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【第五章】           奔流の中に


森さんは今、最難関の自立歩行に備えるために息を整え、自分が歩く方向に目を据えてその距離を目測しています。今迄5年以上に亘って慣れ親しんだリハビリルームとまるで違うここは300人位の人が固唾を呑み、息を詰めて見守る過酷とも言うべきシチュエーションのホテルのステージです。
 凹みの見える傷ついた床。磨かれた滑面。ステージに立ちこもる不快な蒸し暑さ。更に不自由な身体を否応無く照らすスポット照明。そして悪条件の最たるものは何よりも300人近くが食い入るように見詰めるその目です。ここは自宅での訓練とは余りに違い、精神を統一する音楽も私の指示も一切無く、全て自分の判断で脊髄に指令を発して歩かなくてはなりません。

 しかも私とアシスタントの美子は聴講している人の目を妨げないようにいつもよりはるか後ろに下がってガードしているので、その緊張度は否が応でも頂点に達し、身体全体が固く訴えているのがはっきり分かります。
 只一点に精神を集中しなければならないのに、聴講している方々に説明する私のアナウンスが森さんの耳に雑音として突き刺さります。
これがどれほどのほど妨げになるか。神経を逆撫でする脊髄の苛立ちを私が一番よく知っているのです。

 しかし、歩きという動作の最後の仕上げとしてこの自立歩行だけは何としてもやらなければなりません。ゆっくりと確実に歩いてはいますが、膝を曲げる時、明らかに体重が足に残っているのが分かります。しかもいつもより曲げの角度は深いため、当然片一方の足には荷重という負担が掛かってきます。膝から下の力を抜かない歩きの矯正は特に厳しく、身体が悲鳴を上げる程、容赦なく叩き込んできたのです。
 この歩き方こそ徹底的に絞られる一番の要因であることは誰よりも本人が知っているのです。これが自宅ならすかさず檄が走って鞭が飛ぶところです。

 その前の1本杖、2本杖、松葉歩行でも身体が固く、まるでロボット歩行でした。しかしさすがに寝返りと床運動は実に見事にやってのけたのです。
 今、森さんは歩くというより絶対転ばないように慎重に摺り足で身体を運んでいますが、家とは違い腰で歩くのではなく、ただ棒になった足を自動的に前に出しているだけです。
 足が一歩、また一歩前に出るたび会場が水を打ったようにシンと静まり、顔を覆っている方もいます。一点に目を据えてついに歩き通した時、会場からは期せずして大きな拍手が沸き起こりました。

自力椅子立ち、自力着座、見事な寝返りと床運動。
信じられないその動きに、ほぼ満員の会場から大きなどよめきと腹の底から気合が掛かってくるのがこのステージにも聞こえてきます。立ち上がり、目頭を押さえている多くの人達も見えるのです。
 森さんにとって過酷な悪条件の中での1時間半にも及ぶ婦人大学講座での講演と実技がこうして満員の聴衆に大きな感動を与えて無事終了したのです。

1998年6月19日。事故以来まる5年と13日を過ぎた日の事です。


■講演                         

 この年の3月、これは講演の3ヶ月前です。
 私の友人から『右近さん。絶対断らないでくれ。私は必ず承諾させるともう引き受けてきた。子供の使いにさせないでくれ』突然こう言われました。これにはわけがあり、前年、この友人が主宰するクラブの勉強会で私の本職である写真の話と趣味のフルートを1時間、食事をしながらトークと演奏をした事があり、その続きをやってくれとの依頼でした。
 しかし今度は先の小クラブではなく、この年に開かれる第15回記念小樽市婦人大学講座での講師の依頼だったのです。ソロプチミストの主催であり、しかも講師は作家の渡辺淳一氏、元通産省の坂本春生氏、エァ・ドゥの浜田輝男氏など多彩でそうそうたるメンバーです。
問題は演題でした。
モデルを使っての写真の実技をやってみようと決めたのは、引き受けてから一週間位経った時でした。
 しかし、このことがその後私達にとって全く予想もしなかった奔流に巻き込まれて大きな方向に流れが転回するきっかけとなるとは思ってもいませんでした。

 一方、この頃の森さんに対する訓練は階段昇降の猛特訓の明け暮れでした。私はこの階段昇降だけは最後まで訓練項目から外していたのです。
 それは危険この上なく、同時にこれほど難しく時間のかかるものは無いと思ったからです。しかし、敢えてやらせました。その理由は外での歩行訓練の際には当然車椅子ごと一段一段下ろさなくてはなりません。私はそれが何としても我慢が出来ず『車椅子は使わない』との私の方針にもとるからです。

 部屋から店に下りる階段は4段ありますがそれぞれ微妙に段差を変えてあります。一番上は10cm、次は12、14、最後の段は一番高く15cmにしてあります。
 部屋を改造する時、私は最後まで階段を付けるか否かで迷いに迷い、『あるいは奇蹟が起こり階段を上り下り出来るかも知れない』と突飛でもないことを考えた末、あくまでも「ついで」に付けたのです。
 私自身まさかと思った階段昇降が5年経った今、それが現実のものとなったのです。
 神経を張り詰め、この危険な特訓は考えただけでも頭が痛くなるほどでしたがこれが出来たのは床運動と併せ、寝返りの3年以上にも亘る徹底的に鍛えられた全身のバネと、脊損にとって一番難しいとされる協調運動訓練のお陰でした。

 Cレベル2~5の高位頚髄損傷で、しかも完全四肢麻痺の人が松葉で階段を上り下り出来るなどとは呆れを通り越し、質の悪い冗談と思うのでしょうか。
 今迄一笑に付した人、あるいは『素人が何を馬鹿なことを…』不遜な態度と『…一体まともなのか?』との不審がありありの人達を私は数多く経験しています。 
無理もありません。しかし現実に森さんは出来るのです。
このような人達に私は逆に聞いたことがあります。
 『それでは貴方は一日6時間の364日、それも8年間、想像すら出来ない凄まじい訓練に耐え抜き通すことが出来ます?その強さをお持ちですか?』
 『リハルームに一度でもいいですから上がり、その訓練を見てみますか?皆さん顔色を失い出て行ってしまいます』
私は信じてもらう為にリハビリをやっているのではありません。     
 その実態、内容も全く知らず『何を馬鹿なことを!』と断ずるその見方、捉え方、この固定観念こそ脊髄を損傷した方々への悲劇とさえ思っています。

 この訓練で私が最も緊張し、胸の動悸が激しくなるのは階段の下りです。それは松葉杖で腋がしっかり固定されているため身体に遊びがないからです。
 しかも実に微妙な手足の屈伸・屈曲を使い分け、体幹バランスを維持しながらも、それを受け止める腰の安定が無ければ出来ないことなのです。
リハビリルームでは直線4mの丁度真中に私は座ります。
その理由は、バランスを崩した時、咄嗟に飛び込み下敷きに間に合う距離が丁度2mだからです。また座って見るのも歩く全体像が分かるからで、足の上がりとその角度、腰の捻り肩の振りなどを見るためです。

 森さんの場合、いったん力を入れたら抜く、ということはなかなか出来ません。
その為歩く時には大腿に力を入れて膝を曲げ、足を持ち上げた時、ドン!と曲がったまま床に固く着きます。
 丁度上腕に力コブを入れながら肘を折れ、と言っても出来ないと同じ状態であり、この抜く機能の回復に全力を挙げていたのです。
 曲げた膝頭より、大腿が先に前に出た時、私の声は高くなり、鞭は即座に腿を打ちます。しかし、これも大分しなやかになりました。なによりも顕著な回復はあれほど恐ろしかった脊損特有の咄嗟に襲う痙性がほぼ治まってきたということです。
 その為私達は前よりはいくらか肩の力を抜くことが出来、私でさえ『この人は5年前、本当に瞬きだけ?』と思うときがあります。その時『そうだ!この歩きを講座で見てもらったらどうだろう』と何の脈絡も無くふっ!と浮かんできたのです。
 これは先ほどの何時襲ってくるか分からないあの恐ろしい痙生と反射が皆無といっていいほど見られなくなったからであり、不測の事態はもう起きないだろうと思ったからです。
これが密室から出ることになった大きなきっかけでした。


■300人の前で歩く  

 講演日までもう3ヶ月を切っていました。
3ヶ月もあるなら十分と思うでしょうが、それは脊髄損傷の本当の怖さを知らない人の考えです。
 事故以来5年間、森さんの世界は16畳のリハビリルームが全てであり、その中で立ち、歩くただ一点に精神を集中してきました。たまたま知人が部屋で見ているだけでもガクン!と成績は落ちます。
 ましてや大勢の人達の見ている前で、それも悪条件の数々の中でと思うと『引き受けなければよかった…』と後悔する毎日でした。
 しかも私が森さんに対して動きを取り戻すためのリハビリをやっていることはごく限られた一部の人しか知りません。今迄誰にも言わなかったからであり、16畳の部屋で息を詰める猛特訓を5年以上に亘って行っていたなどとは近所の人さえ『まさか!』と思ってもいないことだからです。

