも知れません。
 
 歩行訓練の際に最も肝心なのは足首の曲がりと荷重の掛かるところであり、ターンの時、つま立ち出来るかどうかとその角度です。接地するときに最初に着くのはかかとか足指か。足を運ぶ時、指先は上を向いているかどうか。更に重要なことは足が床につく時、足裏を通して身体全体に感じる接地感、振動感、感触感等の知覚刺激がゴム底の靴で遮断、隔絶されていることです。しかも足の裏はツボの密集地帯です。

 私は森さんにリハビリをやるとき、最初から冬以外は七分ズボン、暖かくなったらノースリーブのTシャツです。筋肉の動きを見るためには当然と思っていました。これにより、歩く時の膝の曲がりとその角度、力の入れ具合、床に付くときの足裏の個所とターンの捻り等、私にとって計り知れない勉強になったのです。当然、荷重のかかる際には足の筋肉を見ることが出来ます。
 徐々に森さんは素足を通して接地した時の感触、しかも床暖の入っている所と無い所、更にその周辺のぼやけた所さえ分かるようになってきて、この絶えざる刺激が何と腕にまで一体感としての繋がりをもたらしたのです。
その最初の自覚。それは腕のシビレでした。全く死んだような手と腕がシビレを訴えてきたのです。足と同様にこれこそが感覚の起き上がりでした。絶え間のない足と関節の揉み、電子鍼での刺激と5年以上にも亘る裸足での歩行訓練でついに脊損の宿命とさえ言われている知覚、感覚麻痺が蘇って来たのです。
 痛覚が最初に目覚め、次に温覚、触覚、冷覚がゆっくりと起き上がりかけました。これにより、交感神経、副交感神経が活発に刺激されて、何と自律神経まで活性化してきたのです。
 神経の断面はH型をしており、前の方は前根と呼ばれ運動分野、後のほうは後根といい、知覚を司っているということを知りました。集中した厳しい訓練の結果、運動機能が回復するにつれ、知覚神経も目覚めてきたのです。これは立つ、歩くに匹敵する位の驚くような機能回復ということ当時の私には分かっていなかったのです。

 その後、脊髄を損傷した多くの方々が訪ねてきましたが、殆どの方は自分の身体から手足が付いているという感覚は限りなくゼロであり、また知覚はなかったのです。
 かつて自分の意志どおりに身体を運んでくれた足という器官。意のままに動かし走り、跳び、大地を踏んだ足。今、自分の身体に付いているのは何の意思も伝わず、一体感の無い無機質な死んだ付属物なのです。それを目で確認するからなお更辛く、大地を歩いた感触と振動が忘れられずそれをまだ覚えているといいます。
 『ここで立つことが出来たら』と切実に思う場面に何回も出くわすといい、それだけに事故前、何とも思わなかった足の持つ機能の素晴らしさと有り難さをつくづく思い知らされ、立つことを奪われ、その感覚さえ失った足を見て堪らなくいとおしくなるとしみじみ言っていました。

 最重度頚髄損傷者が『自分の足がどこにあるのか分からない』という切実な悩みを聞いた私は島田先生に『この感じはどのようなものなのでしょう』と聞いたことがあります。『自分の身体から足が付いている、との感覚、その意識すら無いと思います。あるのは過去、確かに歩いたという記憶、現在足が付いているという視覚上の確認だけだと思います』

これは全く愚問でした。
 全身麻痺の森さんを通し、その内面まで知っている積りでしたが、私もやはり健常者の目で考えていたのです。森さんは当然リハビリシューズを何足も持っています。しかし、私は最初から一度も履かせませんでした。
 ある時、私が懇意にしている整形の院長が『うちの病院は設備とスタッフが整っているから是非連れていらっしゃい』言ってくれたのです。最重度の頚髄損傷者が何とか立ち、歩けるということを私から聞いて非常に興味を持っていたからです。

 既に病院では信じられない人が来ると聞いて婦長はじめ看護師さん、PT・OTのスタッフが興味津々と待っていました。この大きな整形外科病院でも脊損による四肢麻痺は扱ったことがなかったのです。しかもリハビリに関しては有名なところです。 
 私がリハビリルームでいつも通り森さんを立たせようとした瞬間、今まで見たことも無いやりそのやり方に、ワッ!と取り囲まれました。『この部屋に入る時はリハビリシューズを履く決まりになっています』
私は噴き出すのをこらえて苦笑いしてしまいました。

 それから婦長初めPT・OTが院長を囲んでなにやら相談していましたが、私にはその内容が全て分かります。
『院長の興味だけでこのようなとんでもない患者を引き受けたらたまったものではない』との相談です。もう私にはこのようなことはすっかり慣れてしまっているのです。
『規則だから靴を履きなさい』『立たせる手順がなってない』
 要危険度最高ランクの森さんを立たせるための一番安全で無理のない立たせ方は身体を通して知ったことであり、靴にしても最も大切な足からの触感と脳への刺激の遮断は素人の私から見てさえ全く理に合わない規則です。

 立たせる手順とか、靴など、何の意味も無いことにここでもこだわっていました。歩く、という運動で唯一身体の一部が接地して感触を確かめ、それを脳が確認できるのは足裏しかなく、それをわざわざリハビリシューズで遮断隔絶してしまうことの途方も無い無意味さにおかしさを感じます。更に知覚神経が麻痺している脊損患者にとって、このリハビリシューズは思いもよらない症状に悩まされます。それは靴擦れと外反母趾であり、痛覚が無いからです。
 この靴擦れは歩行訓練の際、最も厄介なもので、時として致命的とさえなり、その恐ろしさは森さんの所に訪ねてきた多くの方々、そして手紙でも訴えていました。その際、私は『先ず靴を脱いで素足から』ときつい注文を出します。その結果、殆ど全員と言っていいほど、足裏から感触が目覚め、それが上がってくる事実をどのように説明するのでしょう。

