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【第四章】       生きる勇気を与えてくれた人達


 森さんが入院しているその間、色々な意味で忘れることが出来ない人達との出会いがありました。その中にこんな方がいました。
 年は40歳を過ぎた頃かと思われますが、何の病気かは分かりませんでしたが、いずれにしても脳外科に入院して車椅子でようやく、といった感じでした。ある時、瞬きだけの森さんを見て『私、森さんが可哀相』と言ったのです。
 『私は小さな頃からこんな身体で今迄人に迷惑ばかり掛けてきました。だから目立たないように、ひっそり静かに暮らしていたのです』
 『特に痛い時、痒い時はなるべく笑顔で、笑顔で、と自分に言い聞かせてきたら実際その通りになってきたのです』
 更に『私は看護婦さんを煩わせないよう40㎏以上にならないように食事を制限して、水分も気を付けて今では一日3回のおしっこです』と言ったのです。
それが出来ない森さんが可哀相と言うのです。
 私はそれを聞き『あぁ、この人に今一番必要なのは医学の治療ではないな』と思い、心の治療、メンタルケァと思いました。この人は何十年か知りませんが、自分はこうすれば人に嫌われない、こうしなければ生きていけない、との実に悲しい生き方と、看護師さんが一番嫌がる媚びという間違った処世術を自ら選んでしまった哀しさを感じて何も言う事が出来ませんでした。その後、森さんが転院する一ヶ月前、どこかの病院に引き取られました。

 それから二ヶ月近く経ち、森さんが転院したとき、なんとその方と同室となったのです。これこそまさしく偶然であり、奇遇でした。そして今度こそ自宅に引き取られて行ったのです。
 田舎で農業をやっているいかにも実直そうなお父さんが、小柄な娘さんを抱きかかえ『娘がお世話になりました』と同室の皆さんに挨拶をしています。
 その腕の中で娘さんが寂しそうに笑っているのを見たとき、私は『良かった。良かった。本当に良かった』『もうこれで作り笑いも媚びも必要無いし、思いっきり食べて、おしっこも行きたい時行ける』と哀しく、なんとも遣り切れない思いで退院を見送りました。
 後日、私がリハビリを行う上で、先ず心から、メンタルの面がいかに大切かということをこの方を通して教わったようなもので、事実この出会いが大きなきっかけとなったのです。それがおしゃれをして人前に積極的に出すことに繋がったのです。

 また、こんな方もいました。
 この人は交通事故による複雑骨折で、丁度森さんの真向かいのベッドでした。ある時『森さん、あなた歩けるよ。夜中何回もフトンを蹴飛ばしていたから。
 私はそれを聞き、『一体、どうなっている?』と到底信じることは出来ませんでした。いくら冗談としてもこれは酷すぎます。
 『これはちょっとしたら動くかもしれない』と半信半疑のまま、この言葉が後々までずっと心に引っかかり引き摺りました。それは無意識な内に神経が繋がるかも知れない、との突飛でもない期待です。
 それからずっと後に脊髄損傷に関する最低限の知識を持ったとき分かったのですが、この動きは脊損特有の単なる不随意運動だったのです。
 要するにフトンが『重いから、暑いから動かせ』との脳が命令して脊髄に伝え、それが筋肉を動かして一つの回路に繋がった意思の伴ったフィードバック運動ではなかったのです。これが医学の冷徹な事実で当時の私はこの程度の知識でした。その後リハビリを行う上で数多く経験する脊髄損傷特有の瞬間的に走る強い痙性、反射でした。

 私がこの時点でもう少し脊髄損傷の何たるかを勉強していたなら、リハビリで立たせ、歩かせる、といった途方も無い事は思いもよらないことであり、その意味でも私の無知が歩かせたとも言え『もし知識を得ていたなら』と思うと、人の一生にどの足を最初に踏み込み、方向を決めるかという決定的な分岐点にさし掛かっていたことの怖さをつくづく感じます。ここでも森さんの強運を垣間見るのです。           
 脳からの指令が脊髄を通り、しかもその脊髄そのものが脳の一部であり、指令と意思を運び、その動きに最適な筋肉の収縮と力の加減を調整するという全く当たり前なことにも驚嘆すべき複雑なメカニズムが働いていることを知りました。
 また、森さんのような最重度頚髄損傷者を訓練により立たせ、歩かせるまでの機能回復などはあり得る筈は無いと貧弱な知識を持ったとき、既に森さんは私の特訓で歩いていたのです。

 痛い時も、痒い時も悲しい努力で笑顔を作らなければならなかった人からは、心のケァの大切さを学び、ベッドの向かいの人からは『これはひょっとしたら』との明るい希望を与えられました。
 また、『森さん、手が動かなかったら心の手を振ってごらん』と励ましてくれたK先生はこうも言ったのです。『森さんに今一番必要なのは大きな声で唄うことです。恥ずかしがらず大きな声で唄ってごらん』
 私はそれを聞き、『瞬きしか出来ない人が唄ってどうして気分の転換に?』と思い、それどころか『何を呑気なことを…』と残酷な言葉を恨みました。
 しかし後日、リハビリをやり、この先生の言わんとしたことを思い知らされて恨んだことが申し訳なく、恥ずかしかったのです。
『腹圧を付けなさい』ということでした。
 当時は腹圧がないため、自分ではっきり喋っている積りでも殆んど聞き取ることが出来ない状態でした。退院後、私は真っ先に腹圧の強化訓練に入ったのです。
 先ず、胸式呼吸から腹式呼吸に重点をおき、言語は一語一語大きな声でゆっくり区切り発声させたのです。ここでも私の趣味のフルートの腹式呼吸法が役立ちました。リハビリのあらゆる原点はこの呼吸法から始まる、と確信したからです。

 一番顕著な回復振りを見せたのはこの言語の明瞭さで、これには皆、びっくりしていました。『森さん、今だから言うけど、あの時何を言っているのか殆んど分からなかった。事故で言葉まで奪われてしまったのかと思い、ショックで私は分かったふりをしてただ頷いていたんだょ』と多くの方が言ったのです。このほかにも多くの忘れる事が出来ない人達がいました。
 当然嫌な思いもありますが、皆さんからの温かい善意に感動し、これが厳しく辛いリハビリを乗り切る上でも大きな心の支えとなったのです。
 10人が10人、全く同じ事を私に聞きます。それも次の三つです。
『全く他人の右近さんが、どうして?』
『どこかで経験が?』
『在宅リハビリを持続するのに一番大切なことは?』
これは必ず聞かれます。
 ほんのちょっとしたきっかけで森さんのことが報道された時の新聞記者、そうしてこの報道がきっかけとなり、4回の講演でもこの質問は必ず出ましたし、その後数多く森さんのところに訪ねてきた同じ障害に悩む方々からも質問されました。

 最初の問いに対しては前に書いたように『それは感動です』と答えますがこれには皆さんが一様に怪訝な顔をします。
 まさかと思った立てた時。この時から私の心の中で『クルッ!』と軸が一回転したのを今でもはっきり覚えています。それは『どこまで機能が回復するのか?』との猛烈な興味です。
 そして応えが出て来る人間の生命力の力強さと、潜在的に備わった回復能力の凄さ、それを揺り動かす精神力に対する感動です。ですから人が言う使命感、責任感などでリハビリを行っているのではないのです。