 私の妻さえ、訓練時間には部屋には絶対上げず、その内容は一切知らないのです。これは偏に雑音を一切排除して精神を集中させ、傷ついた脊髄神経に刺激を与えて活性化して繋げるというこの障害の特殊性があるからです。そのため動かしたからといって人に見てもらうなどとは今迄ただの一度も考えたことは無く、何より森さん自身、このような訓練に身体と心がすっかり慣れていたのです。
訓練自体が生活習慣のリズムとして刻み込まれていました。

 講演での悪条件の最たるものは当然裸足で行いますので凸凹と滑り、板のささくれです。次にスポット照明・冷房・カメラのストロボとビデオ・更に私語と咳払い・ボーイさんの立ち居・あるいは聴講する人の途中入場と退席、これらは目の端にちらつきます。 
そして危険の最たるものは突然物を落下させた衝撃音など等です。

 一方、森さんの精神的重圧は何と言っても食い入るように見詰める300人の目です。『見られている』との緊張感と圧迫感は指令により筋肉を動かさなければならない脊髄という伝達回路への大きな負担となります。
当然精神を凝縮する音楽と静寂、加えて私の指令と檄はありません。
全て自分で考えて判断し、それを頭で整理しながら歩かなければならないのです。
不自由な身体を大勢の前にさらけ出しているとの卑屈な気持が負担となり動かないという事は断じてありません。これは退院して真っ先にケァを行い、徹底的に叩き潰しておきました。
 二ヵ月毎との新しい訓練に挑ませる私のやり方をガラリと変えてこれからは講演実技の為のあらゆることを想定した特訓がこうして始まったのです。

 この講演のために訓練内容を変えて新しいものを取り入れる、といったことは一切しませんでした。
どんな悪条件の下でも今迄通りやっていれば出来る筈なのですが、筋肉を動かすのは何と言っても一点に凝縮した精神から発する指令です。
当然この脊髄は脳で考えた意思を運びます。歩く前から『危ない…。何となく不安だ』と思ったら森さんの足は絶対前に出ません。これは今迄散々経験しています。
 最も危険な自立歩行、あるいは階段昇降では最初の一歩が出ません。これは本人が意識しなくても脳が『危ないから足を出すな!』と、あの瞬きだけの事故が強烈な潜在的恐怖となり、トラウマとして脳に刷り込まれているのであり、それが本能的に足をすくませます。
 『それを捨てろ!』『私と美子がしっかりガードしているから絶対大丈夫だ!』と激しい檄を飛ばして初めて最初の一歩が出ます。
この位、森さんの受けた瞬きだけの恐怖は深層心理に潜んでいるのです。

 私は市と主催者、そしてホテル側に前もってかなり綿密に打ち合わせをしました。全身麻痺の人が立ち、歩くという前代未聞のテーマだからです。
 先ず冷房は一切止め、照明は間違っても顔を直射しない事。床に油をひかず、板のささくれ、釘の出っ張りは当日まで完全に直しておき、それを私が確認してから水拭きする事。ボーイさんは動かず、私の合図で森さんと美子がステージの袖舞台から出る事。歩行している最中の出入りは厳禁等などであり、まかり間違うと人命に関わるか、目の前で二度と動くことはない身体に戻るからです。


 当日は素晴らしい天気でした。私はこれに感謝しました。雨が降り、風が冷たかったらこれだけで身体は固くなり出鼻がくじかれます。事前に新聞と市の広報に何回も載っていましたので、相当の関心を持って集まってきていました。
 しかし、あれほど念入りに確認した積りでも、ここで決定的なミスがありました。それは待機している袖舞台の冷房を確認していなかったのです。その為、私の合図で出てきた森さんをひと目見て『これは駄目だ!』と直感したのです。
ところが次々とやり遂げました。
その動きはまるで何かに憑かれたようにさえ私には思えたのです。
『この最悪の条件の下で歩けるわけは無い』と誰よりも私は知っているからであり『これが5年以上にも亘る訓練の本当の成果だったのか…』と私は一聴講生として感動して実に新鮮な驚きを覚えました。

全てが終わった時、私は万雷の拍手が鳴り止まない中、奇妙に寂しい空間の中にポツンと立っていたのです。


■励ましと中傷          

 その反響は非常に大きなものでした。
 事故による脊髄損傷の恐ろしさと瞬きだけだった人が目の前で立ち、歩き、見事な床運動の力感と迫力に深く感動しました、と主催者側に多くの方々から意見が寄せられたといいます。
 何よりも動きを取り戻すために常識をはるかに超えた厳しいリハビリに挑み続けて、ついに5年後それを成し遂げた森さんの気力と信念。不屈で不断の努力に対して皆さんは打たれたようです。
しかし、これは本当に面映い評価です。
前にも紹介した通り、森さんは類い稀な不屈の精神の持ち主ではありません。それどころか本当におっとりしてのんびりしたごく気のいい人です。

それが訓練時間になるとガラリと一変して別人となります。
なる、というよりなってしまった、という言い方が適切かも知れませんが。
『…あんな厳しい訓練によく耐えて…』と涙ぐんで言う人がいます。
 しかしこれは健常者から見て耐えるという同情、あるいは痛々しさという哀れみもあるかも知れません。ここが根本的に違うところです。
訓練に耐えて身体が動くわけはありません。耐えるのではなく、二度と元に戻りたくないからです。
その恐怖が精神を凝縮して『何としても!』と駆り立てるのです。

 成績がガタッ!と落ちる時、あるいは2ヶ月掛けても全く進展の兆しが無い時。それは何ヶ月も続きます。そのような時『ここまでが回復の限界』と諦めかけたことは数え切れないほどありました。
 そのような時は前に書いたように全く別な訓練に取り組み、今まで足をやっていたのが右手1本にと、訓練と気持も切り替えてしまいます。
 このように私達は真っ暗な地面を這いずり回り、ほんの僅かな可能性という路を探り、出口の微かな光を求めて行っては戻り、また突き当たり、迷いながら手探りで辿りついてきたようなものです。

 当日はメディカル関係の方も大勢来ていました。
婦長さん、看護師さん、看護学校の先生などですが、講演が終わりこれらの方々に囲まれ『恥ずかしかった。私達は今迄一体何をしてきたんだろう』としきりに言っていました。
 講演の最中、私は奇妙な人達がいることに気付き気になって仕方ありませんでした。その方達は下を向いて顔を上げようとしないのです。ステージから遠くて誰かは分かりません。後から分かった事ですがそれは森さんの友人達でした。

 立ち、歯を食いしばり懸命に歩く森さんを見ているうち、お下げのセーラー服姿と、学生時代の楽しかったことを次々と想い起し、嗚咽をこらえ、とても顔を上げる事が出来なかったといいます。
 講演が終わり万雷の拍手の中で私が奇妙な空間で感じた寂寥感は『これだ!』と納得しました。
それは『…残酷な事をしてしまったのではないか』という心の揺れです。

 事故以来ずっと励まし続けてくれた友人達がドッと囲み何も言わず腕にすがり、肩を叩きます。どの友人も泣き顔で目は真っ赤でした。
その輪から離れてやはりあの人はいたのです。涙の溜まった目でじっと森さんを見ていました。
病室で森さんの腕を胸に抱き、何時までも髪を撫でていたあの友人です。

 家に帰り部屋に入った途端、私達はびっくりしました。沢山の花で埋まっていたからでした。
 『森さん頑張って』『私達、行けないけど応援してます』『この日を待っていました』ここにも森さんの人柄を垣間見るようで『幸せな人なんだ…』とほのぼの思いました。
それからは連日手紙と電話です。
当日行けなかった人が口伝に聞いての励ましでしたが『もう一度やってくれ』との要望にはさすがに苦笑したものです。
 森さんにとって大舞台とも言える場所での特異な体験から、元の身体に戻すまでには2週間以上掛かりました。
ここにも頸髄という神経の傷の難しさがあります。

 このほとぼりが醒めてようやく本来の訓練に身体が馴染んだころ、私達の耳にこういう世間の噂が入ってくるようになったのです。
『何もあそこまでやらなくても』
『さらし者みたいで』
『重度障害を見せものにして』
やはりというか、案の定というか、私はこういう二極面の評価を充分予測していました。
 瞬きだけの森さんが『何とか自殺できる身体になりたい!』と苦悩と煩悶にのたうちましたがそれすら叶うこと身体ではありませんでした。その末にずり落ちたのは真っ暗な奈落のこれ以上底が無い文字通りのどん底でした。

 どの専門医からも『動くことは無い』と宣告されても、針の先ほども無い万が一の可能性に賭けて、起き上がり、歩くに至った迄の精神力を支えたものは『人間の尊厳を取り戻す!』との血を吐く執念です。
 この5年間僅か5日間しか休めず、一日6時間掛けてジリッジリッと這いあがっては滑り落ち、落ちては爪を食い込ませてにじり上がって来たのです。実際、訓練に携わっている私から見てさえ、その決意は凄みで迫り、肌が粟立つ思いです。
 滑り落ちたら今度こそ最後との恐怖心が飽くなき執念を駆り立て、ずり落ちる身体を支えたのは私と美子ではなく、本人の「気」という迫力です。それがおっとりとした平凡な人が顔付きまで変るまでの過程を分かってもらいたかったのです。

