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【第二章】       立て!何としても立ってくれ!


森さんは部屋の改造に際して二つだけ強い要望がありました。
それはリハビリルームに『仏壇を設置して下さい』と『私の見えるところに両親の写真を飾って下さい』この二つで『無理とは知っています。しかしこれだけは何とか…』と言って決して譲らなかったのです。
 仏壇は当然格納式にしましたが、この出っ張りには何回も何回も図面を引き直して本当に苦労したものです。しかしこれが、その後、立ち、歩くためにはどれ程の力付けと勇気、そして励ましとなったかは当時、私は考えてもいなかったのです。
 
 家に着くと直ぐ仏壇の両親と対面しました。しかしその身体は無惨そのもので醜く膨満した身体とむくんだ血の気の無い顔。箱枕での矯正を一切しなかった足はダラリとぶら下がっただけの尖足という付属物でした。 
 右腕は内側に捻じ曲がり、逆に左は肘から外に折れ、揉む事さえしなかった手首は当然鷲手となって、僅かに曲げることが出来た首は固定されていた為に動くことはありませんでした。
 特に私が息を呑んだのは、真っ直ぐだった指はそれぞれ勝手な方向に伸び、また折れ、片一方は固いこぶし状で、更に一番肝心な右手の親指と人差し指は×状に固く交差していてどれ一つ正常な態をなしていなかったのです。これは退院一ヶ月前位から電動車椅子のレバースイッチを廻す訓練をしていた為であり、最も神経が密集している指先のみに無理に折り曲げてスイッチを廻す訓練を強制した結果でした。型にはまってしまったのです。

 これからの最低限の生活という気遣いと配慮、また何よりこれらの基本的対応一つとっても、いかに脊髄損傷者を扱った経験も勉強もしていないかは瞭然でした。親指と人差し指さえ正常な形をなしていれば、人間は最低限のことはできます。この形状では物を掴むどころか、押す、引く、といった基本動作さえ絶望的となってしまいました。
 『父さん、母さん、ご免なさい。健ちゃん、右近さんご免なさい。右近さんの奥さんご免なさい。私の不注意で、こんなに皆さんに迷惑と心配をかけて本当にご免なさい』声を振り絞りいつ迄もいつ迄も謝っている森さん。私達は正視することも出来ず、こみ上げてくる激しい感情を懸命にこらえ『こうまでして生きていかなければならないのだろうか…』『いっそ望んだようにあの時一思いに、そのほうが何も分からず幸せだったのに…』誰しもそう思っていたと思います。

 瞬きしか出来ず、しかも第二病院の時よりはるかに悪くなったその全身状態と、5ヶ月の入院での不信感が傷つけた深い心の傷み。まさしく息をしている物体そのものであり、それは打ち捨てられたボロ雑巾さながらの目を背けさせる悲惨な姿でした。


■旗を立てる          

 私は参考になりそうな文献を集め、同時に整形、脳外の先生方からの情報を得ることから始めました。しかし、私が思った通り、OPLLで靭帯が折れて頚髄を損傷し、しかも頚椎の2~7番全て取り去られた二重、三重の悪条件で全身麻痺に陥った人の症例は当然といえば当然ですが、ついぞ知ることは出来なかったのです。
 森さんのように完全といっていい四肢麻痺の殆どの方は訓練の結果、チンコントロール電動(顎操作)か、微かに動く指先で操り、外出が可能になって生き甲斐を見出したとか、口で絵筆を咥え個展を開いた、カメラのシャッターを押し作品を発表した、更にパソコンを操り仲間同士で情報の交換をしているといった事例ばかりでした。そして末梢神経と違い、中枢神経に重度の損傷を受けたら、中枢神経自体自己再生能力が無く、現代の高度に発達した医学をもってしても、治療、回復の手立ては望めず永久に動くことは無いと断言していることで、これはどの本にも記載されてあり、今更ながら衝撃を受けたのです。

 色々な本を読んでも受傷後、最初の3ヶ月で症状の改善、もしくはその兆しで、殆んどその後の運命が決定付けられることも知ったのです。僅かな望みはその倍数の6ヶ月でした。
 この急性期の間、何らかの改善の兆候が見られない場合、臨床的に症状の固定化と断定され、回復はほぼ絶望という事も知りました。
 森さんの場合、実に8ヶ月の間、回復の兆候は何ら見られず、しかも退院時には身体は勿論、その心まで大きく衰退していました。『やはり駄目だ。これでは諦めるしかない。こうなるべくして生まれてきた人生なのだ』との思いと『駄目でもともと。やるだけやってみる』との開き直った気持の交差する毎日でした。

 参考とする文献も教えを乞う先生は勿論いる筈もなく、まして体験者もいず、どこから手を着けていいか全く分からない状態の中で、暗中模索、試行錯誤を経て、その訓練内容は想像を絶する訓練、凄まじい訓練、壮絶な訓練、息を呑む訓練、峻厳な訓練、そして凄絶なリハビリ。
 瞬きから脱するため、人間の尊厳を取り戻すため、どんな言葉を以ってしても言い表す事が出来ない震えの来る特訓がこうして始まったのです。

 私は先ず、訓練を厳密に次の二つに分けることにしたのです。機能が麻痺した身体のリハビリ。もう一つは心のリハビリです。その内、最優先に、しかも早急に取り組もうと決心したのは心のリハビリでした。
 生きる意欲とこれから始まる厳しい訓練に耐え抜く精神力。『何としても動きたい!』という森さん自身の気力。動かない身体を動かすのは精神力だと信じて疑いませんでした。リハビリ以前の強い気持の取り組みが無ければどんなことをしても無駄と分かっていたからです。

 『私はとうとう瞬きだけになって…』との溜め息と暗い表情。これを何としても止めさせる決心をしたのです。私が真っ先に行ったのは、この溜め息を止めさせる訓練でした。
 『ここは病院と違う。そんなに死にたければ、無理やり立たせて手を離すだけでいい』私はその甘えを完膚なきまで叩き潰し突き放したのです。
 不思議なことに設備の整った病院では絶望の果て、考えることは自殺しか頭に無かったのに、家に帰った途端、生き抜く意欲が猛然と頭をもたげてきたのです。いかに傷ついていたか心が傷みます。
 地獄の辛酸を徹底的に味わったからには、後は自ら垂直の壁に穴を穿ち、爪を食い込ませて這いあがっていく覚悟をさせなくてはなりません。

 しかしこのような重度障害にも関わらず二つの大きな強みがありました。
それは訓練を施す私が『駄目でもともと』との開き直った考えであり、もうこれ以上底が無い、とのゼロの発想でした。もう一つは肝心の森さん自身『私は絶対認めたくない!』と私がたじろぐ位、リハビリに取り組む強い意欲を持っていたことです。これは呆れる程でした。
 そこで次の二つを約束させました。

□朝は必ず化粧をしておしゃれすること。

□人前に積極的に出す。  

この二つです。
 一つ目のおしゃれは、事故を起こす前以上におしゃれをして訓練につきもののトレーニングウェアーは厳禁してカラフルな服装をさせます。
 過去の自分は病院のパジャマを着て髪は乱れたままの化粧もしていない瞬きだけの森 照子という頚髄損傷患者でした。その自分との決別です。
 二つ目の人前に積極的に出すとの約束は、世の中に男と女しかいないのと同じく、人間であれば健常者と障害者がいて当たり前との考えを植え付けるためでした。
 重い障害を持つ人は、往々にして家に閉じこもり、おしゃれはおろか化粧もせず、ひっそりと息を潜めて暮らしがちになります。それではその心までも障害を受けてしまう、との考えからでした。

 重度の障害を持つということは何ら恥ずべきことでなく、むしろ積極的に人前に出て行けるまでには、健常者には考えられない苦悶と煩悶を克服した何よりの証拠であり、その精神力、生き方は人を感動させるものであり、自分を卑下するほうがはるかにおかしいと私は思ったからです。
 一方、リハビリを行う私としては次のことを決心したのです。

「旗を立てる」のです。
これはちょっと分かりにくいかも知れません。要するにそこまでに到達するための目標という旗です。それも2ヶ月ごとに立てるという期限を切りました。どうして2ヶ月かというと、その目標只一点に凝縮した全精神力を集中する限界は2ヶ月が限度と思ったからであり、その2ヶ月の先の旗を見ながら進んで行こう、と思ったのです。

 森さんにはこの二つを約束させて私自身、目標という旗をたて、早速実行に移しました。
化粧とおしゃれは直ぐにでも出来ます。私は化粧もせず、服装がチグハグだったら、リハビリどころか即、帰ってしまう位、厳しく美子に徹底させました。問題は人前に積極的に出て行くという点です。
 リクライニングで背を倒し、あるいはベルト固定ではなく、しっかり安定した椅座位姿勢を保ち外出させるというのが私の目標です。これは取りも直さず寝たきりのベッド生活からの離脱であり、考えただけでも目まいがする至難なリハビリです。
 なぜなら、体幹まで麻痺して支点という支えが一切無い身体は、完全な軟体動物そのものだからです。先ず、座位姿勢保持が避けて通れない大きな課題でした。こうしていよいよ特訓の実技に入っていったのです。

 私は前から、あるメーカーの電動ベッドに着目していました。
実際にショールームで見て、他メーカーと比較して『これだ!』と納得したのです。それは単なる寝るための用具としては勿体無い位、実に人間工学的に作られていました。背を起こす微妙な角度、腹部の持ち上げと脚部上げ。しかも滑らかに微調整が利くところに感嘆していたのです。
 無機質な製品でありながら、このベッドを作り上げた技術者の温かさを細部にわたり感じていたからです。これがあったからこそ執拗に勧める他メーカーのベッドを断り続けたのです。
 それは私から見て、座位姿勢保持のためにほぼ完璧な機能を有するリハビリ器具でした。これを徹底して利用する事にしたのです。

 ベッドに寝かせてずり落ちないように身体を晒しできつく縛り付けて固定します。そして数cm単位でベッドをギァアップさせて背中の部分を上げては下ろし、その繰り返しの毎日でした。この訓練は座位保持のための腹部筋強化に加えて寝たきりの森さんに対する起立性低血圧の克服が目的でした。
 血圧の変動に慣らすためであり、これをやらなければたちまち激しい目眩と吐き気に襲われ、酷い時はチアノーゼを起こし、半分失神状態となりガタガタと身体に震えがきます。
 一日6時間、旗を見ながら2ヶ月後は必ず起立性低血圧を克服してみせるとのただ一点に集中しました。他の余計なことは一切しません。このようにどこから手を着けていいのか全く分からない全身状態では、あれもこれもでは全てが中途半端になり必ず失敗すると分かっていたからです。 
 背もたれの角度を深く、浅くし、来る日も来る日もこれだけを行なったのです。

 そしてとうとう血圧の変動による目眩と吐き気による悪心が無くなり、ベッドに背をもたせてL字(長座)姿勢をとることが出来たのです。最初の難関である起立性低血圧をこのようにして克服しました。
 この起立性低血圧の克服こそがリハビリを行う全ての原点であり、いかに大切な基礎訓練かということは私の貧弱な知識の中にもあったからです。

これで次の訓練に移れる大きなステップを乗り越えたのです。


■ベッドからの離脱

 ベッドでのL座姿勢保持が出来た森さんを、今度は背もたれのある椅子に座らせる訓練に移りました。いよいよベッドからの離脱です。同じ背もたれがあるのだから、これまでの訓練の応用が利くと思ったのです。
しかしこれは見事に通用しませんでした。
 ベッドではお尻から真っ直ぐかかと迄まで伸びている為に身体は安定して、文字通り完全なL型になっていました。しかし椅子では上半身と大腿部だけがL字になり、膝から下の足は床に付く格好になります。これは当たり前なことです。足で支える事が出来ないため座位を保てずどうしても座ることは出来ません。グニャリと崩れ落ちるのです。
『これは一体…』と行き詰まり、頭を抱え込んでしまいました。そしてとうとう分かったのです。
それは腹筋でした。それからは猛烈な腹筋強化訓練に入ったのです。
同時に肺での胸式呼吸から腹式呼吸に切り替える訓練に力を入れたのです。