 『どこかで経験が?』この質問に対して『一切ありません』と答えます。その通りだからです。
 仮に経験があったとしても、この脊髄損傷という百人百態の症状に対して通用するようなそんな生易しいものではない事を嫌というほど知らされました。私は色々な病院でリハビリを見てきましたが、ついぞ脊髄損傷による全身麻痺の人はいませんでした。リハビリ対象外ですからこれは当然です。
 それを抜きにしても『果たしてこれでよくなるのだろうか?』といつも思っていましたので自己流になっただけです。


■在宅リハビリ、その失敗 
 『家庭リハビリでは何が一番大切か』との質問に対して私には答えられません。
それは取りも直さず受ける者、施す者の熱意、これしかないからです。在宅リハビリは極端に言うと失敗か成功しかないからです。
 ある程度退院のメドが付き、在宅リハビリに移ると、失敗して再入院してくる多くの方を私は見てきました。当然ですが前より状態が悪くなってです。
 家庭リハビリでは、どんな事をしてでもベッドから離すことが大原則だからで、昼間は起き、夜は寝る、という当たり前な生活の基本リズムを身体に付けさせるためです。これを本人と家族が出来るかどうか。一番安易な道と困難な道を選ぶかどうかでこの後の全てが決まると私は思っています。
 ベッドがある、ということは例えて言うなら、苦しい食事制限で体重を落とそうとしている人の目の前に、その人の好物のご馳走ばかり並べているようなものです。部屋の間取りで無理というなら私ならカーテンで遮蔽してしまいます。

 森さんに訓練を行う時ベッドは当然降ろしませんし、椅子さえ全て折りたたみの物にして、目の前から片付けてしまいます。しかも合計4台ある車椅子の全ては、外出以外今迄使ったことがないのです。
 訓練を開始する時、最初は緩いカーブですが身体が慣れるに従い上昇し、徐々に精神が集中して昂まって行きます。ここから最高難度に移ろうとする時、その精神的な緊張と凝縮は臨界点にまで達します。そこへ不意の来客と電話。この集中力は瞬時にして崩れてリズムが乱れ、3人が共に再びやる気が無くなり、私は即、中止して帰ってしまいます。在宅リハビリではこの位、緊迫した精神の集中を要しますが、それが出来るかどうかです。

 在宅リハビリで失敗した恐ろしい例としてこのような方がいました。
 社長は全く何もないゼロと言っていい赤貧の暮らしから夫婦だけで私でも名前を知っている地方の大きな会社を築き、興しました。それだけに社長は非常な愛妻家でした。
 その奥さんが脳疾患を患い、最初は車椅子でようやくといった感じだったそうですが、半年以上にわたるリハビリの結果、車椅子から開放されてトイレに自分で行けるようになり、退院間近には肘ステッキで院内を歩いていました。
 社長は退院に備えて、家を全面的に改造し、設備を整えた上で専属のヘルパーさんを月30万で雇ったのです。いよいよ退院の前日、同室の皆さんに挨拶にきました。本当に溜め息の出る羨ましさでした。12月中旬のことです。

 ところが年が明け、松が取れて直ぐに再入院してきたのです。これは全く意外でした。しかも息を呑んだのは全く別人のようなその変わりようです。
 肌の色、目の力、感情のない表情。何より驚いたのは歩くことが出来ず車椅子で戻って来たのです。たった20日間で廃人そのものの姿に私は驚き、到底信じることは出来ませんでした。
 私は看護師さんを通してこの方がどのようなリハビリをやっていたか聞いたのです。それは時間の使い方の間違いと、命令リハビリでした。
 病院と違い、これからは好きなだけ自分で時間を使うことが出来ます。今迄規則正しい時間に慣れていた身体は一気に解放されました。身体は勿論、精神面からも拘束されなくなったのです。

 家に帰った安心感と立派な設備。しかも専門のヘルパーさん。疲れたら当然椅子に座り『ちょっと一服』と休むでしょうし、いつものテレビを見るでしょう。その都度中断します。これは集中力の中断であって身体の休憩とはわけが違います。
 次に再開した時は身体と集中力はバラバラです。全力を傾注しての30分の訓練のほうがよほど効果的であり、後ほど森さんを通して知りました。更に運の悪いことに、退院したのが12月中旬で暮れと正月は一切訓練をやっていなかったことが分かりました。
 また『ここをこう揉んで!こう腕を挙げて!』との指示はどうしても自分が痛くなく、辛くない要求になります。リハビリを受ける者が指示を出したらこれはもう本末転倒であり、更に便利な器具に手や足を預けっぱなしということも分かりました。
 
 『動け!』という一番大切な心の問題を便利な器具とヘルパーさんに任せっぱなしだったのです。これらの事はその後、私が実際に訓練をやってみて『これだ!』と直ぐ分かりました。この恐ろしい教訓が二ヶ月ごとのリハスケジュールに繋がったのです。疲れたら当然この訓練は明日に、と繰り越します。
 これがどれほど恐ろしいことになるか。在宅リハビリで失敗するのは大抵この繰り越した明日です。なぜ恐ろしいか。それは今までの規則正しい訓練時間が体内時計として身体に記憶されているからです。初めはほんの小さく狂ったリズムです。
しかし、その繰り返しが重なり、その後だんだん大きな振幅となってついに身体はリズムという波に順応しなくなってしまいます。この方は不幸にも時間の使い方を間違った典型的な例であり、この使い方の怖さというものを目の当たりにした実に貴重な、そして痛ましい体験でした。

 その後、引き受け手が無く、とうとう地方の病院へ引き取られて行きました。札幌でその会社の社名が入った車を見るとき、実に心が痛みます。


■約束を果たしに                 

 椅子に座り、両手はキチンとテーブルに乗せられています。
 私の『よし!』との合図で右手は静かに前に進み、同時に左手は引いていき、しかも足も同時に連携して動かすのです。この訓練は脊髄を損傷した者にとってはただでさえ神経が絡まり混乱します。頭では理解しているのですが、それをなかなか手足には伝えてくれません。
 左右の手の動きを逆にしながら、同時に足は開いたり、閉じたり、この全く異なった4通りの指令による複合連携動作であり、この複雑な指令は何より運動神経に刺激を与える為です。
 これは私の檄と命令だけでは神経は応えてくれません。何千回の積み重ねにより、一つ一つ神経に刺激を与えて、記憶回路に埋め込むしかないのです。しかし、これもついに出来ました。

 今迄の訓練はゆうに300種を超えていますが、これらは全て自分でやってみて『よし!これなら出来る!』というものを下ろしているのであり、当然こうなるまでには随分と無駄がありました。2ヶ月ビッシリやっても全く効果が表れないものや、8の字歩行、横開脚、肘上げ、腋上げなどで逆に腱を傷め、成績が何ヶ月も落ちたことは再三です。
 このように無駄に終わったその数たるや、まさに累々たる屍を積み重ねたようなもので400種は確実に超えていると思います。
 これは訓練を始めてから3年を過ぎてからのことでが、この貴重な体験からだんだん消去法を覚えて確率の高いものを効率的に取り入れるコツを覚えてきて、無駄な時間が無くなり、必然的に回復という回転率が高くなってきた事も確かなのです。                       