この人達はショー感覚で見にきているのです。
何よりも遣り切れないのは哀れみの目で重度障害者を見下ろしているという事に気付いていない心の貧しさです。
森さんは深く傷付きました。思いもよらぬ中傷に疲れてしまったのです。


■二回目の講演    

 例年のことですが5月から9月に掛けてのリハビリに対する身体の反応は目に見えて弾みがつく回復振りです。
それは北海道の季節と気候が脊髄に損傷を負った身体には負担がかなり軽減されるからです。
 重責損者にとっての大敵は暑さ、寒さの気温の隔たりであり、特に本州での梅雨時と猛暑が長く続く時期の体調維持とその管理には並々ならない苦労をするのです。
 このような時、北海道に住んでいる有り難さを感ずるのも、森さんを通して初めて分かったのです。
その逆に年間を通じて一番調子が悪く、その回復振りが留まったままか、下降線を辿るのが分かるのはやはり11月から2月の間です。これは完璧と言っていいほどの温度管理ですが、ストーブという人工暖房と密閉された中での通気、そして何より陽と風であり、車椅子で散歩が出来ないからです。

 その9月に入ったとき、今度は11月に市と共催する第41回婦人大会での講演を要請されたのです。これは非常に歴史のある団体です。
 前の講演に行けなかった人達に口コミで広がり『もう一度』との強い要望が市の教育委員会、青少年女性室に随分と問い合わせが来たといいます。
いわば最初から外堀を埋められた格好でした。
私は随分迷いました。
 前回は『感動した!』と数多くの方々からの激励を頂きましたが、反面、手痛いしっぺ返しも食い、実に嫌な思いをさせられていたからです。私はそんなことはどうって事はありません。ところが森さんにとってはその気分の不快さと重さが直ぐ成績となって表れてくるのです。
 そこで憐れみを与えるような、また受け取られるような講演は二度とやらないと決めていたからです。

 もう一つの大きな逡巡は天候でした。いくらなんでも季節が悪すぎます。この時期は霙(みぞれ)交じりか肌を刺す強い寒風と思って先ず間違いありません。かえって雪が締まり風の無い真冬の方がずっと条件がいいのです。
考えに考えた末、私は引き受けました。
 それは市役所まで要望がいったという事は前回と違い、間違いなく脊髄損傷当事者とその身内の方々の強い要請に違いないからです。

 そしてこの記事が講演の10日前に新聞の全道版に掲載され、次に講演当日『奇蹟のリハビリ指導』とのタイトルで殊更大きく報道されたのです。
 前回は5年間のリハビリ成果を一般の方達(健常者)に見てもらう、という趣旨から、今回は脊髄損傷当事者とその家族を対象とした講演になるとの森さんが負う重圧感は比較になりません。 
 何よりその雰囲気からして全く違うものになるであろう事は充分に予想されたことであり、しかも前回から半年も過ぎていません。心の準備が間に合わないのです。

1998年11月5日。
講演会当日は前日の小春日和の穏やかな陽光が一変して刺すような寒風、そして横殴りのミゾレ交じりの強風でした。皮肉にもこの小樽で初の冬の前触れである寒波の襲来です。
 完全武装はしたものの、車の乗り降り、会場までの移動で体幹まで固くしてしまいました。
1時間前に行き、会場を見た瞬間『しまった!』と舌を打ちました。私が最も恐れたクッションフロアでそれも磨いて鏡だったのです。
 聞けば掃除のおばさんがこの日のために殊更念入りに磨き油をひいたと言います。これは完全に私のミスで2回の講演の慣れという怠慢でした。
 新聞に出たのが当日の朝刊であり、午前10時の開会に間に合わない地方の方々から『何とかならないか?』『開会を遅らせてくれ』との問い合わせが随分来たと言います。

 定刻になって会場に入った途端、前回とまるで違った熱気に一瞬たじろぎました。前列には車椅子、ペンとビデオを持っている方々は明らかに身内の方です。
 森さんを立たせようとしたその瞬間、『ずるっ!』と両足が滑り、腰が抜けたのです。咄嗟に瞬間抱きかかえ事なきを得ましたが、後頭部を強打して瞬時にして確実に動かなくなる惨劇を見せる講演となるところでした。
 私は満一のためにNASAが開発した滑り止め気泡マットを用意しておきましたのでどうにか立たせましたが、これにより森さんは恐怖心を煽られ、すっかり出鼻をくじかれて一層硬くなってしまいました。
 前回とは比べものにならない最悪の条件の中で、『どうして歩けるのだろう?』と不思議に思う位の足の運びです。

 関節を柔軟にする時間も無く、最悪な床の滑り。しかも今回はステージではなくワンフロアーでの実技ですので1mもない至近距離で息を詰めて食い入るように見ています。障害者本人か家族の方達が多く、少しでも参考にとメモをとり、後の方は立ち、中腰になりながら一つ一つの動作に大きなどよめきと拍手が湧き上がります。
森さんは実に見事に全ての実技をこなしました。
終わった時、後ろの方は総立ちで溢れる涙をぬぐおうともせず拍手を続けています。

 質疑応答に移り『今朝の新聞を見て、私は直ぐ車で駆けつけてきました。7年前C6を損傷し、辛いリハビリを経て何とかこうしてここ迄来ることが出来、先生から皆さんを励まして来い!と言われて来たのです。』と声を詰まらせ訴えます。嗚咽で聞き取れない方もいました。
 森さんの今回の講演は友達ではなく、障害当事者とそのご家族の方達にワッ!と取り囲まれ質問攻めに合い、帰るに帰れなくなりました。
 その緊迫した息詰まる切迫感に私は崩れるような疲れを感じたのです。


■押し寄せる悲鳴    

 私達が家に着くのをまるで待っていたかのように電話の殺到です。
『何としても行きたかったが間に合わなかった』『お伺いしたい』『こちらでも是非講演をして欲しい』『今度は何時やるのか』
これが一段落すると今度は2~3日遅れて手紙がきました。
全道一円はもとより、この記事を送られた本州の方々、果ては外国からも来たのです。当然脊髄損傷の方達ばかりで、それも圧倒的に交通事故による若者が大半でした。

 これは私にとっては全くの予想外な事であり、前回同様、感動と激励の電話と手紙と思っていたからです。
しかし、それは予想もしない重い内容でありまさしく悲鳴でした。
『…これは一体どういう事だ。これからどうなるのか…。』と実に重苦しい訴えに疲れ果てたのです。
 私達はただただ動くため、身体を運ぶ足のために3人が6年近く密室で全力を傾けてきました。とても辺りを見回し、同じ障害に悩む人達との情報交換などは一切無く、またその時間さえ惜しかったのです。
 たまたま一回目の講演では演題を急遽変えただけです。それが思いもよらない反響となり二回目の講演に繋がり、今、こうして切迫した悲鳴が押し寄せてくるとは。
つくづくマスメディアの影響と反応の鋭さに驚きました。

 講演会で実際に森さんの歩きを見た方、その一方、新聞の報道で問い合わせてきた方。これらの方々の反応は見事に次の4つに分かれました。
 講演会に来た方は先ず一様に「奇蹟」といい、そして右近さんは「他人」だから出来た。これが身内ならとても出来ないだろうと言います。
 一方、報道での問い合わせは「受傷程度が軽かった」のではないか。森さんの立っている写真入りの記事を見て、これは記者が間違って書いたのではないか。だからこの目で確かめなくてはどうしても信じることが出来ないから「お伺い」する。この4通りです。

 これが脊髄を損傷して動くこと奪われた本人の率直な気持であり、また介護している家族の偽らざる本音という事も分かりました。
 この方達の障害は頚椎(Cレベル)胸椎(Tレベル)胸椎・腰椎(T・Lダブル)腰椎・仙椎(L・Sダブル)と実に様々でした。
「奇蹟」という事は今迄随分言われてきました。私も奇蹟が動かしたのではないかと思う場面をしばしば体験しています。
 事故により神経のズレか捩じれで一時的に動かなくなったのであり、いつか何かの拍子に元に戻り、動くようになると信じていました。手術に成功したとき『これで動く!』と思ったのです。しかし一切の反応は有りませんでした。
 次に誰しもが思う『よし!リハビリで頑張り動きを取り戻してみせる!』と明るい希望で森さんは張り切って転院しました。
脊髄を損傷した方々は皆このような過程を経るのです。

 しかしこれこそが素人の甘い考えであり、脊髄というものが脳の一部であり、それが躯体の真中に長く伸びた神経線維で形成され、あらゆる運動の指令と伝達、更に内臓器官への調整を司る最重要の中枢神経であり、そこに損傷を受けたら修復、再生はあり得ず、一生動くことは無い、と今迄言われ続けた医学の厳しい定理を突きつけられ愕然とするのです。何よりもピクリとも動かない森さんの身体がそれを証明してくれました。
 救急車で担ぎこまれた時、島田院長が『これはあなた達が考えているほど簡単なものではないんです』これが全てでした。
 ここで初めて素人の安易な考えなど木っ端微塵に打ち砕かれ、頸髄損傷の恐ろしさを思い知らされて、さらに追い討ちをかける医師からの宣告により絶望にのたうちます。