 一番理想的なのはフローリングでの裸足であり、足になじみ、踏ん張りが利きます。今では床に落ちた乾いた米粒やら糸屑を踏んだだけで足は止まり、しかも私がわざと室温を2~3℃上下させて試すと身体は直ぐ反応するまでとなったのです。こうして手足の動きはともかくとして、この感覚は限りなく健常者に近くなってきたのです。
 私は今迄色々な病院の先生に相談してきました。『連れてきて下さい』『是非その回復振りを見たい』と積極的に言って下さった先生もいます。しかし、実際に連れて行き、当時の資料を見ただけで『これじぁ…』『いくら右近さんの頼みでも…』と絶句されるのが常でした。
 立って何とか歩いている状態でもこうなので、それは後ろ側の首の骨が無いからです。それしか言い様の無い損傷の凄さをここでも確認するのです。

 尤も私は脊髄損傷者に対する病院のリハビリの何たるかを知っている積りですので今更森さんを預ける気持は毛頭ありません。その道の専門家である整外の先生でも、頚髄を損傷して瞬きだけの人が立ち、歩き、手が動くと言っても頭から信じてくれません。
 『C2~5で動く?それは単なるケイレンでしょう』『C2~5?呼吸中枢の直ぐ近くだょ。リハ以前です。呼吸器を付けていますか?』と先ず言います。森さんのような場合、呼吸器を外すリハビリから入るのです。

 しかし、このような先生が一人だけいました。
 札幌で入院していた時、北大からアメリカに派遣されて研修を終えて帰ってきた整外のK先生です。
『いいかい、僕が今バイバイと手を振るから森さんも手を振ってごらん。手が動かなかったら心の手を振ってごらん。それが一番大切だ』
 更に『絶対諦めたら駄目だよ。諦めた時、それこそ終わりだ。何もかもおしまいだよ。この分野は分からないことが沢山あるのだから、絶対諦めたら駄目だよ』『自分の怪我は自分で治すという強い意志が必要だ』『今では神経の再生が可能という事が分かって来ているのだから…』

 この言葉がいかに重要であったか。そうしてなんと素晴らしい医師でしょう。この一言こそ、8年間私達を支え続け、ついに森さんを立ち上がらせ、手を動かしたと言っていいそれ程重要な意味をもった言葉だったのです。
当時、私はK先生のこの言葉は単なる慰めと思っていたのです。


■死んでいたと思っていた手が…                                                                          

 しかし、私はその後、実際に訓練をやってみてK先生の言わんとしたことがはっきりと理解できました。
『動かないからといって絶対諦めるな。動かなかったら心の手を振って脳に命令して刺激を与えなさい』という事だったのです。私は今迄足だけにやみくもにリハビリを行ってきました。その理由は前に書いた通りです。もし、足を諦めて手だけに全力を挙げていたなら、今の状態よりははるかにスムーズに、また力強く動き、座ったまま身の周りのことはある程度できるようになり、ADL(日常生活動作)と並行してQOL(生活の質の向上)は今より比較にならないほど向上して、電動車椅子の自由な操りは可能になっていたと思われます。
 しかし二度と立ち上がることは出来ません。それでは足と同時に手も、という考えは当時の全身状態からは思いもよらなかったことであり、もしそれを行ったとしても余りの酷さに屈服させられ挫折してしまったことは間違いありません。それと素人の私でさえ、手と足のリハビリは全く違うと思っていました。

 私が最後まで迷ったのはこの足と手でした。
手のリハビリに集中して電動を操れるようにするか。
その代償として便利な器具に頼り歩くことを放棄するか。
足と手、この二つの厳しい選択に迫られました。このように人の一生に関わる決断は実に重苦しいものとなり、何日も何日も熟慮を重ねた末、ついに足を選んだのです。

 私は森さんの退院前から素晴らしい電動車椅子を用意していました。疲れないようにリクライニングにして、微かに動く右手の親指に反応するレバーとスイッチの形と角度は特に何回もやり直しをさせた特注品です。
 ようやく届いたその日に座らせたのです。どんなに喜ぶかと思ったのです。
が意に反し『…あぁ 私はこれが無ければ移動することが出来ない身体になってしまった』との実に寂しそうな表情を見たとき『よし!これは万策尽きてから使う!』と決心したのです。

 電動車椅子の機能の多様さと便利さは驚くほどで、僅かな指の反応と、あるいは森さんのように手が全く利かなくても顎の働きで自在に動かすことが出来ます。一旦これに慣れるとリハビリを施す者、受ける者が立って歩くという想像を絶する訓練に挑戦しようとの気は起きるはずもありません。私はそれを恐れました。
『とにかくやれるだけやってみよう、それで駄目なら…』との考えからです。 
そのため、せっかく特注した電動車椅子に森さんはたった「3時間」座っただけだったのです。
器械が動かしてくれるという発想、その器械を動かすための訓練はやらないと決めたからです。ここでも私は森さんが果敢に挑戦する気力とその可能性に賭けたのです。
 足を選んだのはこのような理由からでした。