 やがて森さんはリハビリをやらなければ身体も気分もすぐれない状態になってきました。もうこうなれば本当にしめたもので、厳しい訓練に身体が馴染んできた何よりの証拠であり、逆に身体がリハビリを要求するようになり、私はこれを待っていたのです。
 この頃から私は『よし!これなら行ける。実行しよう!』決心しました。
 それは1993年9月1日、第二病院から札幌に転院するときに詰め所に寄り婦長さん初め看護師さんに『リハビリに頑張って何年後かに必ずこの詰め所まで挨拶にきます。…松葉杖で必ず来ますから』と断言したあの約束を果たすのです。
 私はその日を1996年6月6日と決めました。事故以来、丸4年が経過したその日を選んだのです。
 しかし、これは大変なことで、凄まじい特訓に耐え抜いて『動け!』という指令が神経に流れて4mを48分13秒で辿り着いたのは僅か1年前のこの6月なのです。


私と森さんの頭の中には第二病院の全ての地図が入っています。
玄関からエレベーターまでの距離。
2階に上がり脳外の手術室を通り越して長い廊下の突き当たりが詰め所。
そこを右に折れると病室。       
その詰め所に行くまで何回も何回もイメージトレーニングをしました。
行く時間は午後3時。
なぜならこの時間帯には、少し傾いた陽が窓を射して木立の影が長い廊下に市松模様のきれいな影をつくり、落ちるからです。

 ストレッチャーで天井ばかり見ていた森さんにその影を踏ませて歩かせてやりたかったからで、段だらのその影を一歩、一歩踏み越すごとに確実に歩いているという実感を味あわせてやりたかったのです。
 また『必ず詰め所まで』と断言した途方もない約束の距離が縮まり、目の前に迫ってくるのを励ますためでもありました。

□1996年6月6日の記録から書き起こしていきます。

 この日は4年前の事故の日と全く同じ晴天でしたが、風が暖かく絶好の日よりでした。
 玄関に着き、松葉杖を装着して、ことさら念入りにグリップを確認してから3人が共に『よし!』と気合を入れて太ももをパン!と叩き活を入れました。
 自動ドアが開き、院内に入った瞬間、私は目まいを覚える感動に打ち震えました。4年前、瀕死の状態のまま救急車で運び込まれた病院。
 その玄関口に松葉杖とはいえ確かな足を今、一歩踏み込んだからです。

 立って歩き、通り過ぎた森さんを見て、馴染みの売店のおばさんは信じられないものを見たように唖然としていました。2階に上がりいよいよ詰め所までの長い廊下を一歩一歩確かめながら歩いて行きます。私は一切の指示は出しません。なぜならここはリハビリルームではないからで、『なんとしても!』と強い意志とその命令で、前に出る足で身体を運ばせるために来たからです。
森さんは傷ついた脊髄を励まして足を運びます。
事前に連絡を受けていた婦長は詰め所前で息を殺して見ているのがはっきり分かります。
その婦長をしっかり見据え『シュッ!シュッ!』鋭い気合を身体に鞭打つ森さん。
駆け寄るのを懸命にこらえる婦長。
まさしくジリッ、ジリッと距離は縮まり、ついに詰め所まで辿り着きました。

 婦長は森さんの腕にすがり『…森さん…森さん…!』と言うばかりです。森さんは泪を溜め、全身で泣き『…何とかここまで』というのが精一杯です。
『あっ!森さんだ!森さんが来た』看護師さん達がバケツを持ったまま、ゴム手を付けたまま、シーツを胸に抱えまま、わっ!と駆け寄ってきます。


■懐かしい教室      

 『ほんとにここまで歩いてきたの?』『森さんならきっと立てると思った』『ずっと若くなって』『右近さんに相当いびられて』相変わらず明るく、優しく、みんなみんな好い人達ばかりでした。
 そして婦長は『さぁ ここに入って』と森さんを詰め所まで招き入れました。当然部外者立ち入り禁止の部屋です。私は『ハッ!』と胸を衝く感動に危うく慟哭しそうになり、強く唇を噛みました。
 『リハビリに頑張り、必ずこの詰め所まで挨拶に来ます。必ず来ますから…』当時の状態からしてそれはまさに荒唐無稽の夢物語です。
 何よりも脳外科病棟勤務のベテラン看護師さん達はその不可能なこと、いや、それを通り越した途方もない私の言葉の意味を知っていた筈です。
 『この詰め所まで必ず…』婦長は私の言ったその言葉の一言一句、全てを覚えていて、病院ではなく、廊下でもなく、今現実にいるこの詰め所そのものの部屋で森さんを迎え入れてくれたのです。

 命を救ってくれた病院で瞬きだけに陥り、絶望を宣告された最重篤患者だった人が、電動ではなく松葉杖で歩き、献身的にお世話になった看護師さん達に会う為に約束を果たすまでの4年間の月日というのは、当時の森さんの障害の度合いからして驚異的な回復振りと言えるかもしれません。
 しかし、これは年、という単位ではなく時間の単位でありその内容です。  
 どんな説明をもってしても言い表すことが出来ない厳しい訓練を一日6時間、その364日。そのまた4年という気の遠くなるような夥しい時間の中で、森さんの訓練をたまたま見た方の『寒気がし鬼気迫る』と言わしめたほど挑み続けた訓練漬けの努力の結果です。

 この日のために私達は何回も何回も『これでよし!』というまで訓練を重ねてきました。それはリハビリルームという恵まれた密室とは余りに違う悪条件の数々があったからです。
 先ず、ピカピカに磨き上げられたフロァタイルでの靴の歩き。胸外・脳外というこの病院の科目上、絶えず行き交うストレッチャーと車椅子とのほんのちょっとした接触。この滑りと僅かな接触だけでもバランスを崩して取り返しのつかない結果を生じます。
 また歩く時には自分の足を見てはいけないのです。これは徹底した厳しさで私は叩き込みました。視覚分野に移行してたちまち足がもつれるからです。リハビリルームでは4m先にナナの額縁の写真を置き、その一点にだけ目を据えて全神経を集中して身体のブレと蛇行を矯正してきたのです。その訓練も私か美子が目の前を横切り、ましてやガードするために前に立つと、たちまちバランスを崩し、身体は大きく傾きます。そのため、私達は森さんの視覚に入らないように常に斜め後ろからガードしなくてはなりません。

 自立歩行の際、誰かが不用意に話し掛けた時、それに答えただけでグラッと身体は沈みます。一番の刺激は突然鳴る電話のベル、それと物が落下した衝撃音です。これらは歩くという最も危険な動作に集中している全神経を微塵に砕き、平衡感覚を瞬時に失わせます。
 そして恐ろしいのは脊損特有の不意に襲ってくる痙性であり、突然の、むせと咳です。ですから常に鎮咳剤と飴、喉を潤す飲み物は欠かせません。
 1年前、僅か4mの距離を48分18秒で引き摺り歩いたばかりの森さんが、ついに約束を歩き通した努力の凄さに私は一言もありませんでした。