 奇蹟が起きて動いたのではありません。私が課す凄まじい訓練に果敢に挑み、ねじ伏せる迫真の気迫。生きるという崇高さを極限まで追い求めるその努力。全身の神経を一本に束ねる精神の凝縮。これがあっての奇蹟です。
 『右近さんは他人だから出来た』これも散々言われました。私は『じゃぁ身内のあなた達は何故やらないのか』と言います。身内だから出来ない。他人だから厳しい訓練を課せる。これこそが本末転倒です。お互いこのような履き違えた認識の隔たりと、偏った考えがある限り決して動くことは無いと断言できます。
 大体リハビリに他人も身内もありません。障害が重度になるとなるほどその訓練は全て他力、他動に頼らざるを得ないからであり、先ず本人の『何としても動いてみせる』との強い決意があって初めて家族が『何としても動かしてやる』という信念に繋がるのが当然なのです。

 リハビリを施す者、受ける者、双方が親子、兄弟の関係無しに、その時間帯だけ顔が引き締まるくらいの訓練がどうして出来ないのか、このほうが私にとってはるかに不思議です。
 血の繋がった肉親が動かしてこそ、本当の意味でのリハビリテーションと思うからであり、それが身体と心の回復だからです。これは家族しか出来ません。仮にこれが私の妻か息子だったら、私はもっともっと凄まじいリハビリに挑む事は間違いありません。
 根本からものの見方、考え方がかけ離れている無責任な言い方に、私はもう言い返す事もしなくなりました。
その位愚問だからです。

 「受傷程度が軽かったのではないか」これはもう嫌になるほど言われ続けました。辟易を通り越し、うんざりするほど言われました。
 私はこの8年間、訓練に行き詰まった時、あるいは貧弱な知識を補うためあらゆる機会で専門の先生に相談してきました。脳外・整外は勿論一般外科、胸部、腹部外科。精神・神経内科・内科・リハビリ科・皮膚、眼科、耳鼻科、麻酔科・わが国では数少ないジョクソウ専門科・ペインクリニック・泌尿器科、公衆衛生、解剖学などの各先生です。
 眼科、耳鼻科は関係ないと思われるでしょうが、私にとっては違います。それは全神経を集中して歩く時、視覚、聴覚分野が運動に及ぼす影響です。
 麻酔科はベンチレーター(人工呼吸器)とウィーニング(自発呼吸)であり、皮膚科は当然膝、足、肩などに塗る薬剤のアレルギーです。重度障害のリハビリで有名な国内の施設にも森さんのレポートを添えて助言を請いました。

 私には森さんが受けた障害が何を基準として重度か、あるいは軽かったのかは分かりません。比較するなにものもなかったからです。また、そのような症例を勉強する時間が惜しかったからです。
 しかし、瞬きのまま、どんなに目を凝らしても動くことは無かったその身体と失われた感覚。3年以上にも亘り狂気じみた訓練をやって微かな反応を見せた足。膨大な時間をかけて紙1枚すり抜けた手のひら。
しかも森さんを診断し手術したのは、島田先生を含め6人の専門医です。
 更に二ヵ所の公立病院ともう二ヵ所の整形の専門病院で『これじぁ…』と絶句されたのです。一番親切?な言い方で『森さんは頚髄の上部、それも表面に傷を受けたので、これから動くという事はかなり厳しいと思いますよ』
 後の病院では『よくまぁ…呼吸器を付けなかっただけでも』と言われるのが常でした。これらが果たして受傷程度が軽かったのでしょうか。
 甚だしい例として『私が思うに、失礼ながら誤診という事も考えられなくも無く…』と返答を寄越した本州の大きな病院の整外の先生がいました。誤診などは論外として、受傷程度が軽かったとの気楽な診断に島田先生は『それでは森さんの1年に亘る四肢麻痺と感覚麻痺障害は一体どうなのか。それを誤診として科学的に証明するにはどんな事をしても出来ないだろう。これは余りに専門医を馬鹿にした話だ。』と温厚な先生に似合わず声を荒げていたのです。

 大の大人でさえ訓練最中は居たたまれない凄まじい訓練の積み重ねを知らずして、歩いたから『受傷程度が軽かった』と無責任に言う専門医は、私の送ったレポートを読み、そこには『何を 素人が』との不快が見え見えだったのです。
 どうして歩く機能を取り戻したのが不快なのか。そのほうが私にははるかに不思議です。その森さんが歩くのをこの目で見なければどうしても信用できないと言う人が「お伺いする」との講演に来ることが出来なかった人達でした。実際、これらの人達は新聞を見た時『嘘だ!何かの間違いだ!』と思わず叫んだ、という人もいたのです。
 中には『こんな事があろう筈は無い』と何度も否定した彼等の気持は充分わかります。小樽に訪ねてきた方々は当然立つことは出来ず、自律神経も損なわれており、排尿排便の失禁は人間としての尊厳を損なう最大の苦悩でした。
 これらの方々は脊髄損傷の宿命とさえいえる第二次障害の膀胱・直腸障害・自律神経麻痺・体幹麻痺と褥瘡に加え、激しい痙性と反射、耐え難い疼痛とシビレに苦しみ、悩んでいるのです。

『…ところで排泄ですが、どうしてますか?』と一様に遠慮勝ちに聞きます。
 ある方はきっちり時間を決めてコントロールし、別の方は厳密に一日の水分摂取量を管理していました。特に夏場でのその管理の苦労は並大抵ではなく下痢には細心の注意を払い、これが怖くて長時間の外出が出来ないのです。
自由の利く手でお腹を圧迫して刺激を与える人。
コメカミのほんのちょっとした震えで感知するまでになった人。鼻の頭の脂汗。
あるいは額の僅かな汗の感覚で分かるようになった方。
人間として切実なこの感覚さえ戻れば一生歩けなくていい、とまで言った方もいました。
 しかも外的刺激による知覚も麻痺していますので、自分の身体から足が付いているという感覚は限り無くゼロだったのです。

 これらの方々よりはるかに凄いCレベル2~5の森さんが立って歩くなどとは想像すら超えた衝撃的な事と思います。しかも新聞に掲載されたのは紛れもなく立って全身で笑っている森さんの写真なのですから。これが何としても『この目で確かめなくては』とのいてもたってもいられない気持に駆り立てたのです。
こうして私達は予想もしない大きな奔流に巻き込まれたのです。

 報道された途端、本人と家族の悲鳴が奔流のように押し寄せてきました。当然脊髄を損傷した方達ばかりであり、その症状の表れ方も百人百態で、一人として同じ方がおらず、改めてこの障害の複雑さを思い知らされました。何より驚いたのは『こんなにも…』という驚きと、殆どが20歳前半の交通事故による発生という事に強い衝撃を受けたのです。
 
 私は森さんが札幌に入院していたころ、バイク事故で東京から搬送されてきた20歳の若者の顔が強烈に焼き付き、今でも忘れることは出来ません。
 人生を諦めて自らを投げ捨て、全くの無反応となり、感情まで消失したその姿はピクリとも動かぬ人という形、その抜け殻でした。全てに無気力になり、生きていくとの欠片も見出すことは出来ず、堅く、暗く、そして深く心を閉ざしていたのです。
 呼吸器を外す訓練を医師と看護師さんがどんなに説得しても頑なに拒んだのです。それは息が出来なくなるという恐怖でした。その反面、食事は一切拒否して死に急いでいました。この奇妙な生と死の極端なアンバランスの心の揺れは一体なん何だろう、と何時も不思議に思っていたのです。

 ワラをもすがるこれらの人達は今、直ぐにでも駆けつけてくる気配でしたが私は全てお断りしたのです。恐らく『完全麻痺』と宣告されたに違いないからです。私達が6年間近くやって来たことが僅か2~3時間の話では到底分かってもらえる筈はなく、その森さんが目の前で歩くのを見た時、強い衝撃を彼らに与えるだろうとの恐れからです。

『一体これからどうなるのか…』と気の重い複雑な疲れがのしかかってきました。
しかし、公になった以上、私の身勝手な考えは所詮無理でした。

 私はこれらの方々が来る前に今までの資料を整理して送る作業から始めたのです。 
複雑なその症状に対し『こうすれば動く』などの無責任なことは絶対言えないという怖れであり、私は『諦めたら最後だ。その時は動くことを自ら放棄する時だ。』と繰り返し強く訴えたのです。
これらの多岐に亘る資料作りは連日深夜まで及んだのです。

 ベッドから起き上がらせ、端座位と進み、自立を経て、ほんの微かな神経が繋って足が一歩前に出るまで、彼等の想像をはるかに超えた厳しい特訓。
何よりも『何としても這い上がってみせる!』という本人の決意。
このことを分かって貰いたくて資料を送り続けましたが、これをどう受け止めるか。全ては彼等と家族の判断に任せました。
 残念ながら『とても私達には』と諦めた方は勿論いました。これは当然であり、それはそれで自ら選んだ人生であり、私は口を挟むなにものもありません。しかし次に上げる方々は数多く相談に来た中のごくごくほんの一部の方々ですが脊髄損傷の恐ろしさを紹介します。


