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【終 章】           ついに両手を包み込み


1999年6月で事故以来7年目に入りました。
リハビリに明け暮れたと言っても過言ではない毎日であり、毎年確実にやってくる6月6日という日になって過去を振り返るとき、初めてその年月の長さを感じ、物差しで計る事が出来ます。
 ここまでやってもピクリとも動いてくれない手足に『やはり脊髄に一旦傷を受けたら動く事は無いというのは本当なんだ』『脊髄の再生は有り得るというのは学問上での事だったのだ』と何度思った事でしょう。

 当時のメモには苛立った字でこう書かれています。
『もうお互いほとほと疲れ果てた』『今月もまた駄目だった』『何時言い出そう。そのタイミングが難しい』
 このような気持で私が訓練をやっているのを当然森さんは気付かない筈は無く『とうとう駄目だった。諦めてくれ』といつ言われるか毎日毎日恐怖に駆られて奈落の崖淵まで追い詰められていたのです。

 目の前に屹立して拒み続ける頸髄損傷という余りに険しい壁に阻まれて、とうとうとねじ伏せられたある日、こう言った事があります。
『もういいだろう?何とか座れるまでは出来た。ご苦労さん…もういいだろう?』
森さんは何も言わず目に涙を溜めてじっと俯いていました。

 また、ある日『ついに負けた!』と手を荒々しくテーブルに投げつけた時、打ちのめされ、ひっくり返ったまま、神経の繋がった指はゆっくり動き、それはあたかも深く頭を下げ、悲痛な哀願をしているようでした。
 息詰まる無惨な沈黙の中で森さんは『…とうとう見捨てられた』と涙を溜めていつまでもその指を見ていたのです。

 この二つは私の胸の奥深くからの疼きとして今でも癒える事は決してありません。板に乗せた足が命令という意志で滑り落ちたあの時。ついに手が紙一枚の薄さに上がったあの瞬間。それはギリギリに追い詰められた恐怖が動かしたものと思い、鋭い痛みが胸を走ります。
 私達3人が7年がかりでやってきた訓練は、乾ききり、ひび割れ干からびた土の中から芽吹きをさせるようなものです。一滴の雨も降らず周りに水の無い中、芽吹きをさせるとの異常と狂気、そして愚の一念です。
それは干からび、しなびたほんの小さな種です。

 照りつける強い太陽の陽射しを、さながら手で遮り影で覆うようなものでした。余りの空しさ、無意味さに『…とうとう駄目だった。お前は一位何をしている!』と自分に呆れて目標を見失い、その異常さに気付き何度諦めた事でしょう。
 専門家に『死んだ』と宣告された身体を歩かせるという傍から見ると馬鹿げた素人の発想と思い上がり。しかしその愚の飽くなき積み重ねがとうとう干からびた大地からついに芽吹きを見たのです。


 毎年の新年の2日。私はこの1年に達成しなければならない大きな目標という旗を掲げてそれに全力を注ぎます。そして今迄必ず到達してきました。
 例えば、松葉杖で歩けるようになった時『今年一杯で自立歩行をさせる』と言います。今迄松葉杖で歩いていたのが1年後自立歩行をしているのを見た友人達は、余りの著しい回復振りに驚嘆して舌を巻きます。
 しかし、これは月日の単位ではありません。時間です。私達が行っている訓練は全て3人が頸髄損傷になりきり、それ一点に掛ける時間と全魂をひたむきに傾ける集中力、この二つがあって初めて可能なのです。

 一日6時間の1年。これを病院の1時間リハビリで換算すると何と6年掛かる計算になります。大抵の病院の30分リハでは…。気が遠くなります。
 今迄数多くの人達から森さんの努力に対して感嘆と賞賛の言葉が寄せられました。一方、訓練を施す私にも『揺るぎの無い決意』『その熱意と探究心』『腰を据えて一つ一つを積み重ねて行く構築性』『訓練内容の独創性』などのお褒めの言葉も頂いてきました。

 しかし、これはとんでもない過大評価の一人歩きであり面映さを通り越して、私自身恥ずかしくなります。
森さんは何度も言うように勝気な性格でもなければ信念の人でもありません。大らかでおっとりとしたごくごく気の好い寂しがり屋のお人好しです。一方、私は短気であり、飽き性で持続性に欠け、何より自分の性格の嫌な所は熱し易く冷め易いその典型そのものです。
 これは脊髄損傷という実に複雑なリハビリに取り組むに当たり、施す者、受ける者、双方にとってこれこそ最悪の組み合わせなのです。

 しかし、私はこれが絶妙な効果を発揮したと思っています。
 私は飽き性の自分の性格を知っているから二ヶ月を限度とした期限を切り、短気だからこそ一気に集中する精神の瞬発力を要求して激しく挑ませました。
 一方、森さんはおっとりとした性格だからこそ、私の組み立てた複雑多岐にわたる訓練項目に対して何の疑いもなく受け容れる広い度量を持っていました。只の一度も不平や疑いを口にしませんでした。
 もし私に唯一の取り得があるとしたら、訓練項目を創り出して組み立てる時『どこまで回復するんだろう?』との生き生きした心の弾みと躍動する興味。これだけです。

 子供の頃、部屋中を昆虫だらけにして、飽きもせずその動きを見続けていたとき。大人になってはるかな宇宙にのめりこんだ自分をそこに見るのです。顕微鏡で見る興味と望遠鏡の夢とも言いましょうか。
 不思議なもので、この相反する組み合わせと、アシスである塚本美子の実に優しい気配りが絶妙に絡み合い、神経を揺り起こし、筋肉に伝えて身体を動かしたのかも知れません。
 歯車の一片たりとも欠ける事無く噛みあったのは、7年間に亘って森さんを支え続けた多くの人達の善意であり、それを引き寄せたのは言う迄もなく森さんの生まれながらに備わった人間性そのものです。


■『絶対諦めるな!諦めた時、それこそ何もかも終わりだ!』 

 Cレベル2~5。OPLLでの頸髄横断。頸椎2~7番迄取り外された後ろ側の首。1年間に及ぶ瞬きと自発呼吸。まだあります。数多くの脊損を扱った先生すら『…これじぁ…いくらなんでも』と絶句した最重篤障害。それも訪ねた病院全て。

 7年の月日が掛かったとはいえ現実に歩く森さんを見て『一体何だったのか…。障害程度が思ったより軽かったのかも』と突飛もない事をふと思う時があります。
私のレポートを読んだ我が国でも高名な整形の先生はこう言ったそうです。
『もしこれが本当であれば島田先生は当然学会で発表する筈です。それが無いのはおかしい』
 島田先生は『当然です。私が手術して私のスタッフが歩かせたというならデーターを揃えて発表するでしょう。しかしそれをやったのは貴方達です』