 スイマー用鼻栓でしっかり閉じ、椅子の脚に森さんの足を縛り付けて私と美子が両肩を持ち、支え、強制的に身体を折り曲げて、他力による前屈後屈訓練がこうして始まったのです。
 その特訓は一日6時間、1年以上にも及び、くる日もくる日もこの前屈後屈と横捻り訓練に明け暮れるという厳しいものとなったのです。これは腰部をしなやかにしながら腹圧と筋力をつけ、同時に腹筋、横隔筋への刺激をはかり、ベルト固定なしの安定座位を保つためです。

 その内、森さんの身体の中から、自分で起き上がろうとする筋肉の震えの手応えがかすかに私達の手を通して感ずるようになったのです。
これは大きな感動でした。なぜなら、これこそが自力で起き上がるとの意思を感じた最初の兆候だったからです。やがて椅子で縛り付けた紐を外しても椅座位を保てるようになったのです。

 腰の安定です。いよいよ背もたれ無しの端座位姿勢保持訓練です。この訓練もベッドを徹底的に利用したのです。しかしこれは椅座位とは比べ物にならない難度の高さです。なぜなら座っているのが柔らかい布団のために、上体は常に不安定になります。
しかも指先で突き、わざと倒れさせるのです。大脳は本能的に『危ない!』との強い指令を発して体勢を立て直すための防御姿勢をとるための強い警告を流し、これが腹筋、横隔筋、背筋、臀筋等に刺激を与えるからです。私には脊髄が傷付いていようが、横断されていようが関係の無い事であり、連日この防衛反射という強い警告と刺激を与え続けたのです。そ
 れは脊髄を損傷した者にとって、脳から発する強い指令という刺激が何より大切だということを固く信じていたからでした。

 とうとうこの不安定な場所での端座位をこれらの筋肉を微妙に使い体勢を立て直すことに成功しました。夢にも思わなかったベッドからついに離れることが出来たのです。
 2ヶ月ごとの訓練スケジュールに沿って他の余計なことは一切せず、膨大な時間を掛けてこの端座位達成全てに集中しました。
一日6時間。546日掛かりました。

 そして何より厳しい前屈訓練のお陰で、後ろ側の頚椎2~7を取り外された首に筋肉が付き、頭部をしっかり支えることも出来たのです。この訓練期間中に私達の得た教訓は実に大きなものがあります。  
 それは重度脊髄損傷者の訓練では、リハビリする者と受ける者のどちらかが先に「音を上げるか」で一生を決定付ける恐ろしさをこうして知ったのです。
 『何としてもベッドから離れたい』との執念が、ついに日常生活の基本中の基本である椅子にベルト無しで座れるまでとなり、しかもその頭はしっかりと据わっています。これは生体として最も大切な体幹機能が植えつけられた証拠であり、森さんの受けた障害としては驚くべき機能の亢進でもあります。

 もうこうなったら最重度の脊髄損傷者ではありません。なぜならベッドで寝たきりということは取りも直さず『私は最重度の脊髄損傷者だ』との事実を本人が認め、また周りの人もそう見るからです。この時点で私は4台ある車椅子を一切目の前から無くしたのです。
 1年半にもわたる全身の筋肉を使った猛特訓の結果、真っ先に著しい回復振りを見せたのはあの気味の悪いむくみが嘘のように消えて皮膚に血色が蘇り、何よりも言語の明瞭な発声です。腹圧が付いて来た当然の結果であり、当時の状態を知っている友人達が、森さんが椅子に座り、その笑顔を見ただけで何も言わずに肩に顔を埋めて泣いています。入院中、見舞いの時に顔が凍りつき、涙をこらえて第二病院の長い廊下を走っていた友人達です。

 椅子に座る事が出来た以上、私は二つ目の人前に積極的に出て行くとの約束を実行に移しました。
私の家族共々買い物、ホテルのディナー、食事、はてはお祭りなど頻繁に連れて行きました。当然車椅子の方は沢山いますが、さすがにただ口を開けて食べさせてもらっている姿を見ると皆、一様にギヨッ!としています。
 しかしこれでいいのです。卑屈になりがちな気持を完膚なきまで叩き潰すのが目的で、それを克服しなければ、これから始まる実に厳しい訓練には耐えることは出来ません。このように他から見て酷いと眉をひそめさせる行為ですら悲惨を味わった森さんにとっては、実に楽しいひと時なのです。


■これまでが限界                        

 いよいよ立ちへの特訓項目を組み立ててそれに挑戦しました。
ここでも私はベッドを最大限に利用したのです。ベッド端に座らせて床に足の付く位置から、スイッチを入れ徐々に慎重にミリ単位で上げていきます。
当然荷重はジワジワと足、次に腰が受けます。こうして少しずつ静かに上げてやります。
 ついにお尻はベッドからずり落ちて腰椎のところで止まりました。背中の後にベッドという支えがあるとはいえ、今、森さんは紛れも無く二本の足で立っているのです。勿論、膝抜けしないようにしっかり手でロックします。しかし、いつ崩れ落ちるか分からない実に不安定な姿勢で、これでは松葉杖で立つにはとてもとても程遠い状態でした。

 私は考えた末に壁に穴をあけて太いロクボクを二本通し、その高さは脇にピッタリと合わせて身体が崩れ落ちないように上腕を晒しできつく縛り付けました。これで腰に支えを必要としないで立てる筈なのです。
 ところが私はその立ち姿を見て愕然としたのです。それは人間ではなく壊れた人形であり、まさしく糸での操り人形、もっと端的に言えば、電線に絡みついた凧そのものでした。
支持点が全く無い腰から下はブラブラと揺れて身体は大きく「くの字」に捩れ曲がっていたのです。

 頚髄を損傷して四肢麻痺に陥った人を立たせてみせる、という余りの無謀さと荒唐無稽なその発想。『あぁ森さんはここまでが限界だ』と何より素人の思い上がりとその損傷の凄さを徹底的に思い知らされたのです。
『何ていうことをやっている!』と、自分を見失った馬鹿さ加減に打ちのめされました。

 この頃です。私がリハビリを止めようと何日も考えたのは。
『とにかくベッドから離れることだけは出来た』『専門家が驚く椅座位が出来て首も据わったのだ』と自分に納得させようとしたのです。

 ある時『どうしてここに力を入れない!』と鞭でピシリ!と打ったのです。
意のままにならない自分の身体に感情の糸が切れたのでしょう。
『私がこんなに頑張っているのにそんなに怒らなくても…』
泣きながら後にも先にも私に対して初めての抗議でした。
それを聞き、私は止める絶好のチャンスと捉えました。まさに渡りに船です。
『よし!分かった!』それだけ言って席を蹴り帰ったのです。

 以後三週間一切行かず本当に止めたのです。この三週間で森さんは再び地獄を経験したのです。
しかも入院している時より残酷なものだったのです。それはリハビリで頑張り、まさかと思った首が据わって端座を成し遂げベッドから離れることが出来ました。
今、立ちの特訓に入り、立てるかも知れないという夢が一瞬にして崩れ去ったからです。

 自分に鞭打つ気力が失せ、ベッドから起き上がることは出来なくなり再び瞬きだけの生活に戻ったのです。
『本当に私の我が儘で済みませんでした』と言い、以後私の課すどんな厳しい訓練と鞭、そして檄にも『自分がより動くため』という受けと止め方の大きな転換をしたのです。
この椅座位まで要した1年半の特訓は一言で言い表すなら「殺気」です。
これ以上の表現はありません。
 何故ならこれに失敗したら最重度頚髄損傷者として逆戻りし、再び瞬きのまま褥瘡に蝕まれる人生に終るとお互い分かっているからです。
 
このときの心境は退くに退けない崖っ淵をかろうじてつま先でこらえているようなものでした。グニャリとした躯体を晒しでグルグル巻きにして椅子に縛り付け、文字通りミイラ状にして頑張ってきました。
 事情をある程度知っている人さえ部屋に上がってきた時、震えの来る異様な殺気にハッ!と蒼ざめて息を呑みます。今止めるのは本当に簡単な事です。しかしベッドから端座迄に漕ぎ付けた今迄の苦労は一体何だったんだろう、との悔しさが逆バネとなって私達を弾いたのです。

それともう一つの大きな理由がありました。
激しい腹筋訓練を続けて端座位を成し遂げるまでに私は厳しい檄を飛ばして鞭を打ちます。
森さんは時々チラッと額縁の写真を見るのです。私は見て見ぬふりをしていますし、森さんも言いません。
いずれにしても瞬時に目を走らすその気持は私には分かるのです。
『今日も頑張った』との報告かもしれません。『何で私がこんなに…』との訴えかも知れません。私がリハビリを止めるかも、ということは当然察しています。
前より頻繁に写真を見るのです。
それは『リハビリから見放されそうになっている。何とか助けて…』という悲壮で切迫した両親への哀願なのです。

 私はここでも実に大きな教訓を得たのです。それは立つという事は当然「足で」だと思っていたのです。
しかし全く違っていました。足は身体を動かし、運ぶための付属器官であり立つことの本当の意味は「腰で」だという事が分かったのです。

腰と腹筋でした。

それからは徹底した腰と腹筋強化訓練に入りました。
この頃から床運動を取り入れたのです。L型に座らせて二人掛かりでの屈伸とねじり。床に寝せて膝を立て、腹部のベルトを持ち上げての腹筋強化。椅子に座らせて腰のベルトを両脇から二人で持ち、呼吸を合わせ一気に立たせました。
身体を支える腰と腹筋強化をはかるためにおよそ考えつくありとあらゆる方法で猛烈な特訓を行ったのです。


■立て!  立ってくれ…                                                                                    

 腰に廻した実に頑丈な皮ベルトは今迄に何本切ったか分かりません。アメリカのGIが使っているベルトでさえ、二ヶ月も持たなかったといえばこの特訓がいかに凄まじいものであったかは想像が付くと思います。  

四肢麻痺の人を立たせるには独特のやり方があります。
森さんの両膝に美子の両膝をピタッと合わせます。いわゆる皿と皿を付けて腰のベルトに手を廻し呼吸を合わせて気合をかけたその瞬間、美子の膝をグイと森さんの膝に押し付けて伸ばしてやるのです。
蝶番(ちょうつがい)を伸ばしてやる原理です。
この時、一番大切なことは森さん自身、その瞬間『立て!』と脳に強い命令を発することで、この二人のピタリとした呼吸の一致が何より大切です。
それは実に微妙なタイミングであり、立つ瞬間『スッ!』と見事に合った二人の呼吸の吸いです。 この絶妙な間合いはとても文章で表すことは出来ません。半身麻痺の方のように、相手の両足の真中に自分の片足を入れて立たせるなどの方法は全く通用しませんし、そんな生易しいものではありません。グラッと傾いたら自らの体重でたちまち膝を砕いてしまうからです。

 この訓練で立つには立ちましたがベルトで抱きかかえなければアッ!という間に崩れ落ちます。それを徐々に、静かに手で支えている力を慎重に抜いてやるのです。最初、グラグラと大きく身体は揺れていました。その揺れが今までの厳しい腹筋と腰筋の強化訓練でバランスを取って体勢を立て直す事が出来たのです。
いよいよベルトに廻した手を抜く時が来たのです。
美子が息を詰めてソロソロと慎重に力を抜きながら手を離していきます。
部屋には息詰まる緊張が漲り、私は『立ってくれ、立て!なんとしても立て!』と叫びたいのをこらえます。