■揺れる骨                    

 道央圏の市に住む28歳男性。(C6骨折・受傷歴7年。原因、交通事故。上肢一部完全、一部不全。下肢完全麻痺、知覚なし、自律神経障害。体幹失落。排泄障害。) 
 21歳の時オートバイ走行中、ハンドル操作を誤り壁に激突しての事故でした。私は一目見て『あっ!今迄リハビリをやっていなかったな』と直ぐ分かりました。
 それは声です。腹圧がないため鷹揚に乏しく、加えて車椅子座位が辛そうだったからです。このように訓練をやっているかいないかは直ぐその声に表れます。
 森さんの回復で一番顕著だったのはこの声でした。声がしっかりしていると、取りも直さずその座位も安定しています。

 事実8年間、一切の訓練はやっていませんでした。理由は医師が『貴方は胸から下の機能は全廃です。したがって歩く事は勿論、立つことも不可能です』との宣告のためです。
 その為折角残された機能する手に、訓練によって筋力を付け、麻痺した下半身の代替をするという残存機能の活用もなく、筋肉は削げ落ち、上腕は捩じれて鷲手となり、指は折れ曲がっていました。
森さんの退院直後の姿だったのです。
 
 私はこの青年の手足を見て息を呑みました。筋肉というものが一切なく、枯れ木のような骨に皮が巻き付いているだけだったからです。その骨がゆらゆらと動く様は今迄見た事がない不思議な「光景」でした。
しかし、森さんにとっては溜め息の出る羨望です。
何と言っても手が動き、それは完全に頭を超えていたからです。その動く手に訓練の全てをぶっつけ、柔軟にして筋力を付ければ車椅子を自由に漕ぎ、身体を運び、足に刺激を与えることが出来ます。しかも腹筋、背筋強化の自主トレーニングも可能になり、今とは行動範囲は勿論、ADL・QOLの充実は比較にならないでしょう。

 話を聞けば聞くほどこのご家族は本当に優しい人達ばかりだと分かりました。森さんと同じく二回転院を繰り返していますが、その二回とも実に嫌な思いをしたといいます。思い出したくないのか言いよどんでいましたが余程のことがあったのでしょう。
 私には分かります。このような重度脊損者はどこへ行っても邪魔者扱いにされます。人手を煩わし、他の患者のリハビリの邪魔になるからです。そのうち、露骨に退院を勧められるのです。
 動かない人は何をやってもらうにも最後になりますが第二病院では動かないからこそ真っ先にと常に看護師さん達は気を遣ってくれました。

 このように心身ともに深く傷付いた時に入院していたその病院の対応はどうであったか、何よりもそれを決定付けるのは人間性です。
 これら一つ一つがその後、患者と家族に後々まで実に大きな影響を与え、取り返しの付かない結果を生じることは、森さんの経験を通して、また多くの方達の来訪と手紙のやり取りで改めて知らされたのです。
 この青年のご家族の場合、退院してからせめて嫌な思いを忘れさせようと家族で労わり、好きなことをさせたといいます。それが半年になり、1年を過ぎ、何時の間にか何と8年も経過したところへ森さんの衝撃的な報道を知ったのでした。

 リハビリテーションという用語すら忘れ去った遠い過去の事となってしまいました。私はその間の心境は誰よりも分かります。それだけにこの8年間の空白を『なぜ!どうして?』と問う事は出来ませんでした。
 手術後間もなくこの青年は『今から右足を動かすから見てくれ』と精神を右足一本に集中したといいます。10分以上瞑目し『ほら 動いた!いま動いたでしょう?』と叫びました。ところが息を詰めて見ていた家族、看護師さんが『動かなかった』と言ったのです。
 私はそれをきき『何ということを!』との余りの無念さに『これが取り返しの付かないことになるのが分からなかったのか?』と叫びたい気持をかろうじてこらえていました。

これは確実に動いたのです。
青年の中で傷ついた神経が『早く動かしてくれ!』と訴えたのです。     
損傷を免れた神経が、青年の全身から絞り出す『動け!』という命令に脳は『今、動かした』と確かな応えを持って還ってきたのです。
 か細い輪が繋がった何よりの証拠であり、森さんの場合、ここまでなるには一日6時間、ビッシリ刺激を与え続けても2年以上掛かったのです。
 外的刺激に加え、『今動いた』と絶えざる暗示を2年半以上繰り返し、大脳は『今確かに動かした』と認めてくれたのです。

 その反応が出たという感覚、症状、兆候、あるいは自覚と言っていいかも知れませんが受傷後早ければ早いほどそれだけ望みがあり、その後の回復に対する臨床的判断の大きな目安になるのです。
実際、私は森さんを通し経験しています。
 その時期に一切の反応がなく、そのまま2~3ヶ月を過ぎた段階で最も恐ろしい症状の固定化とみなされ、『もう動くことはない』と宣告されます。
この青年は術後僅か数日です。

 脳から微かに漏れた指令があの重い足を動かすわけはありません。命令による筋肉の震え、収縮、表面の僅かな突っ張りと腱の収斂でさえ森さんに行った訓練では私にとって立派に動いたのです。
青年は頭の中で確実に『動いた』と自覚しました。
この病院は北海道でも脊髄損傷に関しては権威があると言われている所です。少なくとも専門病院のプロの看護師として余りの熱意のなさとその知識の浅さに呆れるばかりでした。

 私が森さんに対して行ってきた訓練内容と時間、何より一番大切な精神の集中と本人とご家族の決意等を説明し『あなた達はやっていけますか?』と聞いたところ二人の姉弟はすかさず『やります!』と断言したのです。
『兄貴、やらなかったら俺は便とってやらねえぞ』と言い、妹は『兄さん、ほんとだよ。明日から会社から真っ直ぐ帰ってくる』『おい。おまえ達、そんなに俺をいじめるのか』と言っていましたがこの親子兄弟は本当に仲がよく心底羨ましかったのです。
『お母さんは?』と聞きました。ジッと俯き、しばらく考えた末『…私には恐らく出来ないと思います』こう言ったのです。

 この返事を聞いて私は安心しました。『出来ます』というのは嘘だからで、この厳しい訓練を我が子に課せる母親は先ずいません。無理なのです。
 森さんのころに実際に訪ねて来たご家族の中で、ごく一部の方を除き、母親は訓練を行っていませんでした。それほど重脊損者への訓練はお互い妥協の無い厳しさが要求されます。
 脊髄を損傷した多くの方々が訪ねてきましたが私は『これは余程気をつけなければ』と強く感じました。それは『私たちも森さんのようにやれば立って歩けるようになる』との短絡的なその発想です。

 在宅で最重篤頚髄損リハに挑んだ時の無の心境。寝たきりから抜け出すために費やした想像もつかない時間の積み重ね。いくらやっても一切の兆候を見せなかった四肢。『とうとう負けた』と打ち負かされながらも這い上がって本人の執念。激を飛ばし、鞭を打った果てしの無い叱咤激励。神経の精緻さに慄き、ついに滑り歩いた感動に震えたあの瞬間。指を動かすために精神を研ぎ澄ました神経伝達訓練。何より『人間の尊厳を取り戻す』という森さんの凛とした姿勢。
 これらの経緯はあらかじめ資料を渡して充分理解していると思っていたのですが、いざ森さんの歩きを目の当たりにした時、闇に閉ざされた扉がサッ!と開き、まぶしい陽に幻惑される認識の甘さを強く感じたのです。
それが重圧となって重くのしかかってきます。

 私は森さんを立ち、歩かせる、との目の眩むような幻想で訓練を始めたのでは決してありません。『ベッドから離脱させ、椅子に座らせる!』という1cm先の直ぐ手の届きそうな所に目標を定めました。その1㎝進むのさえ546日掛かったのです。この積み重ねを繰り返し、結果的に8年間掛けて48歩、歩いて来たのであり、これは青年が諦めていた8年間です。


■目の前の1mm                                                                                                   

 この青年の場合、何と言っても訓練を一切やっていなかった8年間の空白という厳しい現実があります。これはある意味では症状の固定化の最たるものかも知れません。
 しかも筋肉の削げ落ちた両腕と両脚は医学用語で言う「廃用性萎縮・廃用性症候群」の典型でしょう。
『動け!』という命令と併せ、関節を揉み屈伸させる外的刺激という糧(栄養)を8年間与えられなかった運動・感覚神経と筋肉細胞は文字通り廃になり萎縮してしまったのです。
 このかろうじて残った筋肉細胞を活性化させて増やし、息を蘇えさせるには私が森さんに対して行った2年以上にもわたる神経に意思を通じさせる訓練に匹敵する位、いや、それ以上根気を要することかもしれません。

 立たせ、歩かせるという目標の見えない途轍もない到達点を目指して始めたならたちまち方向を見失い、挫折してしまうことは目に見えています。
先ず1mm先に進むという現実的な訓練を強く勧めました。
このような場合、目に見えない1㎜を1年という月日の単位で繋げてみれば分かり、1年後に振り返ってみて10cm進んでいれば、これはもう立派な回復です。
果たして本人と家族がその訓練に要する夥しい時間と努力に耐えうるかどうか。この差は決定的であり、これからの一生は誰が決めるものでもなく、自分で決めると言っていいでしょう。諦めたらもう二度とチャンスはきません。