 こうして4年ぶりに私達は病室を見て廻りました。森さんは3回病室を変わっています。特に集中治療室から出、一般病室に移った時の部屋は長く、忘れられない色々な想い出があります。
高校時代の友人です。
 当時、拘禁症に陥り絶望にのたうっていました。しかしこの友人にだけは不思議なことに一言も愚痴も言わず心を乱すことはありませんでした。森さんも言いませんし、この友人も聞きません。
何も言わず、ただ手を胸に抱いて髪を撫でているだけです。何時来ても、何回来てもそれは変わる事はありません。拘禁症を抑えるため、ごく少量の睡眠剤が点滴に入っていますので何時の間に眠ってしまうのです。
 しかしその友人は森さんの顔をじっと見つめ手を胸に抱きかかえ、髪をいとおしげに何時までも何時までも撫でつけているのです。同室の方は全て意識がありません。
 
 シンとした夕暮れの病室の窓から、傾いた陽がカーテンの隙間から一筋の光となって漏れて逆光となり、友人の後ろ姿から見事な光の輪郭が滲み出ました。そのフレァーを見て私はどうしても病室に入ることは出来ません。侵し難い気品。凛とした敬虔。刺し貫く神々しさ。それはまさしく聖母の姿。なにものも拒む畏れを感じたからです。
 『…これでいいのだ。これでいいのだ』意味のない言葉を呟きながら、長い廊下を走り抜けたのを今でもはっきり覚えています。
 本来、この病院の前を通るだけで当時の悲惨さがよぎり、胸を締め付けられる思いがする筈です。しかし私達には違うのです。この病院は校舎であり、苦悩し、絶望に這いずり回っていた病室でさえ森さんにとっては懐かしい教室なのです。その思いが『必ず』と言った約束を果たすために4年をかけ、迫真の気迫で頑張り抜いてきたのです。
 
 それだけここの脳外科のスタッフは献身的な看護と思い遣りだったのです。私は看護師さん達がゆっくり廊下を歩いているのを見た事がありません。脳外という病棟でもあり皆小走りで慌ただしく立ち回り、それこそ息つく間のない忙しさです。
 しかし『散歩に出たい』というと直ぐ院内放送をかけてくれ、どんな場合でも5~6人が直ぐ駆けつけてきてくれました。瞬きだけになった森さんにせめて新鮮な空気を吸わせてやりたいという優しい心遣いです。

 丁度その頃、私が見たことの無い素晴らしい器材が使われました。それは今迄6人掛かりでやっていたベッドからの移動を、看護師さん一人で行うことが出来るベルトコンベアー式の最先端のストレッチャーです。
 森さんのために購入してくれたのかどうかは勿論私には分かりません。しかし私は婦長始め、看護師さんたちの心からの優しい贈り物だったと今でも思っているのです。その高価なストレッチャーのまま、私は連日外に連れ出していたのです。当然院外使用禁止でしかも森さん専用のようなものでした。

 森さんに対して規則はあって無いようなものであり、頭が痒いといえばいつでも洗ってくれましたし、どんなに忙しくても呼気感知コールで飛んできてくれたのです。しかも信じられないことに入院3ヶ月の間、ただの一度も病院食を食べたことがありません。それは私の妻が毎日献立を考えて運んでいたからです。更に一度も入院パジャマを着たことがなく、これも病院始まって以来だと看護師さんから言われました。
 看護師さんはもとより先生まで『おぉ 凄いもの食べて』と眉をひそめるどころか逆に羨ましがり、励ましてくれていました。動かない人だからこそこれらの看護師さん達はめまぐるしく動いてくれたのです。 
 お陰で心から笑うことが出来たのはこのような人達の実に温かい気配りがあったからであり、私はここに看護師さんとしての原点を見た思いがしたものです。

 私達は第二病院での3ヶ月間、本当にいい人達との出会いに恵まれました。地元ということもあって親しい友人が次々と見舞いに来ますし病室の同僚、そのご家族からも忘れることの出来ない深い感動を受けたのです。
 いま思えば森さんが立ち、歩く為のこれら方々が身を以って教えてくれた生きることへの厳しい教訓であり、何よりも崇高な人間の生の姿と思えてなりません。 
 いま、森さんは松葉杖でしっかり立ち、これらの人達がいた病室を万感の思いで見ています。それは私にとっても胸を締め付けられる切ない思いで蘇ってくるのです。


■天女                              

 その方はまだ60歳にはなっていなかったと思います。脳疾患で随分長い間、入退院を繰り返していたと聞きました。森さんが入院していた頃、意識はまばらで当然車椅子にも乗れませんでした。
 住まいは地方の方で、その為ご主人は毎朝早くに出てきて面会時間の間、車で寝て待っているのです。
 面会は勿論、真っ先です。その時間帯になると驚いたことに奥さんは必死に身体をずらして入り口ばかりをじっと見ています。『どうして分かるのだろう…』これには私は勿論、看護師さんも本当に不思議でした。

 ご主人は限られた時間の中で休む間もなく、それこそこま鼠のように目まぐるしく世話を焼きます。
 髪を梳き,歯を磨いて顔を洗いご飯を食べさせます。
 見事に体位変換をさせて揉んでやり『ほら、母さんの好きなメロンを冷やしてきたよ』『…母さん、きのうより今日はずっと元気だ』『きのうより今日の母さんはずっときれいだ!』と意識のない奥さんをこうして絶えず励まします。そして奥さんの手を握り、その耳元で童謡を唄って聞かせるのです。
『かぁらぁすー なぜなくのー からすはやーまーにー…』奥さんは瞬きもしないでじっと「聴いて」います。

 この6人部屋で意識のあるのは森さんだけであり、そこで聴く童謡は言葉で到底言い表すことの出来ない胸を衝く鬼気迫る切なさです。
帰る時、ご主人『またあしたな…またあしたな』と手を振って帰ります。そうすると奥さんの目からスーッと泪が流れます。いつもこうなのです。
 ある時『お父さん、よくやるねぇ。本当に感心する』と言ったところ『右近さん何言っているの! 私の命は母さん、母さんの命は私です!』と、キッと言い放った厳しさに気負わされて私は何も言うことが出来ませんでした。

 やがてもう余り長くないと知ったのでしょう。病院に無理を言い、2~3日の外泊許可をもらったのです。その帰ってきた奥さんを見て私は息を呑みました。精一杯おしゃれをしてきたのです。それは見事と言っていいちぐはぐなおしゃれでした。          
 恐らくは奥さんが若い頃着ていたであろうと思われる季節外れの赤いセーター。おまけに化粧までして髪を整えていました。
 所詮男のする化粧です。紅はズレ、眉毛は揃っていませんし、ファンデーションもまばらでした。しかし、奥さんは実にあどけない天女そのものだったのです。
 ご主人が来る時は身体を懸命にずらし、帰る時はすーっと泪を流す奥さん。『一体これは…』と深い感動にうなだれるばかりでした。
 耳元で頬ずりするように「七つの子」を唄うご主人に、奥さんは瞬きを止めて耳を澄まし、じっ!と聴いているようにしか思えません。私は奥さんの顔を覗き込み、その目を見ていました。
 『あぁ 奥さんはご主人の唄を聴き、子供にかえって今、思いっきり野山を駆け回っている…』と思ったのです。