ピーンと張り詰めた弦が極限までしなり、ほんの小さな物音にさえ一瞬にして切り裂くような鋭く研ぎ澄まされた緊迫した冷気。奇妙にシンと静まりかえった中で激しい動悸が鼓膜を通して拍動し、瞬きも出来ない鋭い緊張が刺し貫くのがはっきり分かります。
 森さんは一点に目を据えて息を整え、高まる動悸を抑えるためにコメカミが震えているのが手に取れます。
美子の手が今、完全に離れ、そしてついに立ちました。
すかさず私はストップウオッチを押します。
その立ちは腰が捩れて大きく傾いた廃木ではありません。        
背筋を伸ばして床にしっかり足を据え付け、安定した腰が全体重を支える見事な立ち姿勢です。
瞬きだけだった人が、今、たった二本の足で微動だにせず立っているのです。

森さんは立ったまま泣いていました。

 やがて、たかまる感情と突き上げる嗚咽でだんだん身体と肩は大きく揺れてきます。全体重がのしかかるその両脚は傍目で分かるほどブルブルと筋肉が激しく蠕動し、みるみる朱に染まっています。しかし、自分の足を見ることは出来ません。顔を下げたらたちまちバランスを失い崩れ落ちるからです。

まだ立っています。感動に大きく揺れながら立っていました。
私も美子も涙が溢れます。
それはまるで神々しい彫像のように、凛として足を踏ん張りしっかり立っていました。

1分46秒。リハビリ開始後2年経ち、座位から半年後のことでした。

殺気とまで言わしめた飽くなき腹筋強化と腰部強化特訓のお陰で、2年目にしてついに自分の足で躯体を支えて立つという夢が叶ったのです。

 しかしこの立ちは無理をすれば何としても立たせる事は出来ます。両脇をしっかりガードして瞬間的に手を離せば倒れるまでは立った、と理屈ではそうなります。
 最初に立った1分46秒は、その後の特訓によって優に20分以上立てるようになりました。更に訓練を続ければ1時間近く可能になったかも知れません。
 ところがこの立ちは神経の繋がりとは何の関係も無いことが分かりました。
立ちと歩き。この差は圧倒的であり、動くことの無い立ちは根のついた木であり、単に視点が高くなっただけです。歩くという動作は当然身体を運んで移動することであり、しかも自分の意志でその方向を決めなければなりません。

重い上半身を支えて受け止める腰と足。
これは最低限立っていれるだけの筋力と耐久性が付いたということで、身体を運ばない足は何の意味をなさない身体の荷重に耐えるだけの柱です。

ここまでは想像を絶する立ちへの特訓でした。


■神の領域への踏み出し                                                                                      

 それからの森さんは加速度的に著しい進歩を見せました。
足のむくみは全く無くなり、贅肉がどんどん削げ落ちた代わりにフクラハギにはコリコリとした固い筋肉が付いてきたのです。とうとう松葉杖で立てるようになりました。しかし、杖の握りのグリップは全然握ることは出来ません。       
 これは鷲手に加えて指がバラバラで掌屈・掌握がゼロだからでこれでは体重を支えることは出来ません。そこで握りのグリップに指を固定バンドで縛り付けて手首が折れ曲がらないように松葉杖の手首の部分にハガネのカバーをつけました。
もう、ストップウオッチでタイムを計る域は完全に越えていました。そうなると当然歩く、という動作に移らなければなりません。

 歩くために『足を一歩前に出せ!』というのは当然脳からの指令により大脳で考えて目で見て距離感と立体感、方向を測らなければなりません。
 更に私の指示を耳で確認して、また大脳で整理してから中脳を経て運動領域を司る小脳のスーパーコンピューターに繋げて、歩くための最適な歩幅とその高さと角度などの微妙で実に複雑な運動の調整を瞬時に電算処理し、筋肉を収縮させなければなりません。  

ここまでは森さんは全く正常です。

 この指令を足、腰に瞬時に伝える脊髄という脳から伸びた神経が首のところでブロックされていて下に伝達されません。頚椎2~5損傷により挫滅状態だからです。
私は手術後に真っ先に聞いたのは『切断ですか?』でした。先生はちょっと間をおき『いわゆるスパッと切れた切断ではありません』『では挫滅ですか?』『そうです。しかしいずれにしても医学的に切断状態であることには変りません』
私は島田先生に脳の働きと脊髄への伝達とそこから筋肉にいたる仕組みを聞き、整形の先生には骨という歯車が入り混じったクランクの動きなどとともに本を読み資料を集めたのです。

 その結果、『その足を前に!』との指令が首のところで潰された個所で留まり、何の意味もなさず『動かなかった』と答えを持って戻ってくるという事が分かったのです。動かすためには、この大脳からの運動指令を、中枢神経である首から下に伝達して、胸髄を通り、腰髄、仙髄を経て、足から足指にいたる末梢神経にまで一つの経路に繋げなければならず、それは回路という路を作る途方も無いことであり、この摩訶不思議な脊髄という、いわば考える脳を持たない神経が繋がらなければ前に進み、歩くことは不可能と分かったのです。
 当たり前なことですが、歩く、ということは神経が繋っている事であり、その中枢神経に重度の損傷を受けたら修復はおろか再生不能とどの本にも記載されていたのです。

 座位から立位まではそれ程危険ということは無かったのです。二人が注意をしてさえいれば済みました。
しかし歩くという運動では予測のつかない突発的な事故、特に転倒の危険が常に付きまとい息を抜く事が出来ません。
 先ず、松葉杖を持った手のシビレ、杖の滑りと腰の崩れ。そして最も危険な脊髄損傷者特有の痙性(けいせい=突然起こる筋肉の収縮)と反射(筋肉が弛緩したり収縮したりの繰り返しによりブルブル震える状態)であり、これは不随意運動でいつ起こるか、私達は勿論、本人さえも全く予兆はありません。

 森さんの場合の転倒は、即、呼吸停止か、運がよくて呼吸器の一生となります。この訓練では神経を繋げて動かすという神の領域に一歩踏み出すとの怖れと共に、常に緊張をはらむ緊迫感に『退くのなら今だ』とのギリギリの選択を強いられたのです。
 先の立位での想像を絶する訓練から、こうして凄まじい訓練に切り替えたのです。

 横断、挫滅された神経にどのようにして躯体への運動指令を伝えるのか、専門の先生方に聞いても、どの本を読んでも、あらゆるケースを調べても「不可能」「あり得ない」「永久に」と知るばかりでした。
しかし私はその定説を信じなかったのです。
 それには私なりの理由があり『枕から首は上がる事はない』『座位は無理』『立てるなんて荒唐無稽』これ等を2年間掛けて一つ一つ可能にしてきたからです。
そして何より不可能に挑み続ける森さんの気迫に私は賭けました。その精神力に全てを委ねたのです。

 精神力で動くとの非科学的なことはいくら何でも私は思ってはいません。しかし、これがいかに大切かということは立ち上がるための辛酸を舐めた訓練でまざまざと知らされていました。
 足を一歩前に出す迄にはこれから途方も無い困難と挫折、その積み重ねの連続でしょう。それを乗り切る原点が精神力だと思っていました。その精神力を支えるもの。それは希望でした。

 脊髄という神経の束が、物理的にナイフでスパッとセンチ単位で切り離されているとは到底考えられません。それでは生きている方が不思議です。
 一番可能性が高いのは、首への強烈な衝撃により、丁度ダルマ落としの原理のように頚椎がスコンと抜けて神経の束が引き千切られる事故でしょうが、これほどの損傷ではその命は救急車搬送まで持つはずはありません。
 何十万もの無数な脊髄神経が横断により神経細胞が死滅して機能しなくなったとはどうしても私は考えることは出来ませんでした。       
『生き残っている神経はある筈だ』と思っていたからです。

 むしろ私にとって指令が神経に流れるまでの膨大な時間を要するであろうその精神力をいかに支え、持続させるかが大きな問題でした。
 ある本を読んでいたらリハビリの先生のやるがままに身体を預け、他力で動かしてもらっても何の効果も無い、という個所がありました。私もそのことでは森さんの身体を通して嫌というほど経験しています。動くどころか筋力も付きません。
 そこには『動け!』との自ら命令する神経への刺激と『何としても動きたい!助かりたい!』という本人の強い意志による内的刺激。それを更に触発させる他力、他動による外的刺激。これしかない、と思っていました。
そうして私は暗示が神経にもたらす驚嘆する効果の数々を実際に体験しているのです。

 退院一週間後、その姿は瞬きと息だけの物体でした。私は『ベッドを目の前からなくしてしまう』と断言しました。リハビリの原点とはベッド離脱であり、目の前にベッドがあるうちは絶対成功しないとの確信からです。
 そして徹底した励ましと暗示を与えました。どのようにしたかというと私と妻は森さんのために素晴らしいブラウスを買ってきました。
『今にこのブラウスを着て街に買い物に行けるようにしてやる』『このブラウスを着てフルコースの料理を食べに行こう』森さんは当然泣いていました。言っている私も無理とは分かっています。
 しかし来る日も来る日も『今に立てる』『頑張れば歩ける』『藤本先生も無い事も無いと言っていた』と暗示を与えます。

 リハビリルームの壁にブラウスを掛けて『何としてもこのブラウスを着たい』『着せてみせる』との意気込みで励まし続けました。飽きもせず暗示を与え続ける私。大らかで鷹揚な森さんはそのまま素直に受け入れた結果、不思議な事が起こってきたのです。
 笑顔が全く消えていたその顔から和らいだ表情が蘇り、何より大きな変化は、目に張りが出てきたことです。最初に表れた一つの大きな変化。それは顔に感情という表情が表れたことであり、これは心の回復でした。
 森さんの中に浮かぶのは、このブラウスを着て、松葉で歩き、座ってフルコースを食べる自分の姿であり、それを想うのは至福の刻なのです。

 私の暗示を受けて『頑張れば何時かこうなるかもしれない』という心の張りと拠り所を確かに掴んだのです。
脊髄を損傷した者にとって何が一番大切かという原点をこうして私は知り、はっきり掴んだ気がしたのです。
そうしてこれが間違い無いことを実際の動きで証明してくれたのです。
しかしこれはずっと後の事です。


■微かな兆候             

 脊髄損傷は首から腰まで長く伸びた中枢神経のどの高さで、どの部位を、どの程度損傷を受けたかでその症状の表れ方、麻痺の程度が決まり、それも完全麻痺、不全麻痺、完全に近い不全、一部完全、一部不全といったように千差万別であり、一人として同じ症状は無いと言われています。
 映画、スーパーマンの主役、クリストファー、リーブ氏は落馬により、C1~2番間に損傷を受けて完全四肢麻痺となり、その車椅子は口元のパイプの呼気感知で動くものであり、身体はベルトでしっかり固定されています。尤も呼吸器を外して動かせるだけの肺活量を回復したのは厳しいトレーニングの成果であり、氏は「まひ基金」の財団を設立して全米で活動し、その運動は世界にまで波及しています(2004年10月10日没)。

 脊髄に重度の損傷を受けた場合、当然脳に近ければ近いほど高位障害であり、その麻痺は広範囲にわたり、乱暴な言い方をすれば森さんのようにC2~5のような場合、首から下は動かなくなると言う理屈になります。
 当然、胸椎(Tレベル)は胸から下。腰椎(Lレベル)は腰から下の機能麻痺といえます。たとえば頚椎の場合、部位という番数(Cレベル)により実に大きな違いが出てきます。C2とC6ではその差はあまりに残酷です。C2は肩から下は麻痺し、一方、C6では両椀は何とか機能するからです。

 しかも恐ろしいのは、受傷後ほんの一週間位の間での反応の表れかたで、その人の将来の身体能力の見極めが付くとまで言われているのです。
 森さんが担ぎ困れた時、島田先生はこの反応をチェックするために全身のあちこちを針で刺し調べていましたが、当然ゼロだったでしょう。
 一週間どころか8ヶ月にわたって運動は勿論、知覚も麻痺していた森さんはその初見で言うと受傷直後から瞬きだけの運命は決まっていたともいえます。