 それでは『どこから?』との問いに、何と言っても車椅子でのしっかりした座位姿勢保持訓練が真っ先です。
その為には当然腹筋強化訓練ですが、これには呼吸訓練が最も重要なのです。そうしてこの訓練の成果は驚くほど早く出てきます。前屈から自力で身体を持ち上げられたらもうしめたものです。

私は森さんを立たせて歩かせ寝返りをさせました。
青年は一言も発せず食い入るようにジッ!と見ていました。
妹さんは目をしばたたかせ、弟さんは腕を組み天井を仰いでいます。
お母さんはとうとう顔を覆ってしまいました。

 森さんがリハビリを始めたのは55歳の半ばで健康人でもこの年になると筋力の衰え、倦怠、疲労感など様々な愁訴があります。まして青年とは比較にならない重い障害であり、この方の20歳代の若さに私達は溜め息の出る羨望を感じます。しかも決定的に違うところは手が上がり動くことであり、これは望むべくも無い余りの条件の良さです。
 『森さんの障害は貴方とは比べものにならない重度なもので、ましてリハビリを始めたのは55歳の時です。』この事実がどんな叱咤激励より本人と家族にやる気を起こさせます。

 人間は弱いというか勝手というか、またとりようによって残酷というべきか。自分より、より重度障害の人、酷い人を知るとそこに安堵を覚え安心します。
そのような意味で森さんはこれらの人達への格好のモデルでした。
 青年の家族の方とは何回も電話、手紙のやりとリをしています。その手紙です。

『あの時偶然読んだ記事がこのような展開になるとは私達は全く予想もしていませんでした。次の日から息子は少しでも森さんに近づこうと一日2回、リハビリを始める固い決心をしました。口には出しませんが息子は私以上に誓っているのが分かるのです。森さんを見て私達は勇気と希望、そして何より努力する事の大切さを教えられました。息子は変りました。でもまだほんの一歩踏み出したばかりです。若さに期待しながら手を貸して行きたいと思っています。あの記事に目を通していなかったら、と思うとぞっ!とします。この巡り合わせに心から感謝しております』(原文のまま)

次の手紙にはこうも書かれてありました。

『息子は事故後、先生に『もう歩く事は出来ない身体だ』と宣告されたとき、自分はこうなるべくして生まれてきたのだ。これは生まれた時からの運命なのだ、と言ったのです。私はそれを聞き、我が子ながら余りの冷静さに感心し、逆に私達が励まされていたのです。事故を素直に受け容れることで自分を納得させたのでしょう…』

私、森さんは『それは違う!』と言いました。
事故を素直に受け容れる訳はないのです。こうなる迄には想像も付かない激しい懊悩と『何であの時に…』との悔恨。そして一筋の光明にすがる煩悶と葛藤が日夜青年に襲い掛かり苛めた筈です。
 それが宣告により断ち切られた絶望と挫折の深い傷。この残酷な繰り返しが来る日も来る日も青年に鞭を打ち続けたはずです。これは受け容れたのではなく、自分の中に封じ込めたのです。母親にさえ素直に受け容れたと思わせるほど、この青年の優しい心遣いを強く感じます。

 在宅訓練では誰か一人、「非情」に徹しなければなりません。全て他力に頼るからです。
『何としても動いてみせる!』という自分に対する頑なな非情。
『どんなことをしても動かしてみせる』との家族の非情。
訓練を行っている1時間、親子、兄弟の関係をスパッ!と断ち切る非情。
これが全てです。
帰り際、青年はポツンと言いました。
『この8年間、さぼっていたなあとつくづくいま思い知らされました…』
そして帰る時、車の後部座席から精一杯首を捻り、何時までも骨の手をゆらゆら振っていたのです。
『歩く事はない』と宣告された無念さの全てを、これからの訓練にぶっつけ、立ち上がって欲しいと手を合わせ祈る気持でした。


■カーテンの陰に隠れて                                                                                      

 オーストラリア在住の日本人大学生、28歳男性。実家は札幌郊外。(L1破裂骨折・仙椎損傷。L1~S1損傷。原因、交通事故。受傷歴3年・下肢完全麻痺。右足一部不全。知覚なし。自律神経障害。排泄障害)
 この青年は都市デザインを専攻している大学生で、またスキューバーダイビングのインストラクターでもありました。日本から来た若者のアベックをダイビングポイントに案内していました。青年の帰国直前です。その途中、車がスピンして路肩に激突し、後部トランクでの荷崩れで腰を直撃したのです。

 脊髄という中枢神経はC1(頸髄)~L1(腰髄)辺りで終わっており、この青年は咄嗟に頭を庇うため腰を深くかがめたため、腰椎と仙椎を直撃されたのです。
 彼はこうしてL(腰髄)とS(仙髄)のダブルで損傷を負ったのです。かがみがもう少し深ければ仙椎か尾椎で済み、これほどの障害にならずに済んだ事を思えば実に運が悪いとしか言いようもありません。しかも事故直前まで青年が運転していて、観光に来た女の子が運転を変ったばかりという残酷な不運が続きます。
 後部座席のためシートベルトをしておらず、咄嗟に身をかがめることが出来ました。これが固定されていたならとてもL・S損傷ではすまないでしょう。間違いなくT(胸椎)、あるいは最重度のC(頚椎)を直撃されて、青年の人生は目を覆う残酷なものになっていたことは疑いありません。スポーツ万能であり咄嗟の反射神経が間一髪で実に大きな明暗を分けました。

 広大な国での事故であり、救急車でも片道2時間以上掛かる場所のため、とても救急処置には間に合う筈もなかったのですが、駆けつけたドライブインの女主人が元看護師であり、事故直後の適切な処置と指示が実に大きな功を奏しました。直ぐ小型飛行機で脊髄損傷科のある大学病院に運ばれました。
森さん同様、この青年もまた運が付いてまわっていたのです。
日本から駆けつけた両親が『息子は歩けるようになるでしょうか?』と訪ねたところ、言下に『NO!』と強く否定されたといいます。
 両親が私達の新聞記事を現地にFAXしたのです。その両親が訪ねてきました。分厚いカルテと訓練記録の詳細も持ってきましたがそこにはこう書かれてありました。
『彼はL1とS1の破裂骨折により瞬時にして足を動かす能力を失った。運動神経の完全麻痺と、知覚レベルの麻痺を伴い、また自力での排泄は困難と思われる』『CTスキャンで見る限りL1に破裂骨折と脊髄導管の75%が変形。その結果脊椎圧迫を伴っていたことを確認され、手術により骨折は内部的に修復され、脊髄は圧迫から解放された』大体このようなことが記載されていました。
 そこで徹底した理学療法・水治療・作業療法・治療体育・排泄機能回復訓練などの結果、急速な回復の兆しを見せたのです。

 日本では『動かないものはどんなことをしても動かない』と先ず告知し、この事実を受容(諦め)させ、あとは損傷を免れた上肢(手)の訓練を間違いなく行ないます。これがいわゆる「残存機能活用訓練」であり、その代表が車椅子漕ぎです。ところが上肢は残存でもなんともなく、もともと損傷を受けずに機能する手なのです。しかしここでは下肢1%の可能性を求め続け、ありとあらゆる訓練をさせるその対応の余りに違いに考えさせられます。 青年はこれで助かりました。             
しかもその努力がまた凄いのです。
 
 医師の『NO!』との強い否定にも決して諦めず、病院での訓練が終ってもなおカーテンの陰に隠れて、一人で黙々と訓練をやっていたのです。そのことを病院側としてずっと後になって知り、この驚きがカルテに素直に記載されています。その原文です。

『この日本の青年は驚くべき努力と共に強靭な精神力で医学の常識を超えた回復振りを見せた。…そのことに我々は深い感銘を受けた』

日本では考えられません。大体リハビリ時間外にそれが分かった場合、強制退院かよくて厳重注意です。不測の事故で病院側の管理体制を問われるからです。
 『立つことも歩くことも不可能』と臨床的に断を下しながらも一旦リハビリ科に移った途端、徹底した訓練をさせて機能の回復を図るその積極性。
 諦めさせ残存機能活用訓練と称し、プッシュアップ(手を使ったお尻上げ)と車椅子漕ぎに移行する我が国のやり方とその発想。
 しかもカーテンの陰に隠れて訓練を続けていたこの青年を『深い感銘を与えられた』とカルテにも、トレーニング日誌にも感嘆して記載されているのを見たとき、余りの度量の違いに嘆息します。
 その努力が実って足に装具を付け、ロフストランドクラッチステッキ(肘杖)、そして2本ステッキを経て、今では1本ステッキで歩けるようになったのです。

 このご両親にも森さんの全てを見てもらいました。
 息を詰めて見ているのが分かります。目の前で寝返りし、歩いている人が本当に瞬きだけだった人なのかどうしても信じられないようでした。
 訓練内容・その方法・器具など実に熱心に質問して、奥さんはしきりにメモをとっていました。そして『ようやくここまでなれたのです』と言って青年の写真を取り出しました。183cm、それもスポーツで鍛えた実に堂々たる体躯です。
 私は一目見て『あっ!これは腕で立ってる』と直ぐ分かりました。そして『…これは今の内に矯正しないと大変なことになる』と思ったのです。