 手は全く死んでいました。足より酷かったのです。           
『足はちょっとしたら可能性があるかもしれません。しかし手は恐らく駄目でしょう』と言われていた通り、ただ肩からぶら下っていただけでした。C2レベルでは僅かに肩は機能しますが、それすら反応は無かったのです。脳に近く、頚髄上部の高位障害だったからです。
 4年近く掛かったとはいえ歩けるようになった森さんを見て、『…これは訓練次第では手が動くようになるかも知れない』と、この頃本気で思うようになってきました。松葉杖歩行では腕はただ前後に直線的に棒のように繰り出していただけで、それはあたかもロボットの機械的な動きだったのです。

 私は手の訓練を行う前に、先ず腕をしなやかにさせるにはどうしたらいいのか、松葉杖の歩きをじっくり見る事から始めたのです。それには肩と肩甲骨にあると分かリました。
 森さんの肩と背中はくぼみというものが全く無く、まるで一枚の板であり、そのため背筋を伸ばして深呼吸が出来ず呼吸も浅かったのです。
 L字に座らせて、背後から両肩を掴み、私の片膝を背中に当て、グイ!と思いっきり仰け反らせると同時に深く深呼吸させては吐かせるのです。これを毎日繰り返したお陰で背中が柔らかくなり、次に三角の肩甲骨が出っ張ってきました。

 いよいよ腕を動かす特訓に入りました。
テーブルに手を乗せて、滑りを良くするために澱粉を塗りました。
 当然ですがこの頃は引くことも押し出すことも出来ませんでしたが、腹筋を使い前傾した身体ごと引っ張り、押し出すのです。この単調な訓練は1年以上続きました。
 事情の知らない方は大の大人がものも言わず、瞑目して粉だらけになって死んだ手を生き返らせようとするその余りに異常な光景に寒気がした、と後で言っていましたが、その位、精神を集中する特訓となったのです。
 これは足の場合と同様で、絶え間のない外的刺激に加え、全神経を針の先一点に研ぎ澄し『動け!腕を引け!』と命令し続けなくては何の効果も無いことを知っていましたからその緊迫感に寒気を催すのは当然です。

 損傷を受けた神経に指令を伝える過程が最も辛い時間の流れで、つねっても叩いてもピクリとも反応しない身体に『…一体、何をやっている。この手は診断通り完全麻痺だ』と自分を見失い、診断の正しさに愕然とし、訓練で何としても動かしてみせるという気は二度と起きなくなり、殆どの方はこの段階で恐らく100%と言っていいほどサジを投げ出してしまうのではないでしょうか。
 しかし、私はそうは思いませんでした。神経は傷つきながらも深い眠りについているだけであり、起こしてくれるのを待っていると信じておりましたし、確信もしていました。
なぜそう思ったか。それは死んだも同然の足で経験しているからでした。
 生き残り、深い眠りについている神経を自らの指令という刺激で揺り起こす内的刺激。揉み、曲げ、叩き、低周波、電子鍼での外的刺激と私の檄。傷ついた神経もまた繋がろう、繋がろうと必死に枝を伸ばしているのが分かるような気がしてくるのです。

 それは足の時と同じで、刺激を与えると時々強いケイレンが走ります。勿論それは脊損特有の痙性と反射ですが、しかしそれとは明らかに違う「何か」が微かに私の手に伝わってきます。
 今までその反応すら全く無かった化石のような手とは微妙に違う手応えでした。強いて言えば意思の伴った動きというか、不随意と随意の微かな動きの違いが私には分かるようになってきていたのです。
 末梢神経がようやく起き上がりかけ、後は本線である中枢神経に信号を伝える段階か、あるいはその逆かもしれません。

『ここが一番辛いところ』と3人が共に必死でした。
この頃から私は暗示リハビリを徹底して取り入れたのです。

腕を上げて肘を掴み『これからこの腕を上げてみせる!』と言い、鋭い気合をかけ『ほら、繋がった!私には分かる。確かに動いた!』
連日この繰り返しです。                       
 森さんは目で確かめることは出来ません。目を開けたらたちまち私の叱責が飛ぶからです。
『きのう、この角度で肘を曲げた時、確かに繋がり指が動いた。さぁこれからやってみる。全神経を指先に集中するように』
 今までの強い暗示が森さんに記憶されていますが、今日はそれよりはるかに強い暗示刺激です。この精神の集中力は凄く、サッ!と顔に朱が走リ、コメカミが震えるほどなのです。

『よし!今繋がった。今、確実に動いている。とうとう繋がったぞ!』
『目を開けろ! 開けてよく見ろ!動いている。目を開けろ! … 』
私は悲鳴を上げます。   
ゆっくりと人差し指が動きました。

『今、人差し指が動いている。目を開けてしっかり見ろ!真中で止めろ!止めるんだ!』
しかし森さんは目を開けません。
私にはその気持が痛いほど分かります。
目を開けた途端、また死んだ手に戻ることを怖れているからです。
固く瞑った目から泪がどっと溢れて頬を伝います。           
見ることさえ恐ろしい森さんの頭の中で、その指はゆっくりと前後に揺れて命令どおり真中で止まっているのです。
 目の前で起きた信じられない出来事に、私と美子はその場にへたり込み、ゆっくり動く指をただ呆然と見ていました。