 森さんが転院して間もなく、亡くなったと聞かされました。看護師さんは勿論、先生までが全員霊安室で泣いていたといいます。このようなことは初めてだったそうです。
私は人の人生をとやかく言える立場ではありません。
朝早く来て、面会時間まで車で寝て待っていたご主人。
『今日も元気だ!きのうの母さんよりずっと綺麗だ!』と本当に嬉しそうにめまぐるしく世話を焼いていたご主人。そこには義務感も、悲壮感も全く感じられません。
 今迄寝ていた赤ん坊を起こしてあやすように優しく嬉しく、心から楽しそうだったのです。きっとこのご主人は奥さんに『母さん…きれいにして上げる』と話しかけ、七つの子を聴かせながら不器用に化粧をしたに違いないのです。ですから余計悲しく泪が溢れます。
 そこには誰も入ることが出来ない凄まじいまでの夫婦の絆を感じ『…なんていい人生なのだ』と胸をえぐられます。

 その部屋の前迄歩いていき、森さんはじっと立っています。        
 4年前と同じ重篤な患者さんがいるのでしょうか、シンとしていますが私にはどうしても『かぁーらぁーすーなぜなくのー』と聞こえて来るのです。この部屋で森さんは友人に手を胸に、髪を撫でられながら眠っていたのです。
 私は少し後ろに立っていました。森さんは肩を小刻みに震わせ、泣いています。嗚咽を殺し、うなだれて泣いています。絶望に喘いでいたとき。しきりに自殺をせがんでいた時。このご主人と奥さんに励まされて生きることの尊さを教えられたのです。
毎日が感動でした。
 
 空のベッドを見て、私達はどっと崩れるような悲しみに襲われました。部屋の主とも言うべきあの奥さんは眉がずれ、口紅がはみ出たあどけない顔で、天女となっていなくなってしまったのです。
 万感の思いが一気に去来し、泪が溢れるのをこらえることは出来ません。看護師さんがその異様な雰囲気を察して廊下の角で止まっています。
『さぁ もういいだろう。行こう』と私の心に、森さんに促しました。       
 4年前『これでいい。これでいいのだ』と意味のないことを呟き、駈け抜けた廊下を『とうとう約束を果たした』と言い聞かせ教室を去りました。
 森さんはもう一度、廊下の角で立ち止まり振り返りました。『またあした、またあしたな…』と言うご主人の声が聞こえた気がすると言うのです。


■いい人生             

 絶望の余り自殺ばかりせがんでいた森さんが立って歩き、病院まで挨拶に行けるようになるまでに『生きよう、生きたい!』と懸命に闘った病室の同僚は残念ながら殆んど亡くなり、人の命の無常さを思い知らされます。この方もその一人です。
 奥さんはそれこそ江戸前風なシャキッ!とした人でした。ご主人は前に紹介したお父さんと同じく、実にかいがいしく世話を焼いていました。驚いたことに、奥さんのちょっとした眉のひそめ、身体の動かしかた一つで次に何をしてもらいたいかが分かるのです。
 私との会話の間にも、絶えずフトンの襟を直し、枕の位置をただし、それが実に自然で奥さんに対する労わりと、長い看護での心遣いが感じられ『心の温かい人なのだ…』と思っていたのです。       
 
 あるとき瞬きだけの森さんを見て『私、森さんが羨ましい…』とポツンと言ったのです。奥さんはゆっくりながらもトイレには行けるのです。そのトイレに行った時、ご主人が『うちの母さんは癌なのです。それも、もう余り長くない末期と言われているのです。そしてそのことを本人は知っています』こう言いました。
 私はご主人がポツリポツリ喋る断片を繋ぎ合わせて聞かなければなりません。それはトイレに立った時とか、検査で下りたときでなければ話をする機会がないからです。
 聞けば保険の利かない薬と治療で、この5年間殆んど財産をはたいてしまったといい、この薬、この治療を施し、投与すれば数年、長くて5年持つと言われていたからで、私がこのご夫婦を知り合ったのはこの5年を過ぎた頃であり、ご主人の言う余命がいくらもない時期だったのかも知れません。
 その為、ご主人は自分の食べるものまで節約して奥さんの治療と介護に全力を注いできたのです。それは自分で握るおにぎりです。奥さんは奥さんで何よりもご主人の身体と栄養を心配していました。
 『この人に何とか自分の手で料理を作り、栄養のあるものを食べさせたい』それが口癖でした。
 『お父さん、今日何を食べたの?』と聞きます。『今日?あそこの肉野菜は美味かったし、あの定食屋は味がいい』悲しい嘘を言います。そんなもの食べていないのは、私がお父さんの話を聞いて知っています。
 私はジッと下を向いていました。居たたまれなくなり、廊下に出たこともあります。 

 その後、森さんは退院し、自宅で猛烈な階段昇降特訓に取り組み、ついに上がり下りが出来るまでになりました。あるとき、いつものように階段の昇降訓練をやっていたとき、そのご主人が偶然通りがかりに見つけてびっくりして入ってきました。
 その顔には『これが本当に現実か?』と呆然として信じられない驚愕の様子がはっきり浮かんでいました。
『森さんは今ごろどうしているだろう。きっと瞬きのまま寝たきりだろう』
『恐らくどこかの施設に引き取られたに違いない』といつも気になっていたと言い、それを聞くのも怖かったと言います。
 『うちの母さんは森さんが退院して間もなく亡くなった。森さん!うちの母さんの分まで頑張って長生きしてくれ!』と泪を溜め励ましてくれます。
 『正直、小さな家が一軒買える位のお金が掛かった。しかし私は何の悔いも無いし、今思っても母さんにあれもしてやればよかった、これができなかったのが残念だ、と思ったことは一度も無いのです。出来るだけの事はした積りで、本当にあれで良かったと思っているのです。』
 亡くなった時、ベッドの廻りを整理していたら、ハンドバックにキチンと折りたたまれた紙に、句に託した次の言葉が書かれてあったと言います。

『ささやかな 幸せ奪う 癌憎くし』

『介護する 夫に隠れ 涙する』

『介護する 夫の背中に手を合わせ』

 そのことがあって2年近く経ち、新聞にこのご主人ことが大きく報道されていました。奥さんを無くした寂しさから、生まれて初めて絵筆を取り、小樽の運河をこつこつ描き続け、それが認められて個展を開くまでになった報道です。それにはこう紹介されてありました。

 『私はあるとき、運河を散歩していたら、そこで絵を描いている人に会いました。それを見て、自分も描けたらなぁと思い、生まれて初めて筆をとったのです。その頃は妻を病気で亡くした寂しさでいっぱいでした』
それに続いて語られていた言葉は
『絵が出来た時、私は真っ先に妻の仏前に持っていって見せ、母さん、今度はこんな絵を描いたよと報告するのです』『…ですからこの個展は妻が開いてくれたのです』
 私はここでもいい人生を見て、ほのぼの感動しました。