 確かに足に装具を付けて2本ステッキで立っているのです。その腕は自分に課した厳しい訓練を窺わせるように太く、筋肉は盛り上がり逞しい腕であり上肢です。しかし身体は傾いていたのです。何より逞しい上肢と釣り合いが取れない下肢、特に腰でした。
 私は青年の歩きを見なくても大体想像出来ます。大きく跛行して身体を傾けて、しかも一番肝心な腰では歩いていない筈です。

 私は森さんに特にうるさく注意するのはこの腰であり、歩きの形と姿勢です。これには峻烈という厳しさで臨みました。腰を捻じ曲げて身体の中心点を極端にずらし、バランスを崩して歩く位なら私は歩行訓練など絶対やらせません。
若いうちは無理が利きます。しかしいずれ関節に無理がかかり取り返しの付かない身体となってその悲惨さに目を覆うでしょう。片麻痺の方の跛行とは根本的に違うからあり、支持点という踏ん張りがないからです。そのため全体重が負荷となって腰にのしかかるのです。

 私は身体が動く全ての基本は腰から、という一番重要なことに気付いたのは訓練開始後1年半以上経ってからでした。足は勿論、手の動きにさえ腰が利かなければ訓練になりません。それからは床運動を取り入れて猛烈な訓練を行い、徹底した腰部と腹部の強化に努めてついに立つことが出来ました。
それほど腰は字句解釈どおりの身体の「要」なのです。

 この青年はリハビリ時間外にもカーテンの陰に隠れ、しかもアパートに帰ってからも黙々と頑張り通し、専門家がついに医学の常識を覆したと言わしめた機能の回復振りを見せました。その気力・努力・迫力・精神の集中力。どれ一つとっても私が森さんに対して行ってきた訓練をまざまざと見ます。
 私には青年の『何としても立ってみせる!』という自分に鞭打つ檄が聞こえます。その激しい息遣い、歯を食いしばる苦しげな顔、その汗も見えるのです。
 それは不可能と言われ続けてきた脊髄損傷の訓練に携わった者でなければ到底分かり得ない立つことへの執念であり、それ故に深い畏敬の念に言葉が詰まります。

しかもたびたびかかとに深い潰瘍を負うのです。カルテにはこう書かれてあります。
『彼のかかとの潰瘍は非常に深く、第一中足骨の突端まで発生して、そのため足病科に半年ほど治療を受けざるを得ない状態であり、その都度リハビリは中断し…』
これは前に書いたリハビリシューズでありこのことは病院でも認めています。痛覚が失われているため骨が見える位、この青年は歩くための凄まじい訓練をしている何よりの痛々しい証拠です。
それでも足に分厚い包帯を巻きながら訓練を続けています。      

 立つ、歩くことへの飽くなき執念がいかにこの青年を駆り立てずにおかないものか、私は余りの凄絶なその努力に圧倒されて言葉を失い、震えがきます。
しかしこれが一人で行うリハビリの限界なのです。
立ち方、歩き方は一番歩きやすい自分流の癖がついてしまうのです。
私は森さんに歩きに関してのマニュアルを作り、それを厳しく要求しました。

 何と言っても腰の安定。これが全てでそこから姿勢が決まります。
歩幅、足首の曲げ、膝曲げの角度、大腿部の出し方、バランスのとり方、足上げの高さ、接地の仕方、およそ歩きに関する全ての形を身体と脳に刷り込みさせたのです。
『その結果これが頚髄損傷の人か』と皆さんが驚きます。
 どうしてここまで私は歩きにこだわるのか。それは捩じれた腰、硬い関節、曲がった手足、偏った筋肉の着き、これらの矯正に膨大な時間を費やしたからであり、退院した時のこの形状を治してからでなければ本来の訓練に取り組めなかったからであり、辛酸を舐めたからです。

立つとは姿勢をただし真っ直ぐ、というのが本来の意味です。
この矯正はそれほど難しく、夥しい時間を食い(浪費)したからです。
この青年の場合も一人での限界という危険性を感じました。
全く違う角度から見る第三者の目という鏡が必要なのです。
数日後、お母さんから手紙がきました。

『新聞を拝見してワラをもすがる思いでお電話致しました。息子はリハビリ時間が終ってもなおカーテンの陰に隠れて黙々と訓練をしていた事を病院から知らされ、その気持を思うとき、母親として余りの痛ましさに言葉がありませんでした。あの子は本当によく頑張った、とこれだけははっきり言うことが出来ます。家にいるときはとにかく優しく呑気な子だったのです』『親としてどうしても諦めきれない3年間でした。しかし、3年が過ぎてその気持もぐらついて参りました。あの新聞を見て実際に森さんをお訪ねして、お陰様で希望が確かなものとなりました。そのことがしみじみ嬉しいのです』(原文のまま)

その文の一字一句に母親の涙が見えます。
森さんが立ち、歩くまでには本人も含めて3人の筆舌に尽くし難い特訓がありましたがその努力を支えたものは何より数え切れない周囲の温かい善意です。
 しかし青年はたった一人で、それも外国で成し遂げ、これが言下に『NO!』と強く否定した医師とセラピストに深い感銘を与え『この日本の青年は医学の常識を覆した』とまで言わしめた揺るぎのない強い意思と、立ち上がり歩くための凄絶な執念に対して、脊髄はついに動く足を青年に与えて、その努力に報いてくれました。 
私は同じ訓練に携わった者として深い感動で言うべき言葉もありません。 
立ち、歩けるようになる前、一時帰国した青年は、日本での医者から『歩く事は出来ません』という宣告と周囲の好奇の目。そしてリハビリテーションそのものの考え方と熱意と取り組み方。何より脊髄損傷者への訓練技量の余りの差に愕然として直ぐ帰ってしまったのです。 

『僕はオーストラリアだから歩けた』と手紙が来たそうです。この青年は森さんのところに来るのを非常に楽しみにしていました。

1999年7月。青年は森さんの所に来ました。

写真でみるよりはるかに大きくそして逞しい身体です。3年間の訓練とトレーニングジムで鍛えた身体ということは直ぐ分かりました。
 森さんの所には今迄数多く脊髄を損傷した人が来ましたが私は一切の説明抜きで先ずその動きの全てを見てもらいます。それは『よし!』と決意した人。『…これじぁとても』という方がその反応で大体分かるからです。
 一人で来ることは出来ませんのでご家族がついてきますが、立て続けの質問、ビデオと録音、メモを克明にとっている方は頑張りぬいていくと思って先ず間違いありません。訓練の成果は身体に表れてきているのは当然です。
 反面、『…これは続かないだろう』と思った方は勿論います。森さんの動きを見たときから気負わせられ、諦めてしまった目です。

 私は青年に歩いてもらいました。足首に簡単な装具を付けて見事に歩きます。驚いたのはそのスピードで私達と何ら変りありません。
 『どうしてそんなに早く?』と聞いたところ『皆と同じ早さで歩きたかったから』と言うのです。しかし、私が思った通りその歩きは大きく跛行していました。
例えは非常に悪いのですが、丁度シャクトリ虫が縦に歩く様だったのです。大きく身体を前後に揺らし、何より腰で歩いていなかったのです。
 身体がバランスを崩す前に素早く繰り出す次の足であり、そのためのスピードだったのです。そして手に持った1本ステッキはその揺れを支える何の役目も果たしていませんでした。
 私は歩くためには腰がいかに大切か、そして一旦癖のついた歩きを矯正することがどれほどの苦労と時間を要するかを森さんがモデルとしてやってみせました。
 
 立ち、歩くためには必ずやらなければならない手順、という順序を踏まなくてはなりません。
 先ず何と言っても腰と腹筋強化。これは当然です。次に病院などでよく見かけるキャスターの付いた歩行補助具に上体を預け、足に負担を掛けずに歩く感覚を呼び覚ましてやります。森さんの場合これを徹底しました。それを経て松葉、肘ステッキ、2本、1本と進まなければなりません。
 青年の場合、腰の強化をせず腕で立ちました。それは並外れた筋肉を見れば直ぐ分かります。青年はじっと森さんの歩きを見ていました。

 次に足の感覚ですが残念ながら一切の反応がなかったのです。しかし一ヶ月ちょっとの滞在中、お母さんはうつ伏せにして懸命に揉み、叩き、電子鍼で刺激を与える毎日でした。そして帰る2~3日前、電話が来たのです。
『右近さん!あの子が!あの子が…。足に微かな感覚を感じたというのです!』
ついに長い眠りから感覚神経は目覚めかけたのです。

 『何を馬鹿な!たった一ヶ月で』と思うでしょう。しかし、これこそ脊損のリハビリを経験していない方の常識的な観念です。うつ伏せの刺激はどんなことをしても自分では出来ないのです。ですから他力となります。つまり今まで一切刺激を与えられなかった部位に対する揺り起こしなのです。
 また、この微かな目覚めというのは厳しい特訓を3年以上にわたって続けて来た身体の運動・感覚神経への刺激の蓄積なのです。私へのメールにも『今日もジムで自分を苛めています』というようにその訓練は「さいなめ、いたぶっている」という表現しかあり得無い凄いものなのです。