 私は『手は諦めよう』と何度も思い『今月一杯やって何の反応も表れなければもう駄目だ。諦める。』と、期限を切って訓練をやっていました。しかし、先ほどの1年以上にも亘る粉をつけての訓練のお陰であれほど固かった肘関節が確実に柔らかくなりました。どうして繋がったかというとここでも実に不思議な偶然が大きく作用していたのです。
 札幌での入院5ヶ月の間、関節揉み、捩れ防止などの適切な処置を一切していなかった為、両腕、特に左腕は大きく外側に捻じ曲がっていました。そのため血管注射も打てず、まして自分の手のひらを見ることは不可能だったのです。それを何とか治そうと来る日も来る日も内側に曲げる訓練をしていたのです。その甲斐あって大分関節が柔らかくなり、固さも取れつつありました。

 しかし、まだ手のひらを見ることは出来ません。ある時、捻るのに力が入りすぎ、パキン!と鋭い音がしました。といっても森さんは顔色一つ変えず全く平気でしたので、私もまさか折れたとも思わなかったのです。そのまま続けていましたし、翌日も相変わらず捻じ曲げていました。腕は確実に軽くなっています。折れているからこれは当然です。
『ほら、だんだん柔らかくなった』と喜んでいたところ、だんだん腫れてきたのです。
直ぐ知り合いの整形に行ったところ、ものの見事に折れていたのです。
 院長は『いったい誰がこんな無茶なことをした!』と怒っていましたが『私です』と言ったところ『ウッ!』と前につんのめった姿がおかしく噴き出してしまいました。

 『右近さん、脊損はただでさえ骨の付きが悪い。まぁ3ヶ月以上は掛かると覚悟しなきぁ』『付けばいいけど、ちょっとしたら付かないかも知れない』『その間、何回も通うのですか?』『いや、森さんの場合、これから動かすわけでもないし、動くわけでもないから月に一回程度でいいと思う』『なるほど』と変なところで感心しました。院長は『この骨を折ると普通激痛が走るのに』と全く平気な森さんに驚いていました。
 しかも二日間にわたり揉み、捻じ曲げていたのであり、当時いかに森さんは「無神経」であったかの何よりの証拠です。
 肩からがっちりとギブスで固定されたため、当然ですがあらゆるリハビリは一切出来なくなり、何もやることがなくなってしまったのです。私は仕方なくこの死んだ右手をビッシリ3ヶ月間、揉み、曲げ、電子鍼を打ち、温め、冷やし、あらゆる刺激を与え続けたのです。一日6時間の3ヶ月です。
 ところが驚くべきことに先ほど言った神経が繋がり、息を吹き返し蘇ったのです。これこそ骨折り損ではなかったのでした。

 指が動いたとはいえ、それは僅か1cmにも満たないほんの微かなものでした。
 一日6時間、指だけに3ヶ月を掛け、たったの1cmと思い挫折するか、狂喜するか。それをどう捉えるかによってその後は実に大きな展開となりグン!と差が付きます。
 森さんは勿論、私も死んだ手に脈動が蘇った生体としての不思議な生命力と自己再生能力、共に自己修復能力に感動しました。
 ようやく動いた一本の指を今度は10指全てに神経を繋げなければなりません。右手の4本の指を包帯で縛り付けて、動かしたい指だけに全神経を集中させます。頭のスクリーンに大きく小指を拡大させて動画のように動かすイメージを流し続けます。
 2ヶ月ごとに一本一本繋げる膨大な時間がこうして流れていきます。そのうち指だけをやっても余り意味が無い事が分かったのです。それは肩、腕、肘という個所でした。

 指先が動いても根元が機能しなければ何もなりません。例えば腕を前に出す訓練の時、何回やっても硬い肘は真っ直ぐにはなりません。いわゆる伸展が出来ないのです。その時は押し出し訓練を即、中止して引き訓練に移ります。
 人間の筋肉は言ってみればゴムのようなものであり、何もしなければ内側に引っ張られ、よじれていきます。その性質を徹底利用してこのゴムにしなやかな弾性を与えてやるためです。


■紙一枚                

 人間としての日常動作に一番肝心な指に神経が繋がった以上、次は固くX状に交差した親指と人差し指の矯正訓練に入りました。これも連日徹底した揉みで関節を柔らかくして、自作の木のギブスでY字型に縛り付けて固定したのです。この親指と人差し指が離れなければ人間の指とはいえません。このままでは指先の機能は限りなくゼロに近く、この二本の指が離れて、しかも自分の命令どおり動いて初めて意志を持った指の働きという人間としての基本動作になると思っていたからです。
 同時に手の挙上訓練にも当然入りました。これにはコツも妙案も全く無く、ただただ上げるだけの特訓の毎日です。私が森さんに行ってきた200種を超えるリハビリ中、これほど反応が無く、また精も根も尽き果て、無念と挫折、そして溜め息の繰り返しだったことは後にも先にもありません。

 思い出しても『よく続けられたものだ』と呆れる位、夥しい時間の流れと膨大な日数を費やしたのも関わらず、反応が全くゼロの毎日だったのです。改めて頚髄損傷というものの怖さ、それに挑戦する素人の限界と浅はかさをここではっきり思い知らされたのです。『脊髄損傷のリハビリは時間の無駄』とはこのことなのだ、と思いました。
 今までの猛烈な筋力トレーニングの結果、上腕に筋肉が付き、その太さは退院当時に比べて倍以上となりました。しかし、手の動作として最も重要な肘から下の挙上・回内・回外・伸展・屈曲・しなやかさ、手首の曲げと上がり、更に指先の柔軟性は全く無く、動きそのものが直線的、鋭角的、機械的であり、あたかもロボットそのもので、掌握、掌屈も限りなくゼロに等しかったのです。