 前に書きましたが森さんが札幌で入院していた頃、アメリカから最新の情報と体験のもとに整外のK先生は『森さん。絶対諦めるな!諦めた時、それこそ終わりだ!神経の再生は可能だ。絶対諦めるな!』こうして入院中励まし続けてくれたのです。何より必ず言う『残存機能の活用』は只の一度も言いませんでした。
この一言が歩かせたとも言えるそれ程重要な意味を持った言葉でした。
 私は森さんの見事といっていい全く動かない身体を訓練によって立たせ、歩かせようと決心したのではありません。いくら何でもその位の最低の常識は持っていました。

 K先生の『森さんに今出来る事は大きな声で歌うことです。恥ずかしがらずやってご覧なさい』これは前に書いた腹圧をつけなさいという事だったのですが、私が真っ先に行ったのはこの腹圧強化訓練でした。
これは一台のベッドで誰でも出来る簡単な訓練です。
 やがて見事といっていいほどの明瞭な言語と肌の艶、そして身体のむくみが取れました。そして起立性低血圧の克服と立ちへの特訓。これも電動ベッドを最大限活用したのです。

 このように今直ぐ出来る事から取り組み、その一つ一つが7年の間に積み重なり歩けるようになっただけです。僅かに機能する手足を持った方、そしてまだ若い人。それは私に言わせると計り知れない可能性を秘めているのです。
ほんの微かに動く足。僅かに曲がる指。
 『この程度じゃ動いたうちにはいらない』と思うか『よし!ここから繋げてやる!』と決心するか。その諦めと決心。これは数年後実に大きな、まさにその後の人生まで決定付ける差となります。
森さんはこのほんの微かさえなく、しかも訓練を始めたのは55歳を過ぎてからでした。

 森さんが退院した時点で僅かに動く手か足を持っていたら私は狂喜したでしょう。5mmか1cmかなど私には全く問題外です。動くという事は神経が繋がっている、あるいは生き残っている何よりの証拠であり、その生きている脊髄に狂喜します。『よく生き残ってくれた!』と感動し涙します。
 そして集中、徹底した攻めで更に神経を褒めてやり、励ましてやります。更に点と点を繋げて動作になるよう神経に考えさせます。

 しかし、現実は搬送直後にCT・MRI等のフィルム所見だけで『動く事はありません』と100%と言っていい位、断を下されます。リハビリを行う以前からです。仮に、我が子、兄弟が脊髄損傷となったとき、まるで風邪でも診断するごとく、この宣告をするのかどうか。
 その結果残存機能の活用訓練に入り、プッシュアップ(お尻上げ)トランスファー(移乗)バランス保持、電動レバーの操作だけで終るのが先ず間違いないというのが我が国の現状です。

 これだけ常識外の特訓をやってもなお、森さんが動きを取り戻すのに7年も掛かったのです。それは当然私が素人のせいでもあり、到達するまで時間が掛かっただけです。
 島田先生はようやく松葉杖で歩けた時『このリハビリはどんな大学病院、どんな大病院の設備とスタッフでも足元にも及ばない贅沢なことをしているのです』こう言いました。
技術を言っているのでは勿論ありません。3人が頸髄損傷になりきったその内容とそれに掛ける時間を言っているのです。
 
 事故当時、凄まじい衝撃にも関わらず意識が薄れていく中『島田先生。島田病院へ』と言ったのは無意識下の深い心からの助けの叫びであり、もうこの時から動きを取り戻す因縁が約束付けられていたとしか思えません。
 第二病院での患者が一番求めている痛みを本人の身になって応えてくれた医師としての崇高な使命と人間性を持った先生達との出会い。いかに仕事とはいえ『こまで出来るか』と頭が下がる看護師さん全ての献身的な介護。転院した病院で二度に亘り救ってくれた生涯の恩人である看護師さん。

 在宅訓練に移行してからのまるで周囲から吸い寄せられて来るような善意と励まし。7年間に亘り私が森さんに課す過酷とも言うべき厳しい訓練の全てを完璧に自分の身体で覚え、しかも森さん以上に身体の酷使に耐え抜いてきたアシスタントの塚本美子。
 これら、一つ一つの点という出会いがよく考えてみると輪となって繋がっているのが分かります。そしてその輪の一つが私だったのです。

 事故当時、二重三重の運の悪さに『こんな事って本当に有り得るのだろうか?』と愕然とした事が、今度は『こんな事って本当にあり得るのだろうか』と言われる位の劇的な回復振りに繋がったのは、動くための人的回路という輪が繋がったことでしょうか。点在した一人一人の出会いが輪となって繋がった時に動きを取り戻した森さんは『運を呼び寄せている人なんだ…』と思う時があります。


■緊縛と暗い目

 私はこの7年間、誰にも言わなかったことが二つあります。
出来れば書きたくない事例ですが、これがリハビリを行う私の原点とも言える心の疼きでもあり、避けることは出来ません。

 私がよく知っているC損傷の方が亡くなりました。内臓機能が弱っていた為、軽い風邪から肺炎を併発して60歳を少し超えた時です。職業は大工さんであり、30代のとき屋根からの落下による事故でした。
男の働き盛りに一瞬の油断を突いた突然の災難です。

 今から30年前の頸髄損傷手術というのはどのようなものだったのでしょう。当然顕微鏡手術ではなく、ベテランの医師による職人芸だったのかも知れませんし、全身管理とそのケァ、薬剤その他で今とは比べ物にならない隔世の感です。
 幸い命を取り留めたもののその代償として完全四肢麻痺となり、あらゆる病院で入院を断られて自宅での生活となったのです。そして最も大切な関節柔軟をやらなかった為、当然ですがその身体はまさに板(拘縮)そのものだったといいます。これは私も知っていました。

 森さんが怪我をする前、脊髄損傷なるものは自分には全く無縁のものと思っていました。しかしそうではありませんでした。脊髄を損傷するという危険がこれほど身近にあるとは思ってもみなかったのです。特に頸椎5~6部位の意外な脆さに驚いたものです。今58歳になった私の過去を振りかえってみても『よく、あの時…』と鳥肌が立つ例はいくらでもあります。
 屋根の雪降ろしでの滑落はどれ位あったでしょう。階段からの転落。スキーのジャンプでの突っ込み。鉄棒の失敗。海に飛び込んでの岩場の激突。つい最近でも5匹の大型犬の散歩でまともに引っ張られ坂道を転げ落ちたこと。
まかり間違えば頸椎損傷、良くて胸、腰椎でした。

 この方の人生の前半30年は結婚して働き盛りに転落し、後半の30年は板のまま6畳間のテレビの世界だったのです。今、盛んに行われているインターネットによる仲間同士の交流と情報の交換等は全く無縁の世界でした。30数年間、板状のため驚くべき事に車椅子も必要としなかったのです。それは身体が曲がらず座位が出来ないためでした。当然、陽も知らず季節の風、風景も無縁でした。

 ある時、奥さんが長時間の買い物で留守の時、全身を振り絞り泣き続けていたといいます。そしてヘルパーさんに『思いっきり泣かせてくれ!』と言ったそうです。亡くなった時、30年以上我が身をがんじがらめに縛り付けていた身体が緩んだと聞きました。心と身体の緊縛からとうとう逃れる事が出来たのです。
うっすらと笑ってさえいるように見えたといいます。