 私は先ず、自らの神経に指令と刺激を与える、という多分に精神面からの訓練を行うにあたり、私が実際に森さんになりきる特訓をしたのです。
 夜、部屋を真っ暗にして仰向けに寝て静かに音楽を流して精神をただ一点、額の真中に集中します。眉と眉の間です。前頭葉を涼しくさせて第三の目を鋭敏にさせる訓練です。
 これは音楽療法というれっきとした精神療法の分野であり、いわゆるα波の刺激です。それは瞑想に引きずり込むような音楽。ガラリと転換して気を昂揚させる激しいリズム。安穏を与える旋律。実に様々です。
 ここでも私の趣味が役に立ちました。あらゆるジャンルの音楽が収録されていたからです。こうしてその日のリハビリに合わせる様々な種類の音楽を編集することから始めたのです

 この訓練で私の得たものは非常に大きなものでした。
それは健常者の視点からの訓練は一切通用しないという事です。             
瞑想して只一点に全神経を集中させるのにはどうしたらいいか。     
それには電話、来訪、私語。この3項目の厳禁しかないと分かったのです。
これらは精神を集中するためには最も妨げになる雑音でした。      
『動け!』と体中から絞り出す命令は、これらの雑音により、言語、視覚、聴覚分野に瞬時に切り替わり、サッ!と失せてしまいます。       
こうしてリハビリルームを精神道場にしたのです。

 じっと瞑目させて動かぬ足に『動け!動け!』と命令を発し続けさせ、同時に外的刺激を与え続けたのです。それは関節回内と回外、屈曲と伸展。筋肉を柔軟にさせ、タオルこすり、突起物刺激とタッピング。低周波、遠赤外線、電子鍼、電気的振動、温風、氷を当て、果ては鞭まで、考えられるありとあらゆる方法で刺激を与える毎日となったのです。
 この電子鍼はあるメーカーが輸入したもので、身体のツボを感知すると強いパルス音を発し、すかさずグイと電流を流してやると末梢神経が刺激されて鋭敏になり、事実劇的な効果があったのです。
 首から損傷を免れた本当にか細い神経が、いつか脳からの『動け!』との命令を運んでくれると信じていました。手足の関節を絶えず揉み続け、刺激を与え、筋肉の柔軟などは第二病院で連日、長時間やっていたのです。看護師さんは勿論、見舞いに来る数多くの方達にも私は頼んでいました。 
 実はこれが最も大切な急性期における神経への刺激であり、今後の人生までをも決定付ける重大なことであるかは後になって思い知らされます。

 やがて2年にも亘る特訓で、首が据わって腹筋が付き、立つ為の筋肉が腰、大腿、フクラハギにも付いて立つ事が出来ました。更に足を前に出すための絶対的条件として、あの尖足も直って来たのです。
後は脳からの指令という電流が伝わるようにただひたすら刺激を与え続けるしか無いと思っていました。
 初めツボには見事な位反応しませんでした。しかし来る日も来る日も内的命令と他力による外的刺激を与え続けた結果、微かに、ほんの微かに反応が表れて来たのです。

 最初は微かな皮膚表面の突っ張りでしたが段々深部に及び、内側から筋肉の攣縮(れんしゅく)に変ってきたのです。ある時、曲がっていた足がポンと跳ね上がりました。『やった!ついにやった!』と足をパンと叩きました。それに応えるように更に大きく足が反応します。しかし、これは脳からの『動け!』との指令が脊髄を伝わり、筋肉を動かしたのではなく、単なる腰髄からの末梢神経が電気刺激によって反応した反射運動であり、それは何の意思を伴わない不随意運動だったのです。
 膝をポンと叩くと上がる膝蓋反射、あるいは足裏に刺激を与えて検査するバビンスキー反応と全く同じ原理でした。


 私の訓練のやり方は独特です。
森さんの躯体を縦半分に分けて下肢の訓練の時は私が左。美子は右脚。上肢は美子が左。私は右手と分けているのです。訓練をする者の一番やりやすい利き手を選んだのです。
 この特異な訓練はいつの間にか友人達の間に知れ渡り、来訪はおろか、電話さえいつの間にか来なくなったのです。私はこれを待っていました。
 部屋では精神を統一するためのBGMが静かに流れる中で、ただひたすら刺激を与え続ける膨大な時間がこうして過ぎていったのです。
 その内、脚部からのほんの微かな震えが手を通して確かな動きとして分かるようになってきたのです。
 それは痙性という不随意な動きではなく、刺激を与えた個所に確実な筋肉の収斂、腱の突っ張り、脈動などはっきり手に伝わり、しかも目で確認できる迄となってきました。まったく無言の化石のような足が、今目覚めかけているのを強く感じました。

 私は考えた末、板に足を乗せて目を瞑らせ『これから右足に全神経を集中して身体中の力を振り絞り、思い切り蹴飛ばせ!』と言いました。森さんは全神経を右足一本に集中して息を止め、顔にサッ!と朱が走ります。
『今だ!蹴飛ばせ!!』瞬間森さんの口から『シュッ!』と吐く鋭い息が漏れて、ついに信じられないことが目の前で起きたのです。        
足は見事に板から『ダン!』と滑り落ちたからです。
しかも何回やってもそれは繰り返されたのです。
 かろうじて損傷を免れた脊髄が、足の末端まで命令を伝えてくれた瞬間であり、脊髄は『蹴飛ばせ』との強い意志を運んでくれ、しかもこの命令を中枢神経から足先までの経路を経て、一本の回路という輪の伝達路が繋がり、『今、確かに命令どおり蹴飛ばした』と脳は確認したのです。

 私達3人は目の前で起きた信じられないこの動きを呆然と見ていました。
喜びも昂奮も全く無く、リハビリルームにはBGMだけが流れていたのを昨日のことのように覚えています。 本当の喜びは爆発しないものだという事をこのとき初めて知ったのです。
森さんの『助かりたい、動きたい!』との執念。その悲痛な叫び。      
それに費やした膨大な努力。これに脊髄はついに応えてくれました。     
私は自分に呆れ、全身の力が抜けて崩れ落ちる虚脱感を感じていました。

 事故後1.028日目。2年と10ヶ月。1995年11月6日のことで、この日は森さんの58歳の誕生日の僅か2日前でした。


■ついに蘇った神経                                                                                                          

 微かながらでも一旦神経の繋がった足の動きは目を見張るものがあり、まだ足は上がらないものの、足指は曲がり、足首は私が指示する方向を指し、更に踵を床に付けて足首を上に曲げることが出来るようになりました。 
 一番の違いは、関節を揉んで屈伸させ、低周波、あるいは電子鍼で刺激を与えると、足指の先まで血行が良くなり、温かく、何より足全体の皮膚の色が健康人と何ら変わりなくなってきたのです。
 それはまるで深海の暗闇から徐々に浮かび上がってきた微かな陽が神経に射し、深い眠りから覚めているのと同じであり、まさしく息を吹き返して来るのが分かるようになってきたのです。

 この、足が動いたということは神経が繋がった何よりの証拠ですが、では『なぜ?』ということに関しては未だ臨床学的には明確に実証できる根拠がないということも分かったのです。これに関してはこれからより以上の回復をみる為にはどうしても知っておきたい大きな謎でしたので、島田先生に殊更詳しく聞き、それに関する本を読んで情報を集める毎日でした。
 一番考えられるのは、損傷を免れた神経が内的刺激とそれを呼び覚ます外的刺激によって活性化したのではないかということです。この刺激により脳からの指令を伝達するアセチルコリン、ドーパミン等、アドレナリンなど神経活性化物質と興奮物質の量の増大と活性化。それにより脊髄表面の細胞膜である伝達被覆のミエリン(髄鞘)の形成と伸長。
 脊髄の中で信号伝達の役目をする軸索突起の活発な働きで架橋され、それを受け止めるレセプター(受容体)の活性化。神経線維であるニューロンの活発な働き。その神経細胞のニューロンとニューロンを繋げるのがシナプスでこれは神経から筋肉への連結部ですが、これが刺激によって活性化して筋肉を収縮させ動かしたという説。

 勿論私には全く見当もつかないことですが、しかし、どのレポートを見ても、運動による刺激と強い指令を発することの大切さが分かりました。
 ここで私が一番納得したのは、この種の研究では世界的権威と言われる科学者が『いずれにしても、動かすことと同時に肝心の本人が動けとの指令を絶えず流すことにより運動神経細胞、感覚細胞に刺激を与えることが一番大切なことです』と言っているくだりを読んだときでした。

 3年近くにも及ぶ常軌を逸した一日6時間にも及ぶ絶え間の無い刺激と運動。それによるニユーロン、シナプス、アセチルコリンなどの物質量の増大とレセプターの活性化。
私は森さんが動いたのはこの全てに根拠が在ると思えてなりません。


 その足は『これこそが神経が繋がった動きなのか』と驚くほどのものでした。
今迄神経を繋げるまでに費やした3年間にわたる特訓での成果は斜めの板から足が滑り落ちた、というほんのささやかなものであり、ここまでなるには絶望と挫折の繰り返しの毎日でした。
 それまでは一旦重度の損傷を受けた中枢神経は再生、修復することは不可能と、どの先生にも言われ、また本の知識から得た通りであり、やはりその通りだったと何回諦めかけたことでしょう。 

しかしここから私達は驚くような事実を経験します。          
それは3年にもわたり狂気じみた訓練を行った結果、ほんの微かに神経が繋がった「途端」という表現がピッタリですが、一旦神経が繋がってからというものは、その運動と機能の回復が次から次と伝播していくかのように、今度ははっきり目で確認できるまでとなってきたのです。              
 この動きはまるで枯れかけた木が高濃度の栄養分を貪欲に吸い取る根のように、神経の枝が次々と伸びて繋がっていくかのようでした。これは二ヶ月も来ない友達、そして専門医である島田先生も毎月定期検診に来るたびに確認してその機能の回復振りに驚くほどでした。

その一番顕著な例が腕に表れたのです。
私のリハビリは一点集中型であり、足にだけ全力を傾注しました。両椀はとにかく関節拘縮を防ぐために刺激と屈曲と伸展、そして揉みだけであり、7対3の割合で分けていたのです。ところが足に微かな神経が繋がった時から、肩をすくめ、上げる機能が目覚めてきたのです。『これは一体どういう事なのだろう』と驚きました。肩が動くということはこの運動分野を司るC2~4番が機能したということで、この時から私達は歩くために不可欠な松葉杖を前に繰り出すための上腕の猛特訓に入っていったのです。

 その訓練とは、森さんの腕を肩まで上げ、いきなり手を離します。     
当然ダランと落ちます。
これを何千回、何万回も繰り返している内に、機能する肩で支えようとしているのが分かるようになったのです。このとき一番大切なのは、私が手を離す瞬間に森さんの『止まれ!』との強い指令がピタッ!と一致しなければ何もなりません。

離される瞬間と持ちこたえようとする指令が一致した時、肩、上腕、肩甲骨には明らかにグイ!と力が入るのが分かります。そしてとうとうその手は肩と水平になり、止めることが出来ました。
 いよいよ神経が繋がり一歩前に出す足、体重を受け止める腰、脇を支える肩、杖を繰り出す上腕。歩くための四つの条件がこうして整いました。

 私達は更に弾みが付き、より凝縮し緊迫した精神リハビリに取り組んだのです。これは他の障害のリハビリとは根本的に違い、全く異質なものであるということが分かってきたからです。
 いわば身体部位の可動域拡大訓練ではなく、その基となる損傷を受けた神経そのものに自らの指令という強いパルスを流し続け、活性化させる訓練です。
 そして松葉杖を装着して『よし!大丈夫だ。足は前に出る!』と歩かせることにしたのです。その立ち姿勢は「くの字」ではなく、安定した腰が背筋を伸ばして両脇には杖がピタッと収まっています。