 これでは何のために指先に神経を繋げたのか、全く意味をなさないことになります。私達3人が大きな励みとしていたのは、ベッドから抜け出して、立って歩けたあの身の震える感動です。神経は必ずこの努力に応えてくれる筈と信じていました。
 もし指に神経が繋がり、動いていなかったら、これはとうに諦めていたそれだけ『いつ止めよう、いつ止めよう』との闘いでした。
 私は神経が繋がったのだから腕を持ち上げるだけの筋力さえ付ければ上がる筈だとてっきり思っていたのです。ここで私は足と手の運動機能の余りの違いと、命令系統の複雑さを知ることになります。

 今までは指令という内的刺激、そして外的刺激である他力での運動サポートといった密な連携で動かすことが出来ましたが、この挙上だけは一切通用しませんでした。
 島田先生に聞き、また資料を集めて分かったことは、手の動きを支配する脳の運動領域の広さと複雑さ。神経の圧倒的な多さ。しかも動かすための筋肉と複雑な骨という歯車の絶妙な噛み合せ。これらの動きは脊髄が考える脳を持っているとしか思えないくらい、神秘的な動きであり、まさしく手はよく言われる脳の出先器官であるとつくづく思い畏敬の念を覚えたのです。

 例えば手先のほんのちょっとした筆圧の加減は、脳の命令によりその動きを意のままに筋肉に伝えられ、怒った文字、やさしい字体、元気な字をその意志どおり書くことができます。単に指を動かす、上げる、いう神経以外に全く別な意思を伴ったその動きとその不思議さに驚嘆したのです。
 私が森さんに求めたのは目で確認できる上げではないのです。
机の上から紙一枚のミクロンの上げ、というより「離」れです。そのミクロン単位の上げのために、何でこのような馬鹿馬鹿しい訓練に連日神経をすり減らしているのか、その無意味さとついに屈服させられた怒りで手を荒々しく投げつけました。
 投げつけられ、惨めにひっくり返った手は何の反応も見せず、ただ指だけがゆっくり上下を繰り返しています。敗北感に打ちのめされた残酷な静寂の中で、森さんは目に一杯泪を溜めてじっと指を見ていました。三人がものも言わず、胸を締め付けられる思いで何の意味ももたないその動きを呆けるように見ていたのです。

忘れもしない1995年12月3日。事故以来3年半後。

 1280日を過ぎたこの日、美子が差し込んだ便箋がスッと手のひらを通り抜けたのです。ついに手のひらがテーブルを離れ、ミリ以下の空間が出来た瞬間です。
 
 私はこのときから5年以上経った今でもあのときの敗北感と投げつけられた指の哀願と悲鳴を忘れる事は出来ません。訴えをもったその動きは『何とかリハビリを…』との悲痛な心からの叫びです。
今までは全て感動でした。
しかし、この動きだけは今でも胸をえぐる悼みと切なさです。


■光学的なその距離

 指が動き、手のひらが紙一枚テーブルから離れるまでに要した目の眩むような時間。研ぎ澄ました精神の凝縮。呆れるほどの単調な時間の流れの繰り返し。ミリ以下の上げに1280日を掛けたのは施す者、受ける者、共に尋常とは思えず、まさしくこれは三人の狂気の世界です。
最初から手をやっていたら一年も経たずに挫折してしまい、その結果、手は勿論、立たせるなどとは到底考えもつかなかったことは断言できます。首が据わり、椅座位までが限界でそれすら驚きの目で見られていたことでしょう。ということはその姿は動く事のない置きものとしての一生です。
 足を最初にやって神経が繋がり一歩前に出た、という爆発した喜びと感動があったからで『神経さえ繋がれば…。何とか繋がってくれ!』この一念だけでした。手が挙がる前に指が動いていたのが何よりの励みとなったのです。もし、これが無かったら当然私は屈服させられていました。

 紙一枚テーブルから離れた手を、今度は目で確認できるまでの高さに上げる猛特訓をしました。
『上げる機能が働いた以上、一日1mm上げる』との目標を立てたのです。
 しかしそれは余りに馬鹿げた壮大な目標でした。
一日1mmは一ヶ月で3cm上がり、1年で36cmです。そんな数字上の計算では今までの8年間に亘る常軌を逸したリハビリの結果、限りなく健常者になっていなくてはなりません。しかも最初はダラリとぶら下がった手を膝の上、次は膝からテーブルまで、テーブルから胸、最後に胸から肩まで肘が水平になるまでの4段階です。
 一日6時間、3年半掛けて便箋をすり抜けらせたmm以下の私達にとって、その70~80cmははるか彼方のとてつもない無限ともいえる光学的距離であり、ここまで到達する時間に目が眩みます。

 最初の訓練のぶら下がっただけの手を膝に上げるには、身体の反動を利用しました。
 例えば右手を膝に上げる場合、上半身をグイ!と左に捻り、その反動で手を膝に乗っけるのです。これが出来たのは絶え間のない腹筋強化のお陰でした。
 次の段階の膝からテーブル。これはどう考えても無理です。私は上げることを即、諦めました。
上げるよりテーブルから腕を落としてやります。何回やってもダラン!と落ちますがこれを連日繰り返すのです。何万回もやりました。その内、肩と上腕で落下を防ぐ機能が働き、あの重い腕を支えることが出来てピタッ!と途中で止めることが出来ました。森さんの頭の中で『止まれ!』との強い刺激よる目覚めです。
 これが何回も言う逆な発想から攻める私のやり方です。そしてとうとう腹筋も利用し、肘をテーブル上に乗せることが出来たのです。
 これらは全て、床運動による腹筋強化と肩甲骨の柔軟訓練の成果でした。