 丁度その頃、森さんは瞬きだけでした。『…森さんもいつか必ずこうなる』と私は思っていました。だから言うことは出来なかったのです。

もう一人。この人は森さんがよく知っている方です。
札幌に入院している時です。C損傷で30歳にはなっていなかったと思われる男性で原因は交通事故です。
この方は際立っていました。その顔立ちの端正さ。そして服装のセンス。誰もが振り返るそれはファッション、芸能人を連想させます。車椅子からはみ出た膝の長さで背丈は高いことが一目で分かりました。

 この人が病院の僅か20mも満たない廊下を、全身の力を込めて歯を食い縛り、僅かに機能する片手で懸命に車椅子を漕ぐのです。それが日課でした。
 片手漕ぎのため当然車椅子は蛇行してその進みはほんの数cm刻みです。それは顔が一際端正なだけに殊更凄惨でした。『誰か押して!頼む!…頼むから…』と言い、見兼ねたお見舞いに来ている人が手伝おうとすると看護師が『駄目!訓練にならない!』と大声で叱り飛ばします。そういう病院でした。
 この青年は何故こうまでして全力を挙げて漕ぐのか。それは喫煙室でのタバコです。そのためようやく辿り着いたとき、一気に4~5本を喫うことだけが唯一の頑張りでした。

ある時、青年が森さんの病室に入ってきました。寝たままの森さんをじっと見て『森さん、怪我してどのくらい?』『4ヶ月に入りました』『…そうか…4ヶ月か。それならまだいい。本当のところはこれからだよな…これからなんだ…僕は8年だ』と呟いたのです
 本当の地獄はこれから始まると言いたかったのです。その鷹揚のない言い方と何より暗い目。8年間も苦悩と煩悶を引き摺り、端正な顔立ちの青年から表情を剥ぎ取り、能面となって目に暗さを宿したのです。

 森さんは『今迄あんなぞっとする暗い目を見たことはありません。あれを見て私はリハビリで頑張っていこうとした気力が無くなってしまって…』
 この二つの例で私が遣り切れない思に駆られたのは頸髄損傷という諦めの中にどっぷり浸ったその生き方でした。タバコを喫う努力。看護師に叱り飛ばされる屈辱。それを考えたら私は『今に見てろ!』と懸命に漕ぐ手、一つに全力を賭け訓練に挑みます。あの身長からして片手で数cm刻みでも運べる事はかなりの運動機能が残されているからです。
 また、板のまま亡くなった人の場合、どんな理由、どんな釈明をしょうとも板にしてしまった周りの全責任です。

 気持の持ち方と切り替えでこうも大きくその人の生き方が変ってしまいます。森さんが入院していたのは第二病院も含めてたったの9ヶ月でしたが、その間に見た一人一人の生き様は極限の状態に置かれた人間としての生の姿です。
 それを目の当たりにしたとき、在宅リハビリを行う際、施す者がどのような心構えで取り組まなくてはならないのか私は深く考えさせられたのです。


■こころ根。その限りない崇高さ

  毎年、新年の1月2日。
それはこの年度内に達成させる最大の目標を決める日であり、恒例となっています。
1999年。今年のテーマは『同窓会に出席させる』と決めました。

 この年の10月に高校の同窓会が開かれます。元気な時の森さんは幹事でした。しかし、怪我のために中断していました。それが何とか歩けることを知った友人達は森さんの出席を計画し、心待ちしていたのです。
 私達はこの7年間、変らない善意と励ましを送り続けてくれた多くの友人達にささやかな恩返しをと前から考えていました。
 お世話になった人達へ松葉杖で歩いて行き、その両手を包み込み、一言お礼を言いたいというのが私の念願であり森さんの悲願でした。
 この毎年2日に掲げてきた目標という大きな旗は椅座位と端座。立ち、歩き手を動かして上げ、階段を昇降させ、寝返りをさせるその全てが、機能をより回復させて更に一歩押し上げるものばかりでした。

 今回は動きよりも心の張りという精神面を殊更重視したものです。これは初めて掲げた目標でした。
 私の訓練のやり方は前に書いたように1年間で達成する大きな目標を先ず掲げます。例えば障害物乗り越え訓練ではもう3cm足が上がったら路肩の段差を難なくクリア出来ると思ったらその目的一点に絞ります。
 1年で3cmは簡単と思われるでしょう。しかしこれは途轍もない困難なことなのです。それは足だけではなく、杖を繰り出す手も上げなければならず、更に乗り越える為の腹部、腰部の強化も図るという全身にまたがるからです。

 この1年の大きな目標を更に2ヶ月で割り、一つ一つ積み上げるやり方で確実に達成してきました。これが何よりも森さん本人にとっては『必ず出来る』という大きな自信となり、また今までの『何としても!』と私がたじろぐ位の顔付きまで変る取り組みから、いくらか余裕のある訓練となってきました。
 そのようなある日、森さんは『…私が一番悲しかったのは身体が全く動かなくなった時ではないんです』と言いました。それはこうでした。

 第二病院に入院していた頃です。森さんの同室の方は意識が無いか、まだらかのどちらかでした。
 見舞いに来た他の患者の身内は、目を瞑り、全く動かない森さんを見ててっきり植物状態と思うのでしょう。最初は声を潜め『誰が引き取るか』から始まり、段々声高となり、財産の取り合いの内輪揉めになります。
 まだらに意識がある内、何とか金品と印鑑のあり場所を執拗に聞き出そうとする家族。しかも来る度にそれは激しくなり、吐き気がして目眩がしたといいます。
 
 フトンをかぶり、まして耳を覆う事の出来ない森さんは、人間の心の奥に潜むどす黒く蠢く醜悪さと残酷さに只ひたすら目を固く閉じて堪えていたのです。それを初めて聞き、瞬きだけの自分の惨めさよりも、他人の醜い言葉に深く傷付き哀しむそのこころ根の善に私は感動して胸が痛みました。

 
 私が今迄最も憤りを感じた事。それは何とか動きを取り戻そうと最後の救いを求めて転院した院長の口から『森さん、あなたはトイレもベッドだよ。お風呂もベッドで清拭だよ』この言葉です。
 それを宣告され『…とうとう…こんな…身体になって…しまって』と、ようやく聞き取れる言葉で、それも瞬きだけの顔を歪めて無理に笑おうとしていた時の激しい憤怒です。
ピクリとも動かない身体にグサッ!と打ち込む余りに残酷な杭。

 私は『よし!今に見てろ!涙の出ないほどリハで締め上げ必ずやってみせる。今に見てろよ!』今迄てっきり泣いているものとばかり思っていたのが、実は精一杯笑おうとしているのを知り、この極限の状態に置かれてもなお、相手に心配を掛けまいとする思い遣りに、感動をはるかに超え、自分を制し切れない憤りが突き上げて病院を走るように抜け出して小樽に帰ったのをはっきり覚えています。
それは1993年12月25日。私の51歳の誕生日でした。
ハンドルを握りながら涙が溢れ『今に見てろ。必ず動かしてやる。今に見てろよ!』と、叫び続け、やり場のない凶暴な憤りに震えていました。