■出会いと絆           

 森さんが回復不能と分かったとき、その噂は瞬く間に友人の間に広がり,人間関係もまた、森さんの思いも寄らない方向にずれていきました。
 『この人なら』と信じていた人が次々と離れて行ったのです。それは関わり合いを恐れたからです。
 何をやるにしても、どんな小さな事でも全て頼まなくてはならない身体になったからでした。それだけならまだしも、この絶好の機会に健康器具の押し売り、マルチ商法にはまった友人の言葉巧みの売り込み、法外な祈祷とお金の無心です。私はこれらの友人の雑音を容赦なく『二度と来るな!』と厳しく撥ねつけました。
 その森さんが立ち上がり、歩くのが人伝に知れた事がきっかけとなり、後日講演を頼まれて新聞に大きく報道された時、そのような友達からの電話は『…あの時、あなたには一番いいと思って…』『とても辛くて見ていられなかった』『顔を見ると泣けて来そうで』と大体似たようなものです。

 人がどん底まで落ちた時、そのとき相手の心に潜むヒダを覗き見たような気がして深く考えさせられます。
しかし、これは無理のないことかも知れません。勿論、森さんもこのことに関しては一言も恨みがましい愚痴などは言うはずはありません。
 天気の良い日は外での歩行訓練をします。遠くからかっての友人が来ますが森さんを見ると、さっ!と脇道に逸れるのです。
『一体、傷ついたのはどちらなのだろう…』と考えさせられます。

 実質的な運動機能の回復という他力によるリハビリは私とアシスの美子がやってきました。
 しかしもっと大切なこの厳しい訓練を私と美子に続けさせる為に、本人の、より動くことに対する飽くなき執念、人間の尊厳を追い求めて可能性の限界まで迫ってくるその気迫が全てと私は思っています。
 まなじりを決して激しい気迫だけで歩ける筈もありません。精神を集中しても当然動きませんし、私の檄と鞭で手が上がるわけはないのです。この表裏の力関係、そのバランスが丁度噛みあったところで最大の効果を発揮すると私は思うときがあります。
 その一番大切な挑戦する気迫と努力を支えたのは何か。
 それは実に多くの人達の励ましと温かい善意、両親の心の支え、これらがあったからです。

 私達は命を助けてくれた島田先生に全幅の信頼を寄せています。
 退院してからの健康管理と精神面においてはまさしく臨戦体制であり、それは真夜中、早朝、元旦でさえも例外ではありません。
 脊損特有の自律神経をコントロールできないため、急な発熱、悪心、吐き気、倦怠など、どんなに急がしくても最優先で往診してくれます。
 その島田先生がある時『私は森さんが第二病院から退院するとき引き取ろうと思ったのです。そして電動車椅子に座らせる訓練に全力を挙げたでしょう。その結果、座ることが出来た時点でリハビリは成功したと判断して退院させたと思います』
 『しかし、まさか歩けるとは思ってもみなかったことで、私は引き取らなくて良かったと思っているのです。もし引き取っていたら私は恥ずかしくてこうして往診には来ることは出来なかったでしょう』

 電動に座らせた時点でリハビリは成功、と判断して退院させた森さんがまさか専門医から見て不可能と思われる歩きに挑戦してそれを成し遂げたことに対する先生の驚きの本音を聞き、私達は何も言うことが出来ませんでした。
 その島田先生から私は実に多くの医学知識、また医者としての心構えと人間性を学び、貪欲に吸収しました。
往診に来る時、時間が忘れるほど話し込み、『患者さんが待っています』と病院から催促の電話がくるのが常なのです。
 そして第二病院の脳外科のスタッフの方々。このことに関しては何回紹介しても書ききれないほどの献身的な対応振りでした。執刀主任は村井先生と言います。この先生は回診時間外でも必ず一回は診てくれました。消灯時間になり同室の方は皆寝静まっています。しかし、森さんは激しい懊悩で寝ることは出来ません。
 脳外科医の宿命といいますか、相当長時間に亘る手術が終わった夜、どんなに遅くなっても手術着のまま、必ず診て励ましてくれたのです。これは3ヶ月の入院期間中、ただの一度も変りませんでした。

 森さんに外の空気を吸わせるため、ストレッチャーに乗せます。     
『いいなぁー、散歩でしょう』『暖かいよ、後から行くから先に行ってきてね』『アイスクリーム持ってく』
廊下ですれ違う看護師さん達が次々声を掛けてくれます。
 この実にさりげない心からの優しい労わりにどれほど助けられたことでしょう。これらの温かい思い遣りが、その後の激しく厳しいリハビリを乗り切る上での強い心の支えになったのです。
 ここにも出会いを信頼関係の絆にまで結びつける森さんの不思議さがあります。

 4年振りに約束を果たしに病院に行った時、当然村井先生にも見てもらいました。『おーっ!森さん、立ってる…』と驚き、太ももをパンパンと叩き『うん!硬い、硬い』と感心していました。
 余計な説明をしなくてもその筋肉の硬い盛り上がりを触っただけで一切の事情を瞬時に理解した脳外科医の目です。
 挨拶を済ませて歩こうとしたとき『えーっ! 歩けるの?足が前に出るの?ほんとに?』森さんは『先生、ですから私は歩いて挨拶に来たとさっき言ったじぁないですか』今度は目を丸くして驚愕し、帰る後姿をじっと見ていたのです。
 脳外科医として経験豊富な村井先生にしても、当時の森さんの障害からみて、臨床的にとても信じることは出来ないことはその驚きの表情から分かりました。
 
 ここまでやり遂げた森さんを見て多くの人はこう言います。
『凄い精神力』『不屈の意思の持ち主』『諦めることなく果敢に挑戦し続ける強靭な性格』等など。
全くそんなことはありません。ごくごく気のいい寂しがり屋のおっとりとした性格です。
 美子がある時『今迄喋っていたのに右近さんが来る10時近くになると段々無口になり、顔付きまで強張ってくるのが分かる』と言った事があります。毎日化粧をしているから当然です。
 それを聞き、表情まで変わる位の凄まじい訓練を課す私は、なんともいえない痛々しさと共に寂しさと酷さを感ずる一方『…こうでもしなかったら動くことはなかった』と自分に言い聞かせます。
事実、これしかなかったのです。
 部屋を改造する際、『無理とは分かっています。しかしこれだけは何とか』と決して譲らなかったリハビリルームの両親の写真と仏壇。
 これが立つため、歩くために私が強いる過酷とも言うべき特訓に耐えぬいた支えということが分かりました。
それは私の想像をはるかに越えた強く、深い親子の絆であったという驚き。
 それを知ってから私は遺影に目礼してから訓練を始めているのです。