 特に時間が掛かったのはテーブル上から胸までの僅か20cm。これは『いつ止めよう。もう駄目だ』と、膨大な時間の中で、叱責と溜め息の繰り返しになったのです。
 部屋に流れるBGMにひたすら神経を集中して頭の中で手を上げるイメージを再現させます。最も敏感な指先の訓練を行っているとき、不用意に『はい!』と返事をしたため指は瞬時に折れ曲がります。そうして愕然とするのは咳です。指どころか体幹まで硬直して、もうこうなったら何をやっても駄目であり、また一からの出直しになるのです。この指の精緻さ。真っ暗闇での手探りでその形状から瞬時にその物を認識確認する指はまさに目を持ち、考える脳そのものであり怖れをなします。

 私は手のリハビリ最中は部屋に鍵を掛け、どんな事があっても人を入れません。その位、手の訓練では研ぎ澄まし、張り詰めた精神の凝縮が要求されました。
 それと『人間の手がこんなに重いものだったのか…。』それは呆れるほどの重量でした。この重い手がテーブルから上がるわけはありません。私は肘を上げて支える訓練から始めたのです。
 天井からロープで肘を縛り付けて吊るします。ピンと張ったロープが少しでも緩むとそれは腕が上がった何よりの証拠です。

 森さんのような躯体全域にわたると言っていいほどの障害に対するリハビリの成果は、全て年単位であり、それも2年、3年と引き伸ばして見なければまるで分かりません。2ヶ月を1クールとしてやっている私ですが、2ヶ月前と一体どこが違ってきたのか、先ず分からない位、遅々とした進みです。しかし、確実にmm以下で機能が回復していることは確かなのです。
 このように目で確認できない回復振りをどこで確認するか。それは記録です。私は事故以来、この8年間の全てをメモしていました。
 私は今迄日記を付けた事がなく、どうしてこの事故に限って付けていたか今もって不思議です。立ち、歩けるようになるまでにはこの記録がどれほど重要だったことか。
ここでも森さんの運は付いて回りました。

 2000年12月の段階で森さんの手はとうとう肘と肩が水平になるまで上がりました。テーブルから肩まで、その高さは約30cmです。
 初めてテーブルから離れ便箋がスッ!と手のひらを通り抜けた1995年12月から丸5年。1年で6cmも上がりました。2ヶ月ごとに私が科す凄まじいリハビリで、1ヶ月5mmずつ上がっていったのです。
 この1年で6cmの上がりは、頚髄に深い損傷を受けた森さんにとって、運動神経と言う細胞単位での電子顕微鏡の世界では途方もない光学的距離であり、まさしく宇宙の距離であり、30cmを上げる為に伝達させなければならない経路を構築するまでに1830日余掛けたことになります。これはまさしくミクロン単位です。


■人間としての尊厳とは                                                                                      

 立ち、歩き、肩迄手が上がるようになった森さんを見て、かつての悲惨な状態を良く知っている多くの友人達は驚嘆し、感動してこう言います。
『これがあの森さんとはとても信じられない。ここまで良くなったらもう自分で食事できるのでしょう?』一人の例外もなく必ずこれを聞きます。私は内心『…またか』と思い、この質問には辟易とします。
 自分の手で食事する事がどうして訓練による究極の成果なのか。   
 それが人間としての最も大事な基本動作なのか。この短絡的な考えが私にはどうしても理解できず、また不思議でした。私はこの8年間、食事訓練はただの一度もやらせていません。
 手が肩まで挙がった以上、この食事訓練は明日にでも出来ます。今までの訓練から比べると難易度の低い造作もないことです。口元に手が届かなければ首を前に傾けるだけで済みますし、介護スプーンも当然用意してありました。

 私が最も恐れたのは指先の癖です。脳からの命令とその意図が完璧に指先に伝わり、しかも動作が伴わない限りこの訓練は一切やろうとは思っていません。指先はその人の意思と人格を持っているとの畏れです。
 退院当初の極端な癖に凝りていたからであり、その矯正に3年半掛かった実に苦い経験があるからです。この矯正は実際にやった者でなければ、苦労と比例する膨大な時間の浪費の辛さは到底分かってもらえないでしょう。

食事よりはるかに大切なこと。それは排泄と確信していました。

なぜ排泄か。

それは人間の尊厳であり、最低限の侵し難い誇りと思っているからです。
排泄を他人に管理され、人手を煩わし尊厳を保てというほうがどだい無理です。

 私は森さんが入院していた頃、この尊厳ということに対し深く考えさせられました。 これらの患者さんは皆一様に屈辱、哀しみ、羞恥、そして『…とうとうここまでなってしまったか』とじっと目を瞑り耐えていた姿を忘れることは出来ません。
当然同室の方は露骨に嫌な顔をします。私が最も神経を使ったのはトイレの改造でした。

 『いつか必ず自分で』と見越し、在宅リハビリを決心してから森さんの身長、更に腕と足の長さを計り業者に細かく指示を出し、自力立ち、座りが出来るようにパイプを取り付けておいたのです。
このトイレに関するリハビリは勿論私は一切手が出せません。全てアシスタントの美子に指示してやらせましたが、彼女は完璧に、そして見事にやり遂げてくれたのです。
 このようにリハビリの第一の優先順位はトイレであり、そのための足でした。