 私が最も感動したのは、絶望を宣告されて瞬きの状態にありながら、自分の過酷な不運、人生を呪う絶望の涙をついぞ見せなかったことであり、また人にも言わなかったことです。瞬きだけの自分に泣いたのは皆が寝静まってからという事を大分経ってから知ったのです。

全ての涙は足が一歩前に出た時、手が上がった時。
何より人の善意に感動した時の涙でした。
 
 気丈でもない人一倍気心の優しい森さんが、自分の身体が決定的に絶望を教えてくれたのにどうして涙を流し嘆かなかったのか。それが不思議で立てるようになった時『どうしてあの時?』と聞いたのです。
 『私は絶対認めたくなかったのです。認めたら終わりだと思い、誰になんと言われようが認めない!絶対認めない!と念仏のように唱えていたのです。』

 森さんが動いたのは確かに訓練の内容と方法かも知れません。しかし動かしたものは本来、人が誰でも持っているこころ根の善を強く感じます。数え切れない善意を受けてこれにより一番大切な『何としても!』という手綱をとうとう掴みました。
 立ち、歩く為への飽くなき努力。人間の尊厳を取り戻すために極限まで追い求めてそれに挑む鋭い気迫。生きる事への崇高さに心を揺り動かされた人達からの更なる善意に取り囲まれて、そしてこれらの人達へより回復にと、気力を振り絞り、努力という確かな約束で応える森さん。それを見て感動し、更に手を差し伸べる。
7年間、この繰り返しであったと言えます。
 善を持つこころ根の人には更なる善が還ってくる。それは実に新鮮な驚きであり、とうに失ったものを見つけた深い感動でもありました。


■本当に絶対なのか 

  高等生物、特にヒトの中枢神経に一旦損傷を受けると修復、再生は本当に有り得無いのだろうか。医学の始祖ヒポクラテスの時代から2000数百年以上過ぎた現代でも、脊髄の再生、修復は有り得ないのだろうか。この疑問が常に私の頭の中にありました。
これが現代医学に至るまで定理定説であり常識であったと思います。しかしこれは「今までは」という前提が付くのではないでしょうか。

 現に僅かここ10数年で神経伝達の仕組みの解明と再生医科学の目覚しい研究により、大きく潮流が変わりました。また本来、人に備わった中枢神経の驚くべき潜在的再生能力、修復能力、あるいは自然治癒能力が次々と明らかになってきている現代です。それでも絶対不変なものなのでしょうか。
私はそれを信じませんでした。
いや、信じないというより『これほど複雑精緻に創られているヒトの身体が、脊髄を損傷したなら一瞬にしてその躯体から全ての動きが消失するものだろうか』との素朴な疑問のほうがはるかに強かったのです。
 それと第一章で何回も言う精神という魂、それを束ねた森さんの力に私は賭けたのです。 
精神力が傷を癒す、と考えたのです。その意味で在宅リハを決めたのは『本当なのか?』と思い『じぁやってみる』との単純な発想からでした。

 残存機能の活用は私の頭の中には毛頭ありませんでした。
そもそも残存するものは瞬きだけだったからです。しかし情熱を持った療法士がいて森さんに残された顎の僅かな力で動く電動車椅子の操りに成功させたなら、これは成功例の最たるものかも知れません。
 完全四肢麻痺の森さんが顎電動ではなく、微かな指の動きで普通の電動車椅子を自在に操るなどは、先の藤本先生がいみじくも言ったようにある意味では驚愕すべき学会発表事例でしょう。

 仮に森さんに微かに機能する人指し指だけが残っていた場合、この徹底訓練で電動車椅子を操りADL・QOLの向上を目指すことも私はしません。動くものはいつでもできるという単純な発想からです。
 失った機能を取り戻す。動かないからこそ動かす。というのが私にとってリハビリの原点でした。『絶対動きません!』と断言できる程の訓練を行い、症例を重ねた人は果たしているでしょうか。

 実に複雑な百人百態の症状に対して脊損という診断だけで『リハビリは時間の無駄』と断言する根拠は何なのか。
 動かすだけの訓練をしなかったのであり、その経験も無い、と私は確信するようになったのです。ですからこの常識、定説を信じなかったのです。ただそれだけの単純な動機でした。そして森さんはこの恐ろしい症状を決して認めようとはしなかったのです。

 『切断されているから動きません』これも私は信じませんでした。もしそうなら森さんの所に訪ねて来た方々の切断宣告にも関わらず動きを取り戻している現実は一体なんなのか、という素朴な疑問です。
ここでも動かず、感覚が無いから切断、という常識的な宣告を感じます。

 ただし訓練中に切断だから動く事はない、と愕然とするほど動きを取り戻すまでには刺激を与え続けた時間は膨大なものです。それを持続できるかどうか。決意は簡単です。
森さんを知り、今日にでも訓練は直ぐ出来ます。その決意を持続できるかどうか。
未曾有な困難に挑戦する本人の気力を周りの人達が支えきれるかどうか。

 これは忍耐と熱意、そしてその持続しかないと私は思います。やがてこれを乗り越えた時、大きな代償は必ずやってきます。
 それは一旦神経が繋がったら今までの苦労は一体何だったのか、と思わせる位、その機能の回復振りは目に見えてきます。その理由を私は分かります。
 それは神経を繋げるまでの膨大な運動がひいては筋肉細胞、感覚細胞への刺激となっていつの間にか身体に植え込まれた(刷り込み)からであり、この学習能力の積み重ねこそ、自己治癒能力、自己再生能力に繋がると信じて疑いません。

 私は記録を整理し、森さんと似た障害の人達に『お互い励ましあい、情報の交換をしていきましょう』と詳細を送り続けました。それは障害を乗り越えて絵画、写真の個展、旅行記等で新聞に報道された方、あるいは本を出版した方、スポーツで活躍している方など様々です。しかし一切の返事はおろか、着いた、読んだとの音沙汰さえ誰一人来ませんでした。
これは見事といっていい位の「無視」でした。

 私はこの方々が個展を開き、旅行記を書き、あるいは出版するまでの並大抵ではない努力は森さんが立った事と同じ視点から感動して送ったのです。しかしそれは全く違うことだと分かったのです。
 申し合わせたような見事と言っていい完全無視に私は残酷なことをしたと初めて気付いたのです。
同じ重脊損を負いながら、本を出版して旅行記を書き、個展を開く。一方の森さんは立ち、歩きを取り戻した。目指し、挑戦して到達したもの。その努力の結果は余りに違い過ぎます。
 私の送った記録は、ただ彼等の心をかき乱しただけであり、そっとしておいてくれとの余計なお世話だったと分かりました。
 島田先生も『右近さん。彼らは認めたくないんです。かえって残酷なことかも知れません』こう言われ、以後私は一切、自分から連絡をすることなく再び密室の訓練に移ったのです。