■旗まで48歩                                                        

 私が森さんの所に行くのは午前10時30分ちょうどです。
 その1時間前、美子は化粧を済ませ服装を整えて歩行訓練に備えるためオイルダンパーペダルでの足踏みを連続500回やり、腰・膝下・腕・肩甲骨を緩めておきます。これをしなければ直ぐには立って歩けないからです。
 車でいうアイドリングであり、歩くために最も大切な基礎ウォーミングアップ訓練で、これだけは欠かすことは出来ません。これにより、私が行くこの時間になると身体と気持の上でも『よし!』と気合が入っているのです。
 当然仕事の関係上、私が行けない事はたびたびありますが、その時は当日の日程表に従って美子が完璧にやってくれます。
しかし、問題はその成績でした。

 全く同じ事をやっているのにストンと落ちます。『これは一体どういう事だ?』と頭を抱えてしまいました。美子が手を抜き、森さん自身がホッとしているわけではありません。
 4mのマーカーライン上を最初は松葉、次に2本ステッキ、1本を経て最後に自立歩行。この4パターンのトライアスロン方式による100m歩行です。
 私にはそのタイムを見ただけで歩きの全てが手にとるように見えるのです。ターンをする時、足だけで腰が入っていない、とか、ステッキの繰り出しは腕だけでやっている、肩甲骨を使っていない、あるいは膝の折り方とその角度など全てが分かります。
 何せ100分の1秒のストップウオッチ計測ですのでこれだけで一目瞭然です。
 私がいる、いないかによっての成績のばらつきは、やはり指令と檄、そして何より緊張度の違いなのです。
 こうしてそのタイムの一ヶ月の平均値を割り出します。一ヶ月もタイムが同じなら、これは今までの機能を維持しただけのウォーミングアップリハだけで終わり、亢進もしなければ落ちもしなかったとみて、更に訓練方法を変えるのです。
 この記録が更新されて始めて、より回復したと確認でき、それは常に秒単位でした。その位、脊髄損傷者への訓練は精神を集中するかどうかで確実に成績がグラフと数値に表れてきます。

 4年ぶりに第二病院の約束を果たして、室内からいよいよ外歩きの実践訓練に移りましたがそれは森さんに是非やって貰いたい事があったからです。そしてとうとう実行したのです。
 森さんの先代の時からの取引先の人でこのような方がいました。札幌に住まいしているある大きな会社の責任ある立場にいた人です。
 森さんより2~3歳年上の人で、その方が脳疾患の為にいわゆる片麻痺となり、右足は引き摺り、手は曲がり、言語は多少聞き取りにくいといった後遺症でした。
 その方は直ぐ会社を辞め、以来人との付き合いを一切避けて早朝とか夕方には奥さんに人目のないのを確認させてから黙々と歩いているということを人伝に聞いていました。私はその方の自宅に森さんを連れて行くことにしたのです。当然森さんが事故のため回復不能ということは知っています。

 靴を履いての歩行では歩くというより杖にしがみつき、バランスを取るだけで精一杯です。私はここでも一切手を貸すことはしません。僅か3mばかりの玄関まで長い時間を掛けてようやく辿り着きました。それも満面に笑みを浮かべてです。
 その一部始終を見ていたその方の表情を私は今でも忘れる事は出来ません。
呆然自失となり、苦しげな表情がよぎり、やがてなんともいえない嫌悪で顔の歪みがサッ!と走ったからです。
 それは人との付き合いを自ら閉ざして卑屈になった自分の生き方に対する恥じらいと嫌悪でした。
 森さんは『…私に比べたら、貴方はほんのカスリ傷でもないのに…』

 このことから1年余り過ぎた時、なんと札幌から車を運転して挨拶にきたのです。あのときの森さんを見て激しい衝撃を受け『なんとしても頑張る』と夫婦で話し合ったと言います。
 私は森さんの生き方がこんなにも人の心を奮い立たせ、その結果、障害を克服するバネになるとは思ってもみなかったのです。
 しかし、その後、森さんの懸命に生きる姿勢が何時の間にか広がり、婦人大学講座・婦人大会での講演。また、数度の新聞報道により、密室でのリハビリが一気に公になった時から、私達は大きな奔流に巻き込まれてしまったのです。

それは翻弄と言う表現そのものでした。
これをきっかけとして北海道小樽の一地方都市に住む森 照子というごくごく平凡な一女性がインターネットと全国紙で紹介され、重度脊髄損傷者から『生きる希望を与えられ人生を諦めないでよかった』との励ましを与え続ける立場となったのです。

 やがて国内・国外からも実に多くの最重度脊髄損傷者が小樽に尋ねて来て、森さんを見て衝撃を受けて精神的に立ち上がり、在宅で猛烈な訓練に取り組み、ベッドから抜け出し、椅座位を成し遂げ、ついには立ち上がり、歩きにまで挑戦する方々が次々と現れようとはこの当時、私達にとっては全く想像すらしなかったことでした。しかもこの方達もまさしく森さんの機能回復そのままの経過を辿って来るのです。
その意味で、この実践はほんの序章だったのです。

 『リハビリをやって一番の難しさは何か?』と必ず聞かれます。
より高度な、難易度の高い目標を設定してそれに挑ませる、というのは確かに難しい要因でした。
 一つの目標を達成させるために、私は只その一点のみに二ヶ月という期限を切って訓練を続け、森さんはその期間内に見事に成し遂げてきました。それは高く・早く・力強くという私の設定した目標というハードルをクリアしてきたのです。
 しかし本当の難しさとは直線的な筋肉の「動き」から、「私はこれをしなければいけない」という明確な意思の伴った「動作」にしなければならないということでした。例えば右手で物を掴み、手首を回転させ胸元に引き寄せて、それを左手で持ち替えて腕を伸ばして同じところに置く、といったより高度な考えた複合動作です。
 この実生活に結びつける動きを取り戻すという今までとは全く違った訓練にこの頃から入ったのです。

 二ヶ月ごとに達成した単一な動きを一つ一つ繋げて、始めて人間としての動作にし、ADLと併せQOLの向上を図らなければならないという難しさに直面したのです。
 これも二ヶ月を一区切りとして旗を立てて、それを見ながら奮い立たせ進んできましたが、これは実に困難を極める訓練となったのです。
 固いロボットのような動きを見るとき、改めて頸髄という手足の動きを伝える基幹神経を損傷した恐ろしさをまざまざと知らされます。

 一つの動きを取り戻すため私達は一日6時間、二ヶ月を全力で費やします。その目標が達成されたとき、私はこれで一歩進んだと確認します。二ヶ月で一歩という事は当然1年で6歩進んだことになり、8年で何時の間にか48歩進んできました。
 逆にいいますと、瞬きから立たせて歩かせようと私が立てた旗は48歩先の距離に立てたのであり、森さんはそれを8年掛けて懸命に辿り着いたともいえます。
 この際限の無い訓練をどこで区切りをつけるのか。その線引きを私ははっきり持っています。
それはある程度自分で訓練(自主トレ)できるようになるその日です。
 これが出来たときこそ、森さんは私の要求する類の無い厳しい訓練から解放される日であり、私の役目もまた果たし終える日です。