 札幌の病院で退院間際に院長が『あなた達トイレ考えたことあるの?ベッドでだよ。一生ベッド生活なのだよ』『お風呂もだめ。ベッドで清拭だ』と断じました。
排泄はベッドで。何という残酷な言葉でしょう。
 私はそれを聞き、『よし!それならベッドから抜け出させてみせる!』と決意し、546日の猛特訓でベッドから抜け出し、立ち、歩き、ついに自分でトイレに行けるまでとなりました。

 欧米諸国で真っ先に取り組むのは徹底した排泄訓練です。ベッドで排泄などの発想は頭からありません。椅子に身体を縛り付けてでも、身体の重力を利用した排泄に全力を挙げて取り組みます。ましてや膀胱瘻留置手術は最後の最後の手段として行ないます。
 ところが我が国ではいとも簡単にこの手術をするのです。これはずっと後のことですが、全国から森さんの所に訪ねて来た方達は全て排泄訓練を受けていませんでした。しかも『あなたねぇ看護師の手を煩わすから』とグサッ!とえぐる言葉で切り返された方が何人もいるのです。その結果、激しい床運動とうつ伏せ、寝返り訓練は先ず不可能となります。
 
 自分よりはるかに凄い障害の森さんが見事に寝返りし、うつ伏せでの屈伸・屈曲を見て、彼等は激しい衝撃に打ちのめされ、首をうなだれ嗚咽を堪えています。
 これらの若者達は諦めきれず、在宅訓練である程度、手の動きを取り戻しただけにカテーテルでの自己導尿が可能なのです。その何ともいえない哀しさ。残酷さ。泪を溜めた目でじっと自分の手を見つめ、懸命にこらえる無念と怒り。心を掻きむしられるその傷み。果たして何人の医師が分かっているのでしょう。
 腹腔からチューブが伸び、パックを下げたままの方達と一緒に床運動を行う時、遣り切れない思いに胸が詰まります。
 その意味でも前に紹介した勇気ある看護師さんは生涯の恩人です。

 森さんが事故に遭って5年後、この特異なリハビリがいつしか人に知られるようになって講演を頼まれ、新聞に大きく報道された途端、一気に脊髄を損傷した方々が全国から押し寄せてきました。 
その時、全員が異口同音に訴える次の言葉はまさしく血を吐く呻きです。
 『トイレにさえも行けないとは…もし便座に座り用を足せたら私は一生立てなくていい。立つ足は要らないのです』『立つより、歩くより自分の意志で用を足したい。薬で、それも摘便をしてもらうなんて…』
この悲痛な呻き。ベッドで排便との宣告がいかに非情であるか。
そしていかに人間の尊厳を根底から踏みにじる侮蔑する言葉であるか。
それを断ずる医療人として、いやそのはるか以前の人間性に悪寒が走ります。

 リハビリ中、森さんの顔色が変わり、その人格さえも一変するかのような凄まじい気迫で不可能とも思える目標に挑ませたもの。それは3人が共に『よし!見てろよ。それなら尊厳を取り戻してみせる!』
これが血の滲むほど歯を食いしばり、頑張り抜いた支えでした。
 あれから8年経ち、歩けるようになった今でも、あのときの言葉は澱となって森さんの心の底によどみ、リハビリ最中何の脈絡もなく時折フッ!と湧き出て身体を硬くします。
 その位深い傷を与え、それが今でも疼き癒す事が出来ない残酷な言葉です。


■ナナ、その悲しいまでの忠実さ                                                                      

 16畳のリハルームでの神経を凝縮して息を詰める過酷な訓練では、その緊張度は飽和状態に達して、ちょっとした針の一言で一気に爆発する臨界点にまで昇りつめます。その中で色々なことを行いました。音楽、瞑想、暗示、そしてアニマルセラピーなどはその代表的な例です。

 私は大の犬好きであり、ゴールデンレトリーバーを5匹飼っていますが、その他に森さんにとって終生の伴侶とも言うべき実に利口な雑種の子を里子にして預けていたのです。
 特に最も危険な歩行訓練に移り、その難易度が高くなるにつれて無事終わった時は私と美子が共に関節が硬くなり、直ぐには立ち上がれないほどの疲労感が身体にのしかかってきます。それこそ命に関わるこの訓練ではこれ程の緊張を強いられるのです。
 そのような時、一切の訓練を止めて山へ、海へこの犬達と行くのです。いつでも6匹の犬達と一緒です。特にゴールデンは水猟犬ですので海を見たら真っ先に飛び込んで行きます。
 北海道の一番季節のいい6月、原っぱに座った森さんにこの犬達は精一杯のいたずらをします。まぶしい初夏の陽射しを浴びて全身で笑うその姿を見ていると、この人がつい4~5年前、瞬きしか出来なかった人なのかと疑う位ののどかさです。

 私は森さんが怪我をする前、この子達の中から一番利口な雑種の女の子を預けていました。7月生まれなのでナナと名付けましたが、この子は生まれた時から一風変っていて、どんなに手なずけようとしても自分が心を許した人でなければ決してなつかない一徹さを持った仔犬でした。
 何よりも不思議なのは人の言葉を理解するという特技を持ち、じっと森さんの顔を見てその単語は殆んど理解していました。この子のお陰で森さんが立ち、動くためにどれほど計り知れない勇気を与えていたかは後々知ることとなりました。それほど森さんにとって運命的、いや宿命的な子だったのです。当時5歳でした。