 
 科学の進歩は目覚しく10年前と今ではまさに隔世の感を覚えます。僅か12~3年前、ごく一部の世界の神経学者が『中枢神経の再生はあり得る』と発表したところ変人扱いにされました。それが今では『再生は永久にあり得ない』という学者は逆に変人扱いにされているのです。
 リハビリによる運動で神経伝達物質への刺激により活性化されて軸索が伸びて架橋され、信号が伝達される、と科学的根拠が盛んに言われています。が、重度脊髄損傷者が動きを取り戻した例はきわめて稀という事も事実です。

 では『どうしてなのか?』と考えた時、動きを取り戻すまでの訓練をやらなかった、との疑問が出てくるのは当然です。何故やらなかったのか。それは取りも直さず脊髄に損傷を受けたら修復、再生は有り得ないという定説の元に『動く事はない!』と宣告されたからです。それにより本人も『リハビリによる機能回復など思いもよらなかった』のであり、だから脊髄を損傷したら動かない。という堂々めぐりが結論になってしまったとしか私には思えないのです。

つまり、脊損、すなわち麻痺という牢固とした固定観念です。森さんの当時の状態を知っている脳外科医、整形外科医が実際に歩くのを見て『とても信じられない』と絶句し、島田先生は『森さんを見ていると私が今迄習ってきたこと、経験してきた事、全ての考えを変えなければと思っています』こう言っていました。

 あれほどの重度頸髄損傷の森さんが何故歩けるようになったのか、私は数多くの先生に聞きました。残存された神経、バイパス、軸索の伸長等々。
 森さんの障害をよく知っている先生達ばかりですので『受傷程度が軽かったのかも』と言う筈はありません。『…絶えざる運動と神経の刺激により、運動・感覚神経ともに活性化したのではないかと推測されますが』という返事を頂いているのです。『あれはたまたま』『特殊な例』『稀にそんなこともある』そして必ず決め付ける『たまたま受傷程度が軽かっただけ』との言い方こそ実に非科学的であり、専門医としての「言い逃れ」と思えてなりません。
何故なら、全てこの言葉で済むからです。 
しかし一切の返事はおろか、着いた、読んだとの音沙汰さえ誰一人来ませんでした。
これは見事といっていい位の「無視」でした。


■ついに同窓会へ

 1999年10月2日。この日は同窓会当日です。この日のために私は7月から綿密なリハスケ(リハビリスケジュール)を組み立て、同窓会に向けての訓練を始めていました。その会場はこの年の春にオープンしたばかりの世界中にチェーンを持つ豪華なホテルです。
 直ぐ会場を下見してロビーから会場までの距離、座らせる場所なども決めました。当然冷房が当たるところと従業員が行き交う所を避ける為です。
 そして今回の出席にあたって何よりの大きな違いは『私は付き添わない』と最初から言ってありました。
 それどころか美子も会場には入らず、万一の為にロビーに待機させるようにしたのです。このようなことは今迄一度もありませんでしたし、また出来る事でもなかったのです。

 これは7年間、ビッシリ私にしごかれ通しだった森さんにこの時くらいはせめて「ひとり立ち」して心から楽しんでもらいたいと思ったからです。
 同時に第二病院での約束を果たしてから4年過ぎた森さんに、同窓会といういわば公の席に一人で出席できた自信を付けさせる為でもありました。
 その為、幹事の方に家に来てもらい、車椅子からホテルの椅子へのトランスファー、その立ち上げと膝の当て方、そしてタイミングと呼吸の入れ方。立った時の姿勢保持と松葉杖の装着。ガードする為、森さんの前に絶対立たず斜め後から等など、こと細かい項目の一つ一つを夏の盛りに汗だくになりながら猛特訓を重ねてきました。

 しかしあらゆる危険が予測されこの決断には何日も迷いました。事情のよく知らない人が『あら! 森さん!』と言って肩をポン!と叩いた時。友人が駆け寄り、ほんの僅かに身体と杖に触れた時、食べさせてもらう時にむせた時、椅子からグラリと傾いた時。いずれにしても取り返しの付かない事態を生じさせます。
 そして私が頭を抱え込み悩んだもの。それは豪華な深い絨毯でした。森さんにとってはこれほど危険なものはありません最も恐ろしい松葉杖の絡み。次に床面が柔らかいため支点となる足に踏ん張りが効かなくなり、つま先がほんの僅か絨毯を蹴っただけでたちまちバランスを崩します。更に注意して歩こうと足元を見る視覚への神経分散。

 今までの7年間の歩行訓練は全て固い床面であり,このような条件のもとでの歩きはただの一度もやらせていなかったのです。私は考え、迷った末、『松葉で歩いて行くのを止める』と決めました。友人達の席まで歩いて行き、一言お礼をと7年間頑張った私達の悲願と痛切な願い。反面予測される危険性の両方を考えた時、私としては当然とらざるを得なかった決断でした。但し、私か美子が付いていたらこの松葉の悲願は必ず叶えさせます。

 訓練は順調に進み9月に入り、同窓会まで一ヶ月をきりました。しかし、ここで全く予想もしなかった事態となりました。それは暑さです。この年、北海道は記録的な暑さで猛暑という表現がピッタリする熱波であり、その風さえ熱風でした。ただでさえ北国の人間は暑さに弱いのに、自律神経はかなり回復したとはいえクーラーをつけることが出来ない身体に、この暑さは内にこもり、連日森さんを苦しめました。室温はゆうに32℃を超えているところでの特訓です。

 私達には何の苦も無い100mの並足歩行は、森さんにとって全筋力を総動員しての全力疾走なのです。
『暑くて身体がだるく眠れません』これらの理由でリハビリを中断することは出来ないのです。
 7年間ミリ単位以下で積み重ねてきた訓練の成果に対し、訓練の中断がもたらす後退は「ズルッ!」と目に見え、驚くような落ち込みで襲ってきます。何よりも訓練を怠るとたちまち関節は硬くなり、反応が鈍くなる筋肉を見るとき、改めて頸髄損傷の恐ろしさとその損傷の深さをまざまざと知らされるのです。


 外気温が上がったからといって森さんの場合、関節が緩み筋肉が弛緩しません。確かに厳冬よりははるかにいいのですが、それでも歩かせ、床運動をし、絶えず他力で関節と筋肉を揉んで初めて血流の循環が良くなり、酸素が身体に行き渡って指示どおり動くのです。
これが自主トレーニングの出来ない悲しさです。

 当然ですが体調は徐々に崩れ、それに伴い成績は日を追うごと下がる一方です。そして私が最も恐れた事態になったのです。同窓会の3日前、激しい下痢と倦怠感でついに体力は力尽き、食事は一切受け付けず点滴を受ける状態にまでなってしまいました。健常者でも今年の異常な暑さには喘ぎました。

 例年お盆を過ぎると一気に秋の気配を肌で知り、『暑い!』と言っていたのが贅沢だったと思い知らされますが9月に入っても容易に衰えません。思えば7月の中旬から8月、そして9月の中旬まで、森さんはいまだ経験したことの無い猛暑に晒されたのです。
とうとう『…私、この調子ではとても行けません』と言って涙ぐみます。
私も『これじぁとても無理だ』と諦めました。