こうして私は今までに無い一番大きな旗を立てました。
しかし私にはその旗が遠く微かにひるがえるのを見る事ができます。


■額縁の写真                                                      

 足は勿論、最も絶望視された手さえにも微かに神経は繋がりました。その歩行姿勢と滑らかさ、加えて力強い寝返りと床運動を見た友人達は勿論、整形・脳外・PT・OTの専門家すら驚嘆します。
 自律神経も回復して、僅かな温度差は肌が直ぐ教えてくれるようになりました。
 四季の移ろいを暦、街の風景の移り変わり、あるいは着ている服装からでしか判断できなかったのが、風の冷たさと陽の暖かさを自分の肌を通してはっきり確認できるほど外的感覚はほぼ戻り、健常者と殆んど変りありません。

 最大の苦痛であった人間の尊厳ともいうべき排泄の問題も乗り越え、今では肩まで手が挙がり、電話はハンドフリーながらボタンを押すことも出来るようになり、時間を掛けて文字を書くことも出来ます。
 しかし、私の求める手の動きとは、肘から下をしなやかにさせた自由な屈伸と手首の回転、そして意思の伴った指先の動きであり、これができて初めて森さんは自主トレーニングが出来ることになります。
 これは取りも直さず『限りなく健常者になれ!』という途方も無い要求であり、これからの残された人生の中で、一回でも手を大きく振り、バランスを取って歩かせてやりたいという壮大な目標という夢でもあります。
 この手の動きはまだまだで、ようやく長い時間を掛けてページをめくれる程度まで回復した2000年12月の段階です。

 森さんにはどこで診てもらっても絶対不可能という言葉が常に付きまといました。それが倒れてから1年5ヵ月後、ほんの微かな神経の繋がりを確認できて、ここで一旦傷ついた中枢神経の再生、修復はあり得無いと言われていた「絶対」という文字が取れたのです。更に3年を過ぎた1109日目。神経の繋がった足はついに脳の命令により一歩前に出ました。
 神経が再生したから動いたのか。絶えざる運動の刺激によって神経が目覚めたのか。あるいは代替神経ともいうべきバイパス回路が機能したのか。この相関関係と神経学的、臨床学的なことは私にはどうでも好いのです。
 島田先生は年に一回,森さんを精密検査します。やはり手の神経は首の付け根、肩の辺りで切れていると言われました。
それが動いているのです。
ではどうして、ということに関しては現在のCT・MRIでは細かい神経分布は解明出来ないでしょう。推測の域を出ない難解の事は別として動いているというこの現実。
 これだけは神経が繋がって信号が流れたという紛れも無い事実だからです。ここで「不」取れて、後は可能を残すのみとなり、それをどこまで追求するかというところがこれからの大きな課題となりました。

 第二病院での感動の再会を4年ぶりに果たしたその後の森さんは、私の狙い通りに計り知れない気力の充実に繋がり、大きな自信を持ちました。その覇気を見て、今度は再会を終えた17日後の6月23日『仏前の両親に回復振りを報告させる』と言い、お寺に行かせる事にしたのです。     
この日は父の命日です。これは第二病院のときよりはるかに困難なことでした。
 先ず、玄関までの急な階段と広い本堂と納骨堂までの曲がりくねった廊下。それを直線距離に直すと第二病院の比ではありません。しかもクッションフロァーと板敷き、そして最大の難所である畳。
この条件の全く違う3箇所を通らなければなりません。
 そのうち畳は最大の関所です。それは杖と足の沈みに加えて支点という踏ん張りが利かないからです。更にストッキングでの畳は非常に滑りやすく、その縁につまずいたらたちまちバランスを崩し、危険この上もありません。
 階段は二人掛かりで押し上げていよいよ広い畳敷きの本堂に入りました。静まりきった本堂には境内の雀の囀りが奇妙に大きく耳についていたのを今でもはっきり覚えています。
ここでも私は一切の指示を出さず全くの無言です。

 4年前の事故当時『…早く両親のもとに』と声にならない呻き声で毎日せがまれていたことを思い出し、それが今、見事に立ち上がり、こうして両親に報告するまでになったとは…。
この言い知れぬ感慨に胸が濡れます。
 その本堂を何とか通り抜けて納骨堂の入り口に足を一歩踏み入れたその途端、突然身体が大きく『グラッ!』と傾き膝が崩れ落ちました。瞬時に飛びつき間一髪事なきを得ましたが、これは今の森さんにとって考えられないことです。
 それは連日の厳しい特訓によってあれほど恐ろしかった突然襲ってくる激しい痙性が今では殆んど見られなくなってきたからです。そしてなぜそうなったか私には分かります。

 それは只一点にのみ神経を集中して、最も危険な畳敷きの本堂を通り抜けた安心から『もう直ぐ両親に報告できる!』という激しい焦りと心の揺れです。その強い思慕が『早く!もう直ぐ!』と足をもつれさせたのです。
 これがリハルームならたちまち私の厳しい叱責と鞭が飛びます。しかしその気持が分かっているだけに私は何も言えません。
 『何としても!』と目を一点に据えて歯を食いしばり、腹の底から『シュツ!シュツ!』と絞り出して腹圧を入れ、身体を運ぶその様は身震いするほどの迫力と怖れに気負わされ、締め付けられるほどの緊迫感に息を呑みます。
感動などの言葉は軽薄すら感ずる凄さの一言です。

ストッキングは破れて指の全ては剥き出しになり、血が滲んでいます。
そしてとうとう辿り着きました。

森さん一人で報告させるために私と美子はずっと後ろに下がっていました。
合掌の出来ない森さんは松葉杖に身を持たせ、凝然と佇み深く頭を下げています。
その背中と肩が小刻みに震えてすすり泣きが漏れてきました。

『…父さんも母さんも、そして私もどういうわけか白い花が好きなんです』
それはトルコ桔梗でした。
流れ落ちる涙をぬぐうことが出来ず、頬から滴る敷物の染みを見て美子は顔を覆い、私は固く目を閉じていました。

『ようやく会えた』との心の張りが無くなったのでしょう。帰りの足は更に重く、畳を引き摺り遅々としたものでした。そして私はここでも大きな感動に打ち震えたのです。
 それは暗い本堂の片隅に住職と奥さんがつくねんと座り、目頭を押さえ、森さんの後ろ姿に合掌して深く身体を折り曲げ、頭を垂れている姿を見たからです。

私はこの8年間いつも言っています。
それは苦しくて辛い訓練に挑んでいるとき、『自分の中にもう一人の応援団をつくれ!』と言ってきました。
 懸命に足を運ぶ時『よし!立てる。歩ける!』と身体を包み込み、押し上げて励ましてくれるもう一人の自分です。訓練が終わり椅子で休む時、この二人が一緒になってこんなに応援してくれたもう一人の自分と、その励ましに応えて歩き通した自分をいとおしく思い、労ってやれといつも言っているのです。

心の中でその頑張りをじっと見て励ましてくれるもう一人の自分。
その励ましでこんなにも頑張れるという驚きと自信。
それを誉めてやれと言っています。
重脊訓練とは詰まるところ、自分が自分を叱咤激励して気合を入れることだと森さんを見てつくづく思い知らされます。
『この8年間、厳しく辛い訓練の最中、頑張れ!がんばれ!と懸命に声援をおくっているのは誰?』と聞いたところ『それは父さん、母さんの額縁の写真です』と即座に答えたのです。

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