1993年6月。
 森さんは間一髪の奇蹟で命が助かったものの8ヶ月間家に帰ることは出来なくなりました。突然帰ってこなくなった主人を朝は玄関の入り口、夜は階段の踊り場に座り、来る日も来る日もじっと下を見続けていたのです。『ナナ、おばさんはもう帰ってこないんだょ。寝なさい』といっても夜が白むまで決して動こうとはしません。帰ってこない主人をこうして何ヶ月も待っていたのです。
 私は余りのいじらしさに『ナナ、もう明日から寝なさい』という毎日でした。
この頃、森さんは第二病院で瞬きのまま苦悩し、煩悶していたのです。
心から慕っていた主人の苦悩を寝ずに心配し続けたとしか思えません。

 第二病院に入院していた時です。森さんは『一目ナナに会いたい』というので連れていきました。勿論院内には入れません。動かない首から僅かに見える病室の窓越は笹薮が生い茂った斜面です。
 ナナは最後まで主人に気が付かなかったのです。森さんは腹圧がないため声になりません。『ナナ!ナナ。こっちを向いて』と声を振り絞っていたと看護師さんが泣きながら私に教えてくれました。 
 第二病院から札幌に転院するとき、もうこれが最後になるかもしれないと思いナナに会わせました。3ヶ月振りに主人に会えたナナは狂ったように喜び、ストレッチャーによじ登ろうと渾身の力を振り絞ります。
 ナナの首に両手を廻してやりました。が、何回やってもズルリ!と滑り落ち、垂れ下がるばかりです。その腕をしっかり交差させても駄目でした。森さんは息を詰めて目を閉じ、体中の力を込めてナナを抱こうとしています。しかし、意思が全く伝わらないその手は何回も何回もダランとぶら下がり、『…あーっ』と悲鳴が漏れ、固く閉じられた瞼からみるみる泪が滴り落ちます。
 『ナナご免ね。おばさんの不注意でこんな身体になって…。だけどおばさんは…リハビリに頑張って必ずナナを抱いてやる。ナナ…ごめんね』
 ナナは体を震わせて驚くべきことにその動かない手を舐め、鼻ヅラで押し上げ懸命に助け上げようとしているのです。こんなにも主人を慕い、しかも身体の異常を察知して助け上げようとしている余りのいじらしさとその忠誠に、私はとうとう耐え切れず、背を向けその場にしゃがみこんでしまいました。
 救急車が出る時、私はしっかりナナを抱いていました。扉が閉められて車がゆっくり動き出すと、ナナは後を追おうとしてあらん限りの力で暴れだします。車が坂を下り見えなくなると『クッ!クッ!』と身を震わせ激しく慟哭していました。8年経った今でも、私の腕はナナの悲しみをはっきり覚えています。

退院したその日、車から降ろされる森さんを見てナナは狂ったように入り口のガラス戸を掻きむしっていました。森さんに飛びつき、その手を必死に舐めて鼻で押し上げます。驚いたことに5ヶ月前の全く動かない異常な手を覚えていたのです。
 全身から悲鳴を上げ『動いて!動いて!』と助け起こすその姿は誰の目にも分かり胸が潰れます。ナナは明らかに泣いていました

 退院直後の森さんは当然ですが手足は全く動かず瞬きだけの毎日でした。
 私と美子が床運動の訓練のため二人懸かりで床に寝せる時、ナナは真っ先に飛んできて森さんの脇にピタッ!と付きます。主人を庇うのです。
 2ヶ月に一回、私のリハビリメニューは変りますが今迄見た事のない新しい訓練に入ると、驚いたことにナナは決まって森さんの脇に添うのです。心配で心配で堪らないことはリハビリ最中、耳をピンと立て、体を硬くして緊張しているのがその姿勢からも分かります。

 前に書きましたが、私達の一瞬の油断で森さんが転倒した時、それこそ脱兎のごとく飛んできたのはナナでした。森さんが正気に戻り、目を開けるまで、体を震わせてその傍から離れようとはしなかったのです。
 しかし、森さんがもう自分を抱いてくれることが無い、と察したのか、いつの間にか静かに二階に上がり、リハビリの時間帯には絶対下りて来ることはなくなってしまったのです。
 訓練が終わり、私達が後片付けをしている時、ナナはそっと下りてきて『大変だったね』と手を舐め、座っている椅子の脇でお腹を見せ森さんは動くようになった手でそれをさすってやるのです。

 『立って歩け、手が動いた今、一番嬉しかったことは?』と私は聞きました。
 『何と言っても犬達の首に手を廻し、撫でる事とが出来、そして不自由ですが自分の手で餌をやれることが何より嬉しい』と言います。
ナナへの約束を見事に果たしたのです。

 私は今迄かなりの犬を飼ってきました。しかし、このナナのように人の心が分かり、感情を持ち、一途に主人のためにけなげに尽くす子は後にも先にも初めてです。
 動かない森さんを一番悲しんだのはこのナナかもしれない、と思うくらい森さんとナナは運命的、いや宿命的な一生の伴侶なのです。
 森さんはいつも言っていますが『ナナ!おばさんより一週間でも一日でも長生きするんだょ。おばさんより先に死んだら絶対駄目だょ…』
このナナも犬では老犬といわれる12歳を過ぎました。(2000年)

 このようにアニマルセラピーは、科学では解明できない思いもよらない力と勇気、そして希望を与えてくれます。

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