『怪我以前に持っていたものは一切着る気がしない』と言っていたため、当日着ていく服とアクセサリーは全て揃えてリハビリルームに架け、それを見ながら頑張ってきたのです。
足掛け7年間『いつかこの日を…』と頑張り抜いてきた一切が費え去ろうとしている余りの空しさとやり場の無い怒りに震えました。


■人はこんなにも優しいものなのか  

 しかし、同窓会の前日、いつも通り森さんの家に10時半に行き、私はわが目を疑いました。椅子にきちんと座り『いつでも受けてたつ!』との強い覇気をその身体から直ぐ感じ取ったからです。『よし!これなら行ける!』と確信しました。当日は最悪の天気で横殴りの風と雨でした。

 私は美子に最後の指示と確認をして、何かの場合、直ぐ飛び出せる態勢を整えて送り出しました。特に幹事の方には、集合写真を撮る時、車椅子ではなく、ホテルの椅子に座らせて背筋を伸ばして足を揃え、腕は肘から曲げ、軽く握った手は膝の上キチンと揃える、その全身像には細かく注文したのです。
その為、最前列に座らせるよう頼んでおきました。

 これは普通の椅子に、見事な姿勢で座る姿を映像として焼き付けるためであり、写真を業としている私の強いこだわりです。車はホテルの地下から真っ直ぐエレベーターで会場に、と最短距離を指示していたのですが、玄関ホールに着いた時、今か今かと幹事の方が既に表で待っていて『この天気じゃとても無理と思っていた』『あぁ ようやく安心した』と言って直ぐ手伝おうとしたそうです。
しかし、これが最も危険なのです。

 美子には『一切手伝わせず必ず一人で』と口を酸っぱく言い聞かせていたのです。会場のホールに上がった途端、待ち兼ねていた友人達にわっ!と取り囲まれてたちまち姿が見えなくなったといいます。この同窓会には全道は勿論、関東、関西から100人近く集まり、道内の方は新聞で森さんの事を知っていますが、まさか出席できるまで回復したとは思ってもみなかったことでしょう。
 森さんの席に次から次と集まって励まし、勇気付け、祝福してくれたのです。いかに森さんの努力とそれを成し遂げた気力に揺り動かされて感動したことか。
 それは2時間半の間、口にしたのはコーヒーとケーキだけだったことでも窺われます。

 幹事の方の気遣いと緊張はそれこそ大変なものでした。ロビーに待機している美子と何回も連絡に走り周り、息を抜く暇が無かったのです。
 東京から来た友人は『…そうか…。そんなに頑張ったんだ…』と首の後ろの長い傷をいとおしげに何時までもさすり続け、声を押し殺し泣いていたといいます。
 会社を経営している無骨な友人は『俺達五体満足な者でも生きていくという事は大変なことなんだ。そのうちに何かいい事があるとは思っていたが…それが…ここ迄。よく…頑張って…』と声に詰まり、顔を歪めて俯き、逃げるように席を立ったといいます。

 宴会の最後に幹事が『今日、この席に7年前脊髄を損傷した森さんが…』と言いかけた途端、皆が我知らず『オーッ!』と立ち上がり、あとの言葉は聞き取れなかったと涙ながらに報告してくれました。
 閉会となり、森さんは入り口で友人の方々をお見送りして一人一人の手を握り、包み込みます。『あーっ!こんなに力が!…こんなに頑張って…森さん…よく…あなた』
 瞬きから7年。友人の手を包み込む悲願をついに成し遂げたのです。

 『この7年間、これほど楽しいことは無かったんです。本当に嬉しくて。私、順番を決めていたんです。いつでも会える人と、もう会えない人と。手を招いて私の席にきてもらうことは出来ませんが、私が目で合図したら皆さんが順番に次々と来てくれました。…それが…楽しくて…嬉しくて…』
 『7年間これほど楽しいことが無かった』と涙ぐむその言葉に私は言い知れぬ哀しさに心が傷みます。

 動きを全て奪われ、その尊厳さえもことごとく剥ぎ取られた森さんは先ず精神面から立ち上がりました。それは絶望を宣告されながらも『認めた時終わりだから絶対認めない!』と常に自分に鞭を打ち、『何としても立ち上がってみせる!』との気力が私と美子を動かし、更に周りの人達の善意が立たせてくれました。
 私は今つくづく考えてみますとこれら一つ一つの動きと気迫は、この日の同窓会に出席する、させる為の7年かけた激しい息遣いであり、悲願とも言うべき究極の目標であったような気がします。



 厳しい訓練が終わり、私は自分の部屋でフォーレのチェロソナタを聴きます。7年目にしてようやく好きな音楽に浸る心の余裕が出てきました。下手ながらフルートを趣味としている私はチェロの音色に強く心を惹かれます。
 悠揚迫らざる艶やかで温かい低音部の響き。高音部に移行する張り詰めた弦の切なく緊張する悲鳴。のどかにたゆたう旋律が一変し、うねり、波うち、激情を叩きつけ、恍惚とした中、私はこれらの人達のほのぼのとした温かいこころ根の優しさに手をかざします。

 いかに瞬きから抜け出させようとはいえ、7年間に僅か7日しか休ませず、一日6時間もの間、より健常者へとの仮借の無い要求。それを極限まで過酷に強いた私は、厳しい檄とピシリ!と鞭打つ鋭い音の突き刺す痛みでうずくまります。

 隔絶された密室で地獄から抜け出すためのいかに常軌を逸した峻烈極まりない訓練であったか。
身体に打たれる鞭と叱責。この7年間、思い出しても『楽しかったことはほんとうにあったんだろうか…』としかいえない訓練漬けの毎日。
 こうなるまでに想像を絶する苦悩を経て、凄絶な訓練に耐え抜き通し、ついに克服してねじ伏せてきた険しい顔、乾いた心。これが微塵も無い人間性。

 小樽に森さんを尋ねて来た最重度頸髄脊損者の『あーっ!あの笑顔は観音さまの笑い…』と絞り出すような悲鳴と、涙がドッ溢れた慟哭を決して忘れることは出来ません。
 瞬きから7年間、『必ず動きを取り戻す!』と、ついぞ誇りを失うことなく揺るぎの無い信念を持った人というのは、こんなにも強くなれるのだろうかという驚き。その鮮やかな生き方に私は言うべき言葉もありません。私は報告の一部始終を聞きながら『…言いたい事もあったろうに…。』と7年にわたる訓練の日々の一つ一つがめくるめく去来して、心の奥からせり上がって来る抑え難い慟哭に固く目を瞑り、耐え、うなだれるばかりでした。

 絶望を宣告された特異の状態での森さんを通して、私はこの間、実に多くの方々を知る事となりました。その極限の状態の時、相手は何をしてくれ、どう接してくれたか。そこには一切、理屈抜きのズバリとした人間そのものの価値を知り、私は心を打たれます。
 森さんは何を話し、何から報告していいか分からない位、夢中になって楽しかったひと時に弾んでいます。
私はそれを聞きながら『人間って…こんなにも優しいんだ』『…生きるというのはこのことなんだ…』と胸で呟き、その上気した顔を黙って見るばかりでした。