 立つに耐えるだけの足と腰。杖を繰り出す上腕と肩の力。歩けとの命令が伝わった脊髄。それにより起動する筋力と柔軟な関節。私は必ず歩けると確信していたのです。
しかし、びくともしません。
理屈上では足は前に出て当たり前です。
それがほんの僅か、膝がくの字に折れ曲がっただけで全く前には出ません。
『これがこの人の限界なのだ』と打ちのめされました。

 『どうして前に出ないのだろう』と考え、自分で松葉杖を付けて森さんになり切ってやってみる毎日でした。そしてとうとう分かったのです。
それは足の力を抜く事が出来ないためでした。

 森さんは松葉杖という二本の足と本来の足。この四本の足で歩かなければならないのです。いわば立ったままで四足歩行をしなければならず、その手足の複雑な協調歩行が出来ないからです。         
 たとえば右足を出そうとします。このときは右膝を曲げ、左杖を前に出さなければなりません。そうすると今迄四本の足で支えていた体重が、右足を曲げたため残りの三本の足に負荷が掛かります。これは当然のことです。
 要するに右足を曲げた瞬間、その右足の力を抜き、足一本の重みだけにしなければならないのです。体重が残らなくなったその瞬間、グイと右側の腰と大腿、膝頭に力を入れて持ち上げなければ前に進めないと分かったのです。

 折った右側の足に体重が残っているからで、これではいかに厳しい筋力トレーニングを重ねても足は持ち上がるはずはありません。当然四肢への運動伝達と協調運動がバラバラで歩くことは出来なかったのです。
 力を抜いてゼロにする感覚と機能が目覚めていない結果であり、これは私が3年以上にも亘るリハビリの中での最大の失敗でした。なぜなら、今までの特訓は全て瞬発に力を「入れる」「込める」だけの筋力強化一本槍だったからで、そのお陰で確かに立ち、首が据わって腰が安定しました。しかし、その緊張した筋肉を緩めてこそ単一な動きから意思の通った「動作」になるとは思ってもみなかったことだったのです。

 これは訓練が進むにつれて常に付きまとう最大の難関でした。今までは押す、上げる、伸ばす、引く、という直線的な動きの訓練でした。しかし、上げながら伸ばし、引きながら曲げるといった、より高度な人間的動作では力を入れながら抜き、しなやかにする、との相反する機能を何としても目覚めさせなければなりません。
 これが頚髄を損傷して肩から下に全てダメージを受けた為に、伝達回路の遮断がもたらす運動機能障害の最たるものであり、訓練を行う上で何よりも難しく、殆んどこの時点で挫折して屈服し断念させられます。何としてもこの力を抜く感覚を理屈ではなく、身体で覚えさせなくては今迄何のために厳しいリハビリに挑んできたか意味をなさなくなります。

 このように重度頚髄損傷者へのリハビリは挫折と屈服の繰り返しの毎日であり、専門家さえも取り組まない訓練を素人が行っていくことへの怖れと、動かない身体を見て『もうここまでが限界であり、後いくらやっても』とギリギリの選択までに追い込まれてしまいます。
 
 結局は溜め息がどのぐらい積み重りここで『もう、いい…』とお互い諦めるか。
『ここまできたのだから』と踏ん張るか。この差は実に残酷です。
 それが動きに比例する息の長い闘いとなることをここでも嫌というほど突き付けられます。


■ついに足が一歩前に                                                                                          

 頭の中では『足を前に、足を前に』と命令しているのですが、3年近く歩いていないので足の出し方、杖の振り分けとそのタイミングがバラバラで、どのように指令を整理して流していいのか、神経の戸惑いが私には分かります。 特に森さんの場合、手でも歩かなくてはならないのです。
とうとう足を上げて歩かせる事を断念しました。今までの2ヵ月ごと訓練で断念した項目は今まで一つも無かっただけに、ここで無念の涙を呑んだのです。

 行き詰まった時は私が森さんになり切って訓練の一つ一つを確かめてやってきました。この時も完全な脱力状態となり、実際に歩いてみた結果『これでは歩けるわけは無い』と分かったのです。
 それほどこの手足の協調歩行は複雑でした。足と杖を交互に出すときには絶妙なタイミングを必要とし、その四つの動作がピタッと合って、初めて身体が前に出るということが分かったのです。

 私は考えたすえに床をピカピカに磨き上げました。その上に樹脂性ワックスを厚く塗り込めて滑りをよくする層を作ったのです。更にストッキングを履かせ、この滑りを利用して足と杖のタイミング、バランスの取り方を身体で覚えさせようと思ったからです。
 左右の足を私と美子が掴み『出せ!』との掛け声でスッ!と足を滑らせると同時に杖を次の足を出すための定位置にピタッ!と付けてやります。

この訓練は徹底しました。
歩けるかどうか。立ったままで終るか。
言い換えればこのまま一生車椅子生活か、松葉杖で自分の足で身体を運べるか。
施す者、受ける者の呼吸がピタッ!と合わなければたちまちバランスを崩します。
このため常に危険をはらむ訓練では極度の緊張を強いられました。

摺り足のため当然靴下は一日でボロボロです。
曲げた足に少しでも体重が乗っかっていたら、すかさずピシッ!と鞭が飛ぶ毎日です。事情の知らない人は青ざめますが、しかしこれは知覚神経が麻痺した身体に刺激を与えるれっきとして訓練であり、打たれる事により、脳はその個所の筋肉を『緩めよ!』との指令を流すスイッチの役目です。
 瞬きから背もたれの長座位を保ち、端座位へと進み、そして立つ事が可能となって、今、神経の繋がった足で歩こうとしている森さんを見ていると、人間性を取り戻すとの凛とした侵し難い尊厳と可能性の限界ギリギリまでに挑む気迫は、実際に訓練に携わる私でさえその迫力に気負わされ、怯む思いはしばしばです。

 そうしてついに足に体重が掛からなくなってきた日がきました。
左足を支点として渾身の力を込めて体重を左に預けて右膝を折った時、その右足にスッと力が抜けたのです。

瞬間、『今だ!前に出せ!』と私の悲鳴が飛びます。

右足はスッ!と前を滑りすかさず杖は右足の定位置に移動します。

前に出た右足をしっかり踏ん張って支点にして、今度は左足の力を抜きます。

全体重が右足と右杖に移動したのがはっきり分かります。

左足一本だけの重みになりました。左がゼロになったのです。 

またスッ!と出ました。

『出た!二歩出た!』絶叫で声がかすれます。


身体の中で歯車が半回転して、最も重い動輪が今『ゴトン!』と音を立ててとうとう一回転して滑り出したのです。
大脳からの『動け!』という命令。目で確認した距離感と耳からの私の檄。
動かすための運動領域の小脳。
これらの指令が手術のために切り開かれた長い傷、その傷の真下の押し潰された神経もまた、足に伝えようと必死だったに違いありません。

この日のために頑張った3人はそれぞれの思いが噴き出て涙がどっと溢れ出ます。
美子は私の過酷な訓練と激しい檄に耐えぬいてきた森さんへの憐憫。   
ボロボロに破れたストッキングの山。
全体重を乗せての引き摺り歩きでは皮膚は直ぐに破れ、マーカーラインに点々と血が滲みます。
森さんはその自分の血をなぞりながら滑り歩いてきたのです。      
それでも私は鞭を打ち、激しい檄を飛ばして美子が制止するのを振り切って引き摺らせます。
森さんも『休ませて下さい』とは決して言いません。                
 私は瞬きと呼吸しかできなかった人が今、確かに歩いている信じられない凄まじいまでの気力と生きる迫力。何よりその崇高さに感動した涙でした。
 森さんは涙を流れるままに任せて嗚咽を洩らし、歯を食いしばり全身の筋力を振り絞って3歩目の足をずらします。
 身体の中で錆び付いた固い歯車が『ギリッ!ギリッ!』と軋む悲鳴が聞こえる圧倒的な迫力。怒涛する渾身の気迫。身体を運ぶ凄絶なまでの執念。

 チラッ!と両親の写真を見るのです。狂おしい思いが貫き、揺れる身体を立て直し、足を引き摺りながら4mの距離をとうとう48分13秒で辿り着きました。驚異的なスピードです。1mを12分掛けて歩いたからです。
万感の思いに3人が3人、嗚咽を殺し泣き続けました。気付いてみると私は手の中でストップウォッチを壊れるほど握り締めていたのです。

1996年6月14日。倒れてから4年と14日。1474日目に森さんはついに自分の意志で筋肉を動かし、足を使って身体を運びました。


 自宅での訓練開始後546日目に瞬きからベッド上での端座位が成功した時、『よし!やった!』と狂喜したものです。
次に『まさか?』と思った自立が2年で成し遂げた時の感動。しかし、それも醒めてみると、自立とは動く事のない固定された点にただ立っているに過ぎないとの空しさでした。
 更に特訓は一段と厳しさを増して、微かに繋がった神経でついにストッキングを履かせ、滑らせ歩きに成功しました。確かに4m迄身体を運びましたが、これが果たして歩いたといえるのかどうか。
 歩くということは足を上げ、空間を自分の意志で移動することであり、上がらない足は単なる線のなぞりではないかと思ったのです。

 これをきっかけとして、私は自分にはっきり目標を持ったのです。
それはどんなに時間が掛かっても、私の課す厳しい訓練にいくら音を上げようとも、歩くための補助装具は一切使わない、という決意です。逆に考えると補助装具無しでは歩けないからです。   
 傷ついた神経を他力運動と自らの気力と精神力で癒し、活性化して繋げて、それを筋肉に伝えて動きを取り戻すという、真正面から対峙するという敢えて類の無い特殊性と難しさに挑戦したのです。

 いよいよ足を上げるための訓練に入っていきました。
 初めはマーカーラインの塗料のmm単位以下の厚さも足に引っかかり進むことはできませんし、ましてフローリングの継ぎ目のメジは全く駄目です。
 しかし神経は繋がり、後は足を持ち上げる筋力強化が最大の課題でしたのでこれにはただひたすら歩かせるしかありません。

 その訓練はいかに凄いものであったか。滑らせ歩きのために床のラインは剥げ落ちて、年に4回塗り直しをかける厳しさが何より物語っています。
 並行して人間の基本動作とも言うべき寝返り訓練にこの頃から挑戦しました。
こうして私は運動機能に刺激を与え続け、考えて動かす連携運動を森さんに求めていったのです。
当然、その訓練は更に厳しく、過酷になっていきます。
 頚髄を損傷して全身麻痺に陥った人に寝返りという自力体位交換をさせるという発想はまさに前代未聞でしょう。

 それ程この寝返りは全身に張り巡らされた運動神経を使い、筋肉の弛緩と緊張を瞬時に使い分ける複雑な複合動作の最たるものなのです。『どんなことをしても寝返りさせてみせる』と私が決意したのは褥瘡防止と同時に関節拘縮を防ぎ、睡眠を取らせるのが大きな理由でした。
 この寝返りは取りも直さず熟睡に繋がり、厳しい訓練に耐え得る体力の基本です。また褥瘡位恐ろしいものは無く、私はこの対策に徹底した厳しさで挑んだのです。


■ゼロの感覚           

 『足を上げろ!』との脳からの単一指令の伝達から、この寝返りは比べものにならない複合指令の複雑な回路を繋げる命令であり、更に高度となる様々な、より人間としての動きを取り戻す突破口となると確信したからであり、それは不可能の「不」を取るための挑戦でした。