 私には豪華なホテルの一室で、多くの友人達に囲まれている森さんの笑い声が聞こえ、その姿が目に浮かびます。お見送りした時、友人の手を包み込んだ指の感触と握り締めた力、その温かさも分かるのです。感極まり頬を伝う涙も見えます。
今、私の手元にはその時の写真があります。
 最前列、それも恩師の直ぐ隣には、背筋を見事に伸ばして手をキチンと膝に据え、ついに同窓会に出席できた全身で笑う森さんの晴れ姿です。
 100人近くの同窓の中で、私にはそこだけが大きく切り取られ、凛として光りを放ち眩しく目に迫ります。それはまさしく健常者としての森さんでした。
 このリハビリに携わった者として、『そうか…。そんなに…楽しかったのか』と、言葉を呑み、ジワリと心から滲む涙と嗚咽をとうとうこらえきれず顔を覆ってしまいました。


■幸せな人

 森さんはある時、『私が訓練の甲斐も無く、ベッドで瞬きの身体になっても、これだけの人達からの温かい励ましといたわりを受けた事に感謝しながら一生を終える事が出来ます。そしてこの事を両親に誇りをもって報告できます』と言った事がありこれは偽りの無い本音と私は思っています。

 夜、暑い番茶をすすりながら『お前は石狩川から大きな木に乗って流されて来たんだよ。その時、運良く私と母さんの前で岩にコツン!とぶつかり止まった。それで大事に育ててきたんだ。…だからきっといい子になる、とお父さんは思うよ』といつも言っていたと涙ぐんでいたものです。
立って歩けた時、次の言葉を聞いて余りの驚愕に身体が震えました。
 『いいかい照子!何時か身体が不自由になったとしても、その心まで暗く歪んではいけないんだよ!それが人間として一番大切なことなんだ』これを父親は物心ついた時から常々言っていたというのです。

『一体何ということだ!…』それを聞き、戦慄を催し心に鳥肌が立つ思いでした。
 40数年後、わが娘を刺し貫く残酷な事故。その厳しい8年間の生き様を見事に予見していたからです。これが『絶対認めない!』『何としても立ってみせる!』と支え続け、私が要求するどんな過酷な訓練にも音を上げなかった原点はここにあったと今更ながら知ったのです。

 誰が見ても『一生動く事は無い』といった状態の中でも、決して諦めず、しかも我が身の不運に涙を流さなかったのは『いつも両親と話しをしていました』との確かな宗教でした。
 人の悪口、何よりも恨みと愚痴だけは決して許さなかったという両親は実際に身を以って厳しく躾け、諌めたという事を聞き、これが瞬きだけの状態に置かれてもなお精一杯の泣き笑いだったのか、と初めて分かりました。

 それは私の想像を超えた両親の人間性を見事に引き継いできた驚きであり、この両親の愛に育まれた娘が人々に無私の愛で接し、両親の徳を慕い、集まった様々な人達が今、娘を助け上げ、生き抜き、頑張り抜く支えになってきたのです。

 瞬きから脱してようやく端座できるようになった時、多くの友達が一挙に訪ね『おていちゃん。あんたほど幸せな人はいない!ほんとに良かった。あんたほど幸せな人はいないよ!』と泣くのです。
 全く動かない手足で椅子に座ったままの森さんに『…あんたほど幸せな人はいない!』と言わせるものは一体何なのか、当時私には理解できませんでした。
しかしこの言葉に森さんの今迄の生き方の全てが込められていたとそのうちに分かってきたのです。

 私は今でも不思議に思っている事があるのです。それは看護師さん全てが『私は森さんを見てると今に絶対立てるようになると思う』『だけど森さんはきっと歩けるよ』『森さん。今に立てるようになる。私はそんな気がする』当然素人の単なる励ましの言葉ではありません。
 脳外、整外病棟勤務で数多くの患者さんとその症例をつぶさに見てきたベテラン看護師さん達の言葉です。

 更に専門家すら『諦めるな、諦めた時、それこそ最後だ!』『森さんは強いから頑張れる、大丈夫』そして事故直後、親友がワラをもすがる思いで易者にみてもらった言葉は『この人はみんなの助けを借りて歩くようになる』
全てが今に必ず歩く事を予見していました。

 札幌の看護師さんが専門医の言葉を撥ね退けて自力排尿をさせるために一緒に頑張ってくれ、二度に亘り間一髪を助けてくれた事などは厳しいトレーニングの何よりの支えになり、そのため激しい床運動も可能になりました。
 事故直後の島田先生の出会いから始まり、今考えると立ち、歩くため運命付けられたとしか思えない何かの力を感ずるのです。
 これらの言葉は今思うと重大な予見であり、そして結果は見事にその通りになりました。当時の目を覆うばかりの状態でありながら何故皆が同じ事を言ったのでしょう。しかも絶対と付くその言い方に私には単なる慰めとはどうしても思えない何かを今迄ずっと引き摺ってきたのです。
それが7年間の訓練を通してその何かがとうとう分かったのです。

 それはあのような酷い状態に置かれてもなお心から笑顔が出てくるその人間性です。最重度頸髄脊損を負った若者、その母親の言った言葉が耳から離れません。
『真っ暗闇に閉ざされたトンネルの向こう側で、ポカリと照らされた森さんが笑って立っているような…私達親子にとってどれだけ励みになったことでしょう』
そしてこの青年もついに立ちました。

自分より相手を気遣う限りない度量の広さと深さです。
森さんが今あるのは、事故直後の考えられない偶然の数々の積み重ねですがそれはあくまでも命が助かった偶然です。歩けるようになる迄には、様々な人達との出会いが連綿と続き、しかもそれが立ち上がる為の筋肉となり、血となり、活力となっているのには驚きます。

 医療機関の力付け、呆れるほどの周りの人達の善意、本人が宗教という両親の心の支え。更にリハビリルームという環境整備が可能になった資力。何よりも本人の性格。最後に私とアシスリハである美子の取り組みがあった事も確かに動いた一因といえるかもしれません。他から見て余りに特殊な恵まれた条件と映ることでしょう。これをみて脊髄を損傷した本人と家族が『とても私達には』と嘆息して訓練を行う前から断念するとしたら、私が今迄送り続けたこれらの資料はこの上なく残酷な資料となるのではないかと私は最も恐れているのです。     
それは全く違うという事を是非知ってもらいたいのです。
森さんの中には終始一貫『絶対諦めない!』との強い信念、そして希望が常にありました。これは強く激しく勝気な性格が言わせた言葉ではないのです。何回も言うようにむしろ全く正反対な性格です。
『絶対諦めない!』『私は認めない!』この決意があったからこそ周りの善意が集まり、訓練を行う私も励まされてその実技が活き、最大の力となり身体が動いたのです。