 右側に寝返りする時は左膝を立ててその足首をしっかり持ち、先ず支持点とも言うべき力を入れる支点をきめます。次に右腕を立てた左の太ももに縛り付け、この体勢から一気に左足を蹴込むと同時に、腹筋、大腿筋、広背筋、胸筋、等あらゆる筋肉を総動員して左肩を持ち上げます。
 このときの最低限の条件として、肩甲骨が柔軟であり、床から10cm以上自力で持ち上げるだけになっていなくてはなりません。

 今迄3年以上にわたり私達は徹底した床運動をやってきました。この運動はリハ項目から外したことは無いのです。寝ることにより身体全体の負荷を床が受け止め、あらゆる訓練ができるからで、床運動こそが重脊損者訓練には欠かせない重要な項目なのです。
 仰向け、うつ伏せ、横臥など、一つ一つ異なる床での訓練項目は優に100種を超えていました。また寝返りというのは力を入れるべきところと抜くところのタイミングと左右の力のバランス調整が複雑に絡みあっていることに生体としての完璧さに驚嘆したのです。これは例によって私が森さんになりきってやってみて分かったことです。

 こうして何千回にもわたる寝返りだけの特訓の結果、とうとう左半身が浮きました。左の肩とお尻が床を完全に離れたのです。しかしここまでです。またダン!と戻ってしまいました。
 何千回から何万回のお互い意地になった特訓の毎日です。一日6時間ですのでこれは当然です。
『ここまで来た以上、何としてもやってみせる!』と私は血走った目付きだったと後から美子は言い『恐ろしかった』とも言っていました。

 これは最初から私には分かっていたのです。
抜くべき力を抜く事が出来ないからであり、左側に力を入れた瞬間、肝心の右足も蹴ってしまい力が相殺され、それがバネとなって身体を戻すのです。これが脊髄損傷のリハビリの難しさであり、いかに複合動作と応用動作、連携動作、左右の運動配分が利かないかを思い知らされます。       
 頭の中では寝返りが出来ない理屈は完璧に分かっているのですが、傷ついた脊髄はそう簡単にはこの指令を運んではくれません。

私はここでも鞭を使いました。
右足に力が入るとすかさずピシッ!と打ちます。知覚が麻痺しているその身体は傍で見るほど残酷ではないのです。それどころか、この刺激のお陰で、知覚神経を徐々に目覚めさせるきっかけになるとは思ってもいなかったのです。しかし、それはずっと後になってからです。
 「右に力を入れると鞭で打たれる」これは何より脳への刺激となりました。このお陰で力を緩めることが出来つつありました。

 立てた左足に渾身の力を込めて蹴込むと同時に左はL字に高く上がり、同時にスッ!と右足の力が抜けました。間髪をいれず腰とお腹を捻り、同時にグイ!と左の肩甲骨を持ち上げ右側に捻ります。ピタッ!と見事に身体は右半身の横臥姿勢におさまったのです。
 その動きは、今書いたそのままのスローモーションのように、あるいはコマ送りのように、一つ一つの動きが確実に分解されて、運動指令が寝返りさせるため身体の隅々まで行き渡っていったかを知ることになりました。

 とうとうこの複雑な寝返りを森さんは成し遂げました。生活の基本中の基本とも言うべき寝返りが出来たお陰で、以後熟睡を取り戻して褥瘡からも逃れることが出来たのです。
 今迄の訓練では瞬時に力を入れることばかりに専念していました。しかし、入れるよりはるかに難しい「抜く」という動作とゼロ感覚を掴んだような気がしたのです。
 
 『寝返り迄にどのくらい時間が掛かりました?』と多くの方達から質問を受けます。私には答えようが無いのです。というのは立たせ、歩かせるとの訓練目標では『よし!今日から立ちの特訓に入る』と言ったその日がスタートとなり、実際に立てた日がそれに要した期間です。ところがこの寝返りだけは今迄行ってきた全ての訓練の集大成であり、その間の数限りない訓練項目のどれ一つ欠けても出来ず、それ程複雑な動きの組み合わせでした。つまり全部連携されているからです。
 強いて言えばリハビリを決意した退院直後の1993年にまで遡ります。その位、膨大な時間を費やしたのです。

 私は森さんが怪我をした当時、脊髄損傷に関しては殆んど知識がありませんでした。その私でさえ受傷後僅か4ヶ月過ぎに『これから寝返り訓練を徹底します』と言われた時は『エッ!』と言葉を失ったのです。
 この複雑な動作が出来るのは神経回路が繋がり、しかも支点という支えがない重い身体を動かすだけの筋力と共に、瞬時に抜く機能が働かなくてはとても不可能なことは在宅訓練で直ぐ分かったのです。とてつもない高度で、難易度が高く、そしていかに常識をはるかに超えた無理な要求であったか、私は今思い出しても唖然とします。

 私のやり方は専門家からみると非常識そのものです。
それは当然であり、アカデミックな系統学問の上に立ったものでもなくまして豊富な経験などあろう筈はありません。しかし、常識をはるかに超えたことが出来るというのは取りも直さず私が素人だからです。
 私は今迄かなりの病院でリハビリの実態をみてきました。それも大きな病院ばかりです。しかし当然というか、その中には脊髄損傷による全身麻痺の方はいませんでしたし下肢麻痺の方もいなかったのです。
 圧倒的に脳疾患のために半身麻痺になった方、交通事故による骨折、あるいは外傷でした。そこで見たどんな簡単な訓練でも、森さんにとっては、はるかに高度であり夢のまた夢だったのです。

 私は今迄数多くのPT・OTの先生に『C損傷による全身麻痺患者のリハビリ経験は?』と聞いたところ異口同音に『リハのやりようが無いじゃないですか』との答えでした。中にはフッと薄笑いを漏らした者もいたのです。そこで頚髄を損傷した完全麻痺患者を扱ったことがないとの決定的な事実が分かったのです。脊損のリハビリ経験も無い人がどうして『やりようが無いじゃないですか』と言えるのか。

 専門職のこれらの方が今迄行ってきたリハビリから比べると森さんのそれは凄い!の一言です。今までのやり方が通用するようなそんな生易しいものではありません。その位、重度脊損のリハビリは異質です。
 それを抜きにしても私の中には『何かが違う…』といった漠然とした疑問がいつもくすぶっていました。言ってみれば精緻なガラス細工を扱うようなリハビリ以前の心の気配りが感じられなかったことです。
 森さんの病態を良く知っている整形の先生がいみじくも言った『あのやり方で動くわけが無い。動くほうが不思議だ』
 それを聞いて、やはり試行錯誤でもこれは自分でやるしかないと覚悟を決めたのであり、素人の私がやらざるを得なかっただけです。

 やがてどうしても分からなかった「何か」が分かりました。
それは「励まし」「脳からの命令」「暗示」「集中力」であり、殆どと言っていいほど、精神面でのウェートを占め、それが土台となり、そこから身体リハビリテーションに至ると分かった事で、その位、異質なものでした。
 やる気を起こさせ心を高揚させる励まし。精神を一点に集中し凝縮しての取り組み。暗示を与えて常に脳に指令を発し、刺激を与え考えさせる訓練。
 ポン!と背中を叩き、『あんたよりもっと酷い人がリハビリで頑張り、今では松葉で歩いているぞ!』『何だ!その若さで!』
この一言がどんな治療、どんな訓練より効果があるということをはっきり確認したのです。


■精神道場                

 私の訓練の厳しさは生半可ではありません。前に書いたように電話には一切出しませんし、私語は厳禁です。唯一許すのは喉の渇き癒す飲み物だけであり、他は私の指示と檄、それに応える森さんの返事。ピシッ!と床を打つ鞭、足ずれの音と、BGM。これだけです。そのBGMも精神を集中する時は瞑想を奏でるもの、松葉杖で歩く時は軽快なテンポ。瞬発の力を出すときには激しいリズム、気を鎮めてゆったりするときは陽光を感じさせるクラッシック。実に様々です。これをその日の訓練内容によってかけかえるのです。
当然来客は断ります。元気になった森さんを一目みたい、と遠方からの友人は上げますが、そこでは震えが来る緊迫感と迫力。生きることへの圧倒される臨場感に『ウッ!』と慟哭して逃げるように出て行き、もう二度とこの時間帯には来ません。

 なぜそこまで厳しくやるのか、それは次の二つの理由からです。
一つは言うまでも無く転倒です。この8年間、完全な転倒が4回あり「あわや」は数え切れません。
一回目は福祉ハイヤーを利用した時、固定バンドを確認しなかったため急ブレーキの際、身体はもんどりうって引っ繰り返ったといいます。しかし、運良くその衝撃を車椅子が受けてくれたのです。
 二回目は松葉杖で歩けるようになった時、私が『もうそんなに無理しなくていい』と言ったほど自由に歩ける喜びを噛み締めていました。その時は私と美子、そして友人がいたのです。
 緊迫の訓練が終わり、談笑していたときのことで、運悪く3人が3人とも目を話したその時、突然『あっ!』と悲鳴を上げ飛びつく間もなく横倒れしました。脊髄損傷者にとってしばしば起こる痙性反射です。
『やった!!』頭の中がカッ!とスパークしました。
『どうした!大丈夫か?』3人がともに泣き声に近い悲鳴をあげました。 
顔面蒼白になり、目を瞑ったまま動きませんでした。『もう駄目だ!』瞬間的にそう思ったのです。
しかし激しいショックが収まり目を開けたのです。この時受けた肩の打撲は亜脱臼して今でも肩上げには大きな影響を及ぼしているのです。
3回目は杖の滑り、4回目は足に走った突然の痙性です。
 
 この瞬時に襲ってくるケイレンは脊損特有なもので、歩行訓練の際は気を抜く事は一切出来ません。その位、恐ろしいものです。この突発的に襲う強い手足のケイレンでは、瞬時にして身体は崩れ落ちます。このような場合、とても手では支えきれるものではありません。ではどうするか。それは一瞬の間もなく飛びつき、自分が下敷きになるのです。息を詰める緊張を強いられる歩行訓練中の電話の呼び出しと不意の来客。その時私は即、席を蹴り帰ってしまいます。
 この転倒は訓練が終わり、緊張が解けたときにしばしば起こるので、後片付けをしている時、私と美子のどちらかが必ず森さんを見ていますし、また見ながら後ずさりする癖がこの8年間で何時の間にか付いてしまいました。

 二つ目の理由は、どんな訓練でも二ヶ月を限度としているのです。
たとえば森さんは平成11年2月の段階で膝が18cm床から上がります。これを2ヵ月後の4月までに20cm上げるという「旗」を立てるのです。
今でも18cmが限界なのに一ヶ月1cmずつ上げなければなりません。
これは本当に大変なことですが、しかし必ず出来るのです。
それはこの膝上げだけに全力を集中して他の余計なことは一切しません。
その二ヶ月の期限がきて、目標が達成できなかったら私は迷わずこの訓練を直ぐ止めてしまいます。
次に全く違った訓練をさせます。これも当然二ヶ月です。
その期限が来たら今度は前に達成できなかった膝上げ訓練を二ヶ月ぶりにやらせると見事に出来るのです。これは全く別な訓練をやった事に対する身体の相乗効果と応用なのです。

 私が相談したある先生は『リハビリは40分が限界です。時間を掛けてやったからっていいってもんじゃないのです』さすが、と感心しました。しかし実際にやってみて、この40分というのはアッ!と言う間であり、訓練に備えての関節柔軟だけで過ぎてしまいます。                
確かに私のやり方は厳しく長いものです。これを長時間続けていますと、筋疲労で筋肉中の酸素が不足して、代りに乳酸などの疲労物質が増えて、グリコールを失い、時には過換気症候群に陥り、リハビリどころか体調まで崩してしまいます。しかし、ハードとソフト、ストレッチを組み合わせると大きな効果があることを直ぐ知りました。筋トレなどハードなパワートレをこなした後は春の陽射しのような、ゆったりとしたくつろぎの中で音楽を聴かせます。

 静と動、緊張と弛緩。また精神リハビリでは『動く!』と絶えず暗示を与え、これを交互に繰り返し身体と心の活性化を計ります。こうして私はリハビリルームを精神道場にしたのです。
これが在宅訓練でしか出来ない何よりの強みなのです。


■自立歩行                 

 年に4回もマーカーラインを塗り直すほどの厳しい訓練のお陰で、受傷後5年近く経った頃から、ついに足を上げての歩行が可能となりました。
 私は歩行訓練の際『これだけは』と徹底した厳しさで身体に覚えさせた形があります。殆んどこれだけに時間を費やしたと言っていいでしょう。 
それは歩行姿勢です。
 
札幌での退院間近、素人の私から見ても到底立てる筈が無いのに二人掛かりで立たせました。鏡でみたそれは大きく捩れた腰と、奇妙に折れ曲がった足であり、そのため極端に傾いた身体だったのです。その捩れた腰、開いた足、傾いた姿勢での一瞬の立ち姿は無惨そのものであり、重度頚髄損傷の悲惨な姿が『あっ!』と声を呑む恐ろしさと強い衝撃で森さんの脳裏に焼きついただけでした。もしこのまま長期入院していたならその身体はどうなっていたか。私は背筋が寒くなります。
 
立つには立ち、何とか歩行補助具で身体は支えられたかもしれません。しかし最も肝心な腰の捩れからくる全身の骨格の歪みには目を覆うでしょう。
 身体の荷重を中心点である腰で受け止めて、それを二本の足で平均して支えるというのが立ちです。この中心点が極端にずれた結果、一方の関節と筋肉には過大な負荷が掛かり、刺激を受けて捩れるのは当然です。
 斜めに歪んだ型にはまってしまい、以後、一切のリハビリは通用しなくなります。それは関節が柔らかい赤ん坊に無理矢理立たせて生涯いびつにしてしまうのと全く同じ事であり、常識以前の問題なのです。

 しかも驚いたことにこの病院だけではなかったのです。
 やがて、森さんの記録がインターネットで発信された途端、全国から実に多くの重度脊髄損傷の方が小樽にきましたが、その骨格の歪みと偏った筋肉の着きには息を呑みます。
 立位を保つためには最も大切な腹筋と足腰の充分な筋力トレーニングと関節柔軟を行なわず、器具、装具を使っての強制立ちで特有の型にはまった立位姿勢を見せつけられ愕然としたのです。
 その形とは極端に弓なりに後ろに反ったまさしく「型」です。このようなリハビリならやらないほうがはるかにいい、と思っていた苦い経験からの自戒です。
 
関節がグラグラ緩んでいる急性期の状態の時に、誤った訓練を無理に強要すると形状記憶されて、以後取り返しのつかない結果になることはいくら素人でも分かっていました。
 支持点というものが全くない森さんの場合、どんな型にも直ぐ鋳型にはまる粘土であり、捻じ曲がりを直す適切な矯正をしなければ以後、関節は拘縮したままになり悲惨な結果となる事は分かりきっていました。

 それは退院直後の悲惨で目を背けさせた森さんの姿が何より物語っています。
なぜ私がここまで言えるかというと、矯正訓練をやった者にしかその恐ろしさは分からないからです。特に松葉杖は自分の手足であり一生の伴侶ともいえます。あらゆるメーカーのカタログを調べ、取り寄せて試してみましたがどれも満足がいくものはありませんでした。
しかしついに見つけたのです。その形状と材質の軽さ。そしてしなやかさと強靭さ。脇当てのフィット感。床に着く石突きの触感。
 唸ったのは脇・脇当て・グリップ・全体と4段階に伸縮を微調整できる重度身障者に対して実に優しく細やかな配慮であり、そのメーカーの温かさでした。
 これを考案した方はご自身が身障者である事は間違いないと思いました。

 松葉杖を装着した時からこの矯正は始まりました。杖のグリップの高さと腋当てを、腰が伸びて背筋が真っ直ぐなるたびにミリ単位で調整していくのです。特に腰の安定には殆どの時間を割きました。歩行の際にはどうしても足は外側に開きV型になります。
 これは本人が意識しなくてもこの型が最も身体の安定を保つ危険回避の本能からであり、そのため必ず腰が引けるのです。これには真っ直ぐ引いたマーカーの線上を気の遠くなるまで歩かせ完璧に直しました。
 また、歩くため右足を上げると当然身体は右に沈みます。それを避ける為に足を上げたと同時に右杖にグイ!と力を入れ、同時に腹筋を使い左に傾けて平衡を保たせ、それを等身大の鏡で確認させて視覚からも直すのです。その結果、『これが瞬きだけだった人か』と誰もが疑うスムーズな足の運びとしなやかな膝、足首の動きとともに、姿勢を伸ばした実に安定した腰から足が繰り出されるようになったのです。

 この頃から私は『途轍もないことをやってみよう』と決めていました。
それは松葉杖、ステッキなど一切外しての自立歩行です。腰は安定したとはいえ、これはまさしく正気の沙汰ではありません。しかし、私には自信がありました。その裏付けは歩くために4年以上にもわたる厳しい特訓で膝は完全に上がっているのを見て『よし!出来る』と判断していたからです。
 歩くために一番大切な腰の安定とバランス感覚を身体に覚えさせるためでもあり、また『ついに自分の足だけで歩いた!』という計り知れない自信を植え付けるためでもあります。
『これから自立歩行の特訓に入る』と言ったのです。
森さんは『えっ!』と絶句したままポカンとしていました。

 そしてとうとう実行しました。当然100回やったら100回とも倒れます。どうして倒れるのか私には分かっています。それは恐怖なのです。
 足が完全に床から離れた瞬間、サッ!と恐怖がよぎり、身体が固くなって金具になった足を出すことが出来ません。それからというものは猛然と倒れる特訓だけに集中したのです。
 このように身体を捻ると倒れる。足が上がった瞬間、恐怖で身体が固くなるから倒れる。倒れまいとダン!と床に足を叩き付けるから倒れる。倒れるであろう、ありとあらゆる条件を調べ上げて身体に覚え込ませました。
 この倒れる、ということを徹底的に叩きこまれた身体と心からは恐怖心が大分薄らぎ、100回倒れたのが半分になり、10回になり、3回に1回となって、とうとうと倒れず歩き通すことが出来たのです。
 この訓練は予想をはるかに超えて、研ぎ澄ました神経と息を詰める緊迫の連続となり、自立歩行が出来るまでの4ヶ月間、私は血尿が止まることはなかったのです。
それ程の特訓でした。
これこそ素人の私が行うリハビリです。

 この自立歩行は今ではやらせていません。何故なら実生活では余りに危険であり、突然襲ってくる最も恐ろしい痙性に手足は咄嗟の防御姿勢を取れないからです。『この私が自立歩行できた』との計り知れない自信は、その後、私が課すどんな厳しい訓練にも耐え抜く事ができた大きな励みとなって還って来たのです。

 ベッド上での瞬きから自立歩行が可能になるまで、5年近くが過ぎました。これが長かったのか、短かったのか、私達には時間と季節を感ずるゆとりはありませんでした。何時の間にか経ったという感じです。
 私達にとっての時間とは、2ヶ月ごとに組み立てる次の目標達成に全力を挙げて挑むことだけなのです。
 森さんは『リハ最中、転倒してコト切れるなら私はそれで本望です、しかし何もせず、ベッドで瞬きだけの生活にだけは絶対戻りたくないのです』こういつも言っています。


■旗に向って奮い立つ                                                                                          

 重度脊損者への訓練では行う者、受ける者双方が目で確認できるほどの回復振りとか、まして劇的な展開などは望むべくもなく、その単調な時間の繰り返しに、ついには目標を見失って投げ出したくなります。
 その結果、何時の間にか惰性となり「暇つぶしリハビリ」か、やっていなければ何となく不安な「安心リハビリ」になりがちです。この怖さを私は経験していましたので2ヶ月という期限を切って次の目標という旗を立て、それを見ながら3人が共に気力を奮い立たせました。

 よく私は聞かれますが『森さんは6時間ですか。…私なんて僅か30分ですよ、これじぁ…』と嘆息します。
病院と比較して12倍かけたから動いたかの言い方です。リハビリ時間の長短で効果云々というのは全くおかしなことであり、医学的臨床学的に根拠がないという事が直ぐ分かりました。
 事実どんな本を読んでもそのようなことは書いてありません。時間の長短よりその内容と密度の濃さであり、一番大切なのは症状を的確に把握した上での質の高さ、つまるところは旺盛な研究熱心が培った技量と何よりもリハビリを施す者の人間性に尽きるともいえ、それが患者自身の全幅な信頼感に繋がり『何としても!』と奮い立たせるのではないでしょうか。

 その熱意によって訓練を受ける者は左右されて、ひいては一生が決まってしまうと言っても過言ではないと私は思っているのです。森さんが瞬きだけだった時、『立てる筈だ!…何で立てない?』『ほら!気合入れて立ってみろ!』と乱暴に言ったPTを見て、余りの知識の無さに『これは脊損を扱ったことがない』と直ぐ分かりました。しかも僅か40分足らずの間に複数患者の掛け持ちリハでは動くほうが不思議です。
 心から信頼する先生とのマンツーマンリハの30分。1時間掛けた複数患者との掛け持ち惰性リハビリ。その効果は歴然としています。これは森さんを通して、またその後、数多く訪ねてきた同じ障害に悩む人達から私が受けた実感でした。
 極言すれば、絶望の時にどのような先生に出会えたか、その人間性によって全てが決まると言っても過言ではないと思っています。

 パンフレットに書かれてある近代時な建物と器具の充実。リハビリルームの広さとスタッフの数。これらは身体が動くためには何の関係もありません。
 森さんの歩行訓練はこの頃4種の組み合わせの毎日であり、その内容は松葉杖、二本ステッキ、一本ステッキ、そして自立歩行がワンクールです。特に危険の伴う歩行訓練では 一つの項目に対し15分が限界であり、緊張に耐え得るのがこの4項目の1時間です。後の5時間はこの目標達成のためのただひたすら単調な基礎訓練に費やされるのです。これにお互い耐え得るかどうか。これが全てと思っています。
 こうして2ヶ月に一回ごとに訓練の内容を変えて一つ一つ積み上げていきますがその期間内に達成したもの、また出来なかった項目も当然数多くありました。しかし数ヵ月後は必ず達成します。先ほど書いた相乗効果です。

 『これだけ歩けるのだから横歩き、バックは出来るはずだ』と思ったのですがこれが全然出来ません。
 やった事のない運動には脳が命令しても足の角度、腰の捻り、杖の振り分け等複雑な連携動作の調整に運動領域の小脳のスーパーコンピューターが戸惑っているのが分かります。そのため、一つ一つの動きの全てを分解して脳の記憶回路に確実に埋め込む作業に時間が掛かるのです。
 自立歩行が出来た時点で次に二本ステッキ歩行をやらせます。先ず不可能と思われるものから先にやらせて次に簡単なものに降ろしていきます。既に『最難関の自立歩行が出来た』という大きな自信が励みとなってこのステッキ歩行などは何の苦もありません。

 どうしてこのような非常識なメニューを組むのかというと、不可能と思われる難易度の高い課題を与えるからこそ、森さんは今もっている最大限の機能を生かし渾身の迫力で挑みます。そして私達3人も目標という旗に辿り着くまで脊髄損傷者になり切り、一緒に歩くのです。このほうがはるかに効率良いということが分かったからでした。二本ステッキ歩行をこなした後、この次はグン!とレベルを上げ一本ステッキに移らせてここでもまた緊張の度合いを高めていきます。