『あなたは一生ベッド生活です。どんな事をしても立ち、歩く事は出来ません!』
『神経の再生は可能だ。諦めるな!諦めたらそれこそ最後だ!』
 同じ病院の院長と科も同じ整外医師のまるで両極端の宣告。最重度頸髄損傷者はどちらを取るか。
 それは言うまでもないことでしょう。何の疑いもなく神経の再生・修復の可能性に賭けます。誰しもこの選択をすると思います。仮にこの病院にK先生がいなくても、私は島田先生、村井先生、そして藤本先生の心から信頼し切ったその温かな人間性に励まされて訓練に挑みます。

 今迄散々言われてきた奇蹟・例外・ごくごく稀・そして特殊。決して例外でもなければ稀でもなく、ましてや奇蹟であろう筈はありません。むしろ森さんの受けた障害こそ特殊でした。それが動いたのです。
 ですから私はK先生の言った『神経の再生・修復は可能だ』という言葉を誰よりも信じ、確信していたのです。全くその言葉通りになりました。

 訓練内容とその方法が分からない・素人が・自宅の環境が・時間が無い・やる人がいない・そして一番大きな要因とも言える専門医に宣告され神経の再生は有り得る筈は無い等々。
 これらは私に言わせると訓練を行う前から既に動かなくなる全ての条件を並べたて、諦めているのです。
 やらなくてどうしてそのような事を言えるのか。かけがいのない自分の肉親がその身体から動きを剥ぎ取られたまま、これからの人生という気の遠くなる時間を過ごさなければならないその無念を考えた時、先ず肉親が『これが自分であったら』と本人になりきり、同じ視点、同じ考え方で取り組む決意から在宅訓練は始まります。

 何も分からない素人がどうしてどのように、という問いかけに対しては『では専門家がやったら動くのか?』と私は逆に聞きます。頸髄損傷者へのリハビリは今までの定説、常識を否定することから先ず始まり、これを絶対!と信じていたらそれこそ時間の無駄です。 
 森さんの所に来た人達は全員絶望宣告を撥ね退け、全て試行錯誤の自己流で症状の改善がみられた人達ばかりです。この紛れもない事実にはどのような説明がつくのでしょう。
 仮に立つ事は出来なくても訓練により硬かった関節に柔軟性が戻り、曲がらなかった指が3cm動いたら、これは訓練の刺激による顕著な回復であり、この3cmで電話をプッシュでき、物を引き寄せることは可能です。

 森さんが退院した時、私が真っ先にやったのは電話でした。
私の妻の兄、つまり義兄は歯科医であり、5人の技工士を抱えていますので、この口腔技術を利用して電話を掛けるために歯茎にぴったり密着するステンの棒、人工の手を作ってもらおうと思ったのです。しかし、これさえも駄目でした。それは頸椎を取り外された首であり、その為プッシュは頸部に過大な負担が掛かるからでした。


■傷付いた鳥、その広い空

  諦めて揉む事もせず関節拘縮を起こさせたならこれはどんな言い訳も通らない周りの責任であり、『何で褥瘡が』と動かない人を責め立てるのと全く同じ事です。
 重脊損にしばしば見られる耐え難いニューロパシー痛(神経損傷性異常疼痛)に悶えている時『…じぁ神経を切断するか?』とズケッと言われた若者もいました。
 この無神経な言葉にこそ動くわけも無いし、まして感覚等あろう筈は無い、と決め付けられる脊髄損傷者の悲劇があります。

 しかし、その間もどんどん運動細胞、感覚細胞が死滅し、最後は機能しなくなり、前に書いた大工さんのように板のまま30数年間、車椅子で外の散歩はおろか、陽の光さえ知らず、6畳の部屋でテレビだけの生活がその典型です。
私はこのご家族を非難しているのではありません。その無念の人生がなんとも切ないのです。

 前に紹介した「しなびたバナナ」を持ってきてくれた奥さんは、Cレベルで寝たきりのご主人をたった一人で椅座位まで漕ぎ付け、右手を肩迄上げ、観光バスに乗せて案内するほど回復させ、天気の良い日は大通り公園を散歩するといいます。
 このように動かしたのは全て自分の手と諦めなかったこと、そして継続、それだけです。

『今迄諦めないで右近さんをここ迄支え続けたものは一体何でしょう』
この言葉を私は一体どれほどの人達に言われたことでしょう。
 それは感動であり、途中で投げ出す悔しさであり、神経の繋がった指の哀願、更に実に多くの人達からの善意と励まし。運命的な出会いとも言える島田先生を初めとするこれらの方々の好意に背けない、という背景も大きいのです。
 また、2回の講演での悲痛な訴えに対して全ての資料を渡し、『絶対諦めるな』と繰り返し訴え、励まし続けた意地と責任も当然あります。 

 しかし、私自身が納得する芯という説得力に欠けたものを何時も感じていました。その何かがとうとう分かりました。それは今迄兄との間に交わされた膨大な手紙の中から見事に当てはまる答えを見つけたのです。それを是非紹介します。

『…森さんの周りには何時も多くの人達の善意があった。思い遣りもあった。そして何より愛があった。
 どんな時にでも人に心配をかけまいとする相手へのいたわりの心は人を奮い立たせる力になった。人はやはり自分相応の人と出会うのか…。事故は不幸であったけれど、しかし森さんは本当に幸せな人だと思う』  

『…傷付いた鳥が周りの人達の温かい看病のお陰で再び飛び立とうと、今必死に滑走を始めている姿を、遠くから何も出来ず見ている者の心を持って書き続けてきた手紙が、少しでも役に立つ事があれば、とそれだけを願っています…』(原文のまま)

この文を読み私は『これだ!』とうたれました。事故直後から歩くまでに至り、その訓練に携わった私を8年間支え続け、精神的な芯というものを自分で納得する言葉で表現するとしたら、と何時も考えていたのです。
それを兄はほんの数行で見事に言い当てたのです。

森さんはまさしく『傷付いた鳥』でした。

森さんは羽根をもぎ取られ、地面にうち捨てられた鳥でした。
再び飛ぶことはおろか、立つ足もないムクロという鳥でした。
翼も無く、立つ足も、飛べる空も無く横たわったまま、息さえも絶え絶えの鳥でした。

しかしここが違います。
それはいつか飛ぶための『広い空』を何時も心に持ち続けていたのです。

そしてここも大きく違います。
それは 『飛びたい!飛びたい!』と空を見上げて、ただただ悲しげに啼く鳥でもなかったのです。
萎えた足を両親は渾身の力をもって支え、そして上げました。
羽ばたきを取り戻す羽根は、この両親の徳を慕った人達が与えてくれました。
その崇高な善意に応えて、誰もが驚き息を呑む凄まじい努力で、ついに羽ばたきを取り戻したのです。

飛び立つため、滑空するため、温かい風を送り続けた多くの人達。

今、再び飛び立とうと立ち上がり、ついに滑走を始めたのです。

やがて気流に乗り滑空できるかもしれません。

駄目かも知れません。

しかし、森さんの心の中に何時も広い空を持っている限り、いつかは必ず舞い上がり、大きく旋回する翼を見ると私は固く信じます。

その時、キラリ!と翼越しに射る陽の光を、私は眩しげに下から見上げます。

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