 2ヶ月を過ぎて、次の訓練に移らせるとき『今度はバック歩行とターンをさせる』と一ヶ月前から言います。
 森さんの頭の中ではバックする時の足の運び、ターンをする際の杖の振り分けと腰の捻りと足の角度など『どうすれば効率よくターンとバックが出来るか』とありとあらゆる想定問答が繰り返されます。
イメージトレーニングとイメージリハビリです。脊髄を損傷した人にとって欠く事が出来ない脳で考えさせて命令し、刺激を与え活性化させるトレーニングであり、絶えず『動くには』とのパズルを組み立てては崩し、この繰り返しにより頭の中ではバックしてターンをする自分が組み上がっています。
これは非常な効果を生みました。
その結果、2ヵ月後に旗に辿り着いた時、当事者のみが知る大きな感動となって還って来ます。

これが私のやり方です。


■壮絶なリハビリ       

 歩き一つとってもその動きは実に様々です。
直線・ターン・横歩行・斜め・斜めバック・バック・回転、一足ターン・ジグザグ、円周・障害物乗り越え等、およそ考えられる全ての歩きを一つ一つ確実に身体で覚えこませましたがこの中で最も難しかったのは円周でした。普段私達が何気なくやっているこの歩きがこんなにも難しかったのかと驚きます。特に8の字歩行の余りの難しさに何回投げ出そうとしたことか。

 それは外周と内周の歩幅の差と、それに伴う微妙な杖の連携です。外周は一歩、内周は半歩、この陸上競技のトラック周りがどうしても小脳が的確な指示を出してくれません。しかし,この最難関の8の字歩行もついに成し遂げました。私が森さんに課した訓練では「想像を絶する」「凄絶」「凄まじい」などの言葉がしばしば出てきますがこれは決して大袈裟ではないのです。

 頚髄という最重要部分に損傷を受けた者にとっては、絶え間のない訓練を一日も欠かさず続けて初めて現状を維持することが出来、その繰り返しがあってミリ単位で進んでいきます。今迄当然のことですが発熱・悪心・血圧、下痢・目眩・嘔吐・悪寒・筋肉痛、果ては睡眠不足・引きずり込まれるような倦怠感など、ありとあらゆる症状がありました。その結果、往診、点滴、座薬、そして救急車です。
しかし組み立てた訓練スケジュールに穴をあけることは決してしません。
 高熱であろうと、目まいであろうと点滴の状態でさえただの一日も休むことは出来ないのです。
『何を馬鹿な、基の身体があってこそではないか』と思うでしょう。それは健常者から見た考えです。
 ベッドに崩れ落ちたら最後、二度と訓練をやろうとの気力と体力はなくなります。当然その結果は驚くほどの機能の退化と劣化であり、せっかく積み上げた賽の河原の石積みが崩れ、ジグソーパズルがバラバラになってしまいます。

 3日休むとズルッ!と滑り落ちる体力。反応しなくなる四肢。これが重度脊髄損傷者訓練の恐ろしさです。
 何よりも森さんはその怖さを知っていますので『ベッドに寝る』とは決して言いませんし私も休ませません。
『身体は何としても私が治しますから訓練を続けてください』
 厳しい訓練で基礎体力をつくっていくこの悲壮さは健常者にはとても分かってもらえないでしょうし、分かってもらおうとは思っていません。
他人が言う『…安静にしてぐっすり寝て』
これは常識が言わせる言葉であって、私達はその常識をはるかに踏み超えた世界で訓練を続けなくてはならないのです。

 これは完全四肢麻痺となり地獄を這った人のみが知る底のない絶望であり、どんな言葉を以ってしても言い表す事が出来ない瞬きだけの恐怖です。もし、3日間何もやらず寝ていたら動かそうとする神経は鈍い反応で応えてくれず、筋肉の僅かな震えに愕然とします。その順応の劣化は高度で難易度の高い順に崩れていきます。
 これが「凄まじく」「壮絶」で「想像を絶する」リハビリの厳しい現実です。
 高熱でふらふらしながらも歩くその姿。それを止めない私。それは胸を衝く哀しさです。

 私はどこから手をつけていいのか全く分からない状態の中で、先ず立たせることを最優先してそれに全力を挙げてきました。それは運動生理学の本に、人間の筋肉と筋力はスポーツを行ってきた健康な男子でも、全くの寝たきり状態に置かれたなら一日7~10%の筋肉が落ちていく、という個所があったからです。
 この恐ろしさは私も実感しています。入院中に数多くこのような患者さんを見てきたからです。
 特に腓腹筋(フクラハギ)、大腿筋、何よりも腹筋、そして殿筋。これらの筋肉の削げ落ちは凄いスピードで襲ってきます。
もうひとつ大きな理由がありました。

 立つことにより自らの荷重で尖足を矯正すると同時に内臓、特に胃、腸など消化器菅への活発な蠕動作用が機能して刺激されて、代謝の促進をはかると考えたからでした。こうして下肢だけに徹底集中した訓練で攻めたのです。それは、人間の全ての動きの基本は腰であり、腕の挙上さえもこの腰と腹筋が重要な役割を果たしていることを知ったからでした。
 躯体に体幹という一本の芯を通すことに全力を挙げました。
 褥瘡防止のため今までどのくらいの種類のクッションを試したか分かりません。空気圧・ビーズ・細かい砂・プラスティックの微粒・小豆・ウレタンの果てはそのクッションの形まで。
しかしどれもこれも防ぐことは出来なかったのです。

 ここから発想を切り替えました。それは一切これ等の除圧を止め、ゴムマット一枚だけにして徹底した下肢訓練に入った結果、最も恐ろしい第二次障害の褥瘡が訓練開始後10日も経たず、皮膚が乾いて形成され、それこそあっという間に治ったのです。当然ですが毛細血管に血液が流れ込み、息を吹き返した結果です。

 歩行訓練に明け暮れしていたこの頃です。森さんはいつもの定期検診で腸に不審な腫瘍が見つかりました。
母親は丁度森さんのこの年である59歳で癌のために亡くなっています。『もし、これが癌だったら今までの5年間は一体何だったのだろう…』と島田先生は言い、私も暗澹とした気持でした。
 『もし、癌と宣告されたら?』と聞いたところ『私は癌に侵され、倒れるまで訓練は続けます』とすかさず言ったのです。更に『癌など少しも怖くないです』とも言いました。

 私はそれを聞き、清冽な水の流れを見た、と感じました。
これこそが漆黒という絶望の密室に閉ざされて、言い知れぬ深い懊悩を経験し、それを克服した者にしか言うことが出来ない何の気負いもてらいもない言葉です。幸い検査の結果良性でした。

立ち、歩くのを見て、かつての状態を知っている友人達が私の厳しい訓練を知って『よくここまで頑張って…。こうなるまでにはほんとに辛かったでしょう』と胸を詰まらせ言います。『瞬きしか出来なかったあの時と比べたら、訓練の辛さなんて私には蚊に刺されたようなものです』と答えます。
 私が森さんに課す峻烈極まりない訓練では友達さえも立ち寄ることが出来なくなりました。
 しかしそれさえもこの表現がピタリと当てはまるほど当時は煩悶にのたうっていたのです。


■世界観                 

 機能回復の度合いが進むにつれて私が組み立てる訓練内容は当然高度になり、難易度が高くなっていきます。
 ベッドから椅座位、椅座位から端座、立ちから松葉杖、次に二本ステッキを経て一本。更に自立歩行が出来るまでとなり、床運動、寝返りはほぼ完璧となりました。そうして椅子からの自力立ち、逆に自力で座ることさえ可能になったのです。
 それどころか、これこそ絶対不可能と思われた階段昇降の特訓に明け暮れるまでとなったのです。
 
 この階段昇降には実に多くの時間を割きました。
 段差を乗り越える訓練として、床に2cm厚さの棒を置き、次は4cm、6cm、8cm、10cmとハードルを上げていきます。10cmを超えたところで大工さんに階段の模型を数種類作ってもらい踏み越えさせました。
 この階段昇降は複合動作の最たるものであり、脳からの指令と全身の筋肉の複雑な動きとそのタイミングを必要とする連携プレーであり、ここでも気の遠くなるほど寝返りに時間を掛けた特訓が実を結んだのです。

私は森さんを何としても治さなければならないという義務は勿論責任もない立場です。家が直ぐ隣という他人が何故ここまでやらなければならないのかどうしても分からないと皆さんは一様に言います。
私は『感動です』と答えます。
 余りの奇麗事、またキザな表現と取るのか怪訝な顔をしますが、私にはこれしかありません。
 私が考えて組み立てた二ヵ月ごとの目標を森さんは渾身の気力と迫力を以ってこれに挑みます達成します。今度こそ『いくら何でもこれは無理だろう』という複雑で難易度が高い目標を設定してやらせます。
 これも見事に乗り越え成し遂げました。その時に受ける感動です。

 端座が出来たとき、立てた時、神経が反応し、足が一歩前に出た時、寝返り、自力歩行、階段昇降などキリがありません。これらは全て感動です。それを達成するための時間と内容が並ではないだけに大きな感動となり還ってきて、しかも二ヶ月ごとに味わえるのです。その成し遂げた目標の数々に対して感動慣れという事は決してありません。内容がより高度なって複雑さを増し、難易度の高い目標を克服すればするほど、その感動の意味合いは深く心を打ちます。

 懸命に挑むその姿から生きるということは、との人間としての根源的な厳しい崇高さを感じ、身が引き締まる思いがしばしばです。私が組み立てた訓練項目で重脊損者が動いたという感動はどんな説明をしても分かってはもらえないでしょう。
 この感動は私だけでなく、アシスタントの美子と何より森さん自身が困難な目標を乗り越えるたびに『こんなに頑張れる!』と、自分の中のもう一人の意外な自分の努力に驚き、感動するといいます。
 可能性の限界まで切り詰め、それを克服した大きな快感であり、今迄生きているのが当たり前という人生観がこうして変わってきたのです。
 回復の進捗振りと比例してその訓練内容と方法はだんだん増え、200種を超えるまでとなりました。そのどれもが素人の考えたユニークなものばかりで、これらをその月の目標と体調に合わせ組み立てていくのです。

 森さんのように全身麻麻痺の人と胸椎、腰椎損傷の下肢麻痺の人と比べて根本的に違うところは、その障害の度合いにもよりますが、歩けない代わりに上肢は機能して自走車椅子での移動は勿論、食事、着替え、電話もテレビも意のままです。立つことも可能です。手の力、腕力で出来るからです。これは比較にならない差です。

 一方、私は健常者であり、これはもう無限ともいえる圧倒的な開きであり、この健常者の考え、感覚、目でリハビリをやっても全く意味がないということを知りました。
『何でこんな簡単なことも出来ない!』という苛立ちです。
 ですから200種を超すリハビリ全てを先ず自分でやってみて『これなら出来るはずだ』と確信したものしかやらせないのです。

 立った事によりその世界観は一変しました。
事故以来1年近くは天井を見ただけの、いわば時間が止まった平面の世界でした。
それが端座できたことにより、ようやく水平にものを見ることが出来ました。
しかしそれでもテレビは一切拒否したのです。動くことを奪われた身体はテレビの動画に激しい拒否反応を示して画面を一切見ようとはせず、目を瞑り苦しそうに顔をゆがめます。

 とうとう立ち上がり、奥行きと立体感のある世界を取り戻したとき、初めて『生きていて良かった』と実感したといいます。
 自分の足が前に一歩出て、更に次の足が出たとき『自分とは別な人が今、身体の中で動かしている』と思ったと言います。
事故から丸3年以上過ぎた頃です。自分の躯体から手足が伸び、着いているとの接続感と一体感、そして床足の接地感、さらに訓練後の僅かな発汗と外気温。これらがほんの微かに、言葉では言い表せないそれこそほんの微かながら時折サッ!と感じてきたのです。

 この自覚こそ、重脊損傷者にとって最も悲惨といわれる感覚障害、自律神経麻痺、そして知覚神経麻痺が徐々に蘇ってきた驚くべき確かな兆候でした。

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