 森さんの場合もこの青年と全く同じで、先ず運動機能が回復し、それにつれ感覚、知覚神経が目覚めました。その期間も3年少し。
何と言う偶然でしょう。
1年後、青年は見違えるほどの回復振りを見せてくれるに違いありません。



2000年7月。青年は再度森さんのところにやって来ました。
一目見て私と森さん、そしてアシスの美子が『えっ!これがあの青年?』と驚愕しました。見事にあの奇妙な立てブレを直してきたからです。
 空港の到着ロビーに出迎えたお母さんは、大勢の乗客の中からひと際上背が高い息子さんの歩き姿を見て『あっ!』と驚いたといいます。
 私は青年の努力にほとほと感心しました。森さんを見て勇気と力付けが後押ししたといいます。勿論完全な矯正ではないのですがそれにしても1年前とは別人です。
 何よりの違いは足が温かい事であり、1年前は真夏に厚い靴下を履いていたのにも関わらず冷たかったのが、今では靴の中に汗が溜まるほどだといいます。感覚と同時に自律神経の目覚めです。

 2年前、森さんのところに初めてご両親が来た時、お母さんはどんな小さなことでも聞き漏らすまいとメモを取っていた切迫感に私はたじろいだのを思い出します。今は一言も喋らず、息子さんの動きをにこにこと笑いながら見ているのです。 
 私は当時、ご両親からこの青年の話を聞き『これは今に医学の常識を覆すことになるかも知れない』と思ったものでした。 やはりその通りになりました。
 青年は大学での専攻科目でコンピューターを扱う関係上、常に世界からの最新の脊髄損傷に関する情報を入手しています。『脊髄再生・移植の日は遠からず必ず来ます。その日のためのリハビリです。そして真っ先にアメリカに行って受けてきます。ですから楽しんでリハビリをやっているのです』

2000年12月25日。クリスマスメールにはこう書かれてありました。
『今から2ヶ月ほど前、右足の土踏まずの辺りに感覚が戻って来ました。それでグンと弾みが付き、今では2時間近く掛けジムで自分の足をさいなめています』
私が今回彼に与えた課題はハムストリングの強化です。1年後、この青年は私達にまた新鮮な驚きの姿で現れる事を確信しています。


■残酷な青春    

 空知管内に住む22歳の娘さん。(胸椎損傷T9骨折。受傷トル原因・交通事故。受傷歴4ヶ月。下肢完全麻痺。自律神経麻痺。排泄障害・知覚無し)

 講演当日の朝刊に記事が掲載されため、多くの方達が駆けつけることは出来ませんでしたが、この方は車で2時間くらいの距離にあり間に合ったのです。お母さんが当日会場に来ていましたが、最前列に座ってそれこそ食い入るように見ていたのが公演中ずっと気になっていました。その真剣さに『…身内の人が脊髄損傷なのだ』と思ったからです。

 現在は地方の総合病院に入院していますが、整形、脳外は勿論、ある意味ではこの娘さんの心を支える神経内科も当然ありません。
 何より担当医が酷すぎます。『娘はどうなんでしょう?』『胸の9番だから歩けないよ』『本当ですか?』『そう。歩けないし立つことも出来ないよ』『絶対ですか?』『そう。絶対と言っていい』いとも簡単にすんなり言うといいます。それも回診中、娘さんの目の前です。
『医者は何と残酷な事を平気で言うのでしょう。嘘でも言いからもう少し希望を持たせる言い方は出来ないんでしょうか』と激しく泣きながら私に言います。

私が最も恐れるのはこの断定したものの言い方です。
それは受傷後間もない人ほどその衝撃は激しく、決定的な絶望を本人に与えてしまい、それだけに言葉を慎重に選び、気を付けなければならないのではないでしょうか。しかも受傷後僅か4ヶ月のそれも娘さんです。
 医学的知識がゼロの人が医師から『あなたは立つことも歩くことも絶対出来ない』と断定されたらどうなるか。以後本人はリハビリどころか、生きていくことさえ億劫になり、何事にも反応しなくなり心を閉ざしてしまいます。
 案の定この娘さんはこの最悪の典型となりました。22歳の娘さんに対するそれは、余りに酷い人生を断ち切る宣告です。
 このお母さんも森さんを見て感動に衝き動かされ、熱心にメモをとっていました。『私達は絶対諦めません。私は必ず娘を治し、立たせます!』と言い『おまえはいい子だ。いい女だ!必ずお母さんが治してやる』と励まし続けていると言っていました。

その手紙です。

『森さんのことをそれこそ夢中で娘に聞かせました。森さんの存在が私達親子にとってどれほど励まされ、勇気を与えられたことでしょう。くじけそうになった時、行き詰まり絶望しそうになった時、私は何もかも忘れて森さんのところに行きます。』(原文のまま)

この母親の娘を助け起こす一途には圧倒する凄みと迫力があります。私も下手なことは言えない怖れをもって今までの訓練の全ての資料を渡しました。
それから連日関節を緩め、揉み、刺激を与え続ける毎日です。
その結果ついに兆候が表れました。
 刺激を与えると足の血管が浮き出て温かくなり、驚いたことに身体全体に汗をかくようになってきたのです。しかも足に確かな反応さえ表れてきました。脊損特有の痙性の走り、不随意運動ではありません。それは微かとは言え明らかな意思を伴った動きです。
 これらの揉み、刺激で夜はぐっすり眠れるといい、しかもお腹と腰がむずむずし、『お母さん。何か変だ』と訴えるまでになったのです。これこそが脊髄の脇を通っている交感神経、副交感神経が刺激によって目覚めかけ、自律神経が起き上がりかけた何よりの証拠です。
 何回も言うようですが、森さんの場合一日6時間のリハビリでこの目覚めが3年以上掛かったのです。

『お母さん。森さんは私のように管をつけておしっこしているの?』
『頑張って森さんは外せたの』娘さんは淋しそうに『そう…。私は情けないね』
お母さんはすかさず『その情けない、というお前の言葉をお母さんはずっと待っていたんだよ。情けないと思ったらその管を外すように頑張ろう!』こう言ったそうです。
 話を詳しく聞きましたらこの病院の医師全てが脊髄損傷患者を扱ったことがなく、医学書からの知識でした。それは脊損、即機能麻痺。回復は絶望、リハビリ対象外、したがって残存機能を最大限活かす事。
どの人も今迄散々言われた教科書通り一言一句そのままの宣告でした。

 森さんが退院するとき『残された機能を最大限活かす事』と言われました。
その残された機能とは「瞬き」です。
 そんな非常識なことを言うより『うちではとても手に負えなかった』『頚髄損傷の完全四肢麻痺は初めてで』と素直に認めてくれたほうが余程人間的であり私達も納得します。
 しかし、数多く脊髄損傷者の症例をこなしてきた脳外・整外の専門の先生方は決してこのような言い方をしなかったのを私は知っています。
 確かに数は少なかったのですが『諦めるな』『神経の再生は可能だ』『刺激を与え続けなさい』私はそれに賭け、その言葉を信じてリハビリをやってきました。いや、それを言ってくれた先生の人間性を信じたのです。
専門医の言葉はそれだけ重みがあり、人の一生を決定付ける怖さをつくづく感じるのです。

 私達は今迄筆舌に尽くしがたい訓練をしてきた積りです。しかし『何としても娘を動かしてみせる!』『どんなことをしても娘を助ける!』この強い信念。その迫力。その気迫を以って絶望宣告に敢然と挑戦する母親としての凄みさえ感ずる愛情に胸が潰れます。
 この熱意こそが動かすため、動きを取り戻すためにこれから始まるであろう実に厳しく長い訓練を乗り切るだろうと確信しました。なぜなら決意と信念が伴わない訓練はいつか必ず挫折すると私は固く信じているからです。


■歩ける足をもぎ取られ                                                                                      

 東北に住む38歳の主婦。(C6~T1損傷。原因、階段落下。下肢完全麻痺。上肢不全麻痺。胸から下知覚消失。自律神経失墜・受傷歴40日)

 この方は今まで来た方の中で典型的な急性期です。森さんに限らず,事故というものは考えられない不運の積み重ねにより、一瞬にして動く機能を奪ってしまう恐ろしさを思い知らされます。この方もそうでした。
 夜中トイレに行こうと歩いた時、そこはトイレへの廊下ではなく階段の下り口でした。足は宙を掻き、まっ逆さまに転落して、そのもの凄い物音にご主人が飛び起きて抱きかかえましたがピクリともしなかったといいます。これは今迄住み慣れた家から新築のアパートに移り住み、身体に記憶された前の家の記憶がまだ切り替わっていなかったためです。
 札幌に住む叔父が11月の講演を知り、直ぐ連絡して来ました。すなわち事故直後のことです。

 『自分で言うのはおかしいですがあの子は本当にいい子です。明るくて活発で…。子供はまだ小さいし。それがこんなことになって』と父親は無念の涙を流すばかりです。
 案の上、病院では機能全廃、回復不能を宣告され、念入りに何回も『絶対』と強調して駄目押しされました。当然リハビリとは名ばかりの全く意味のない毎日でした。間もなく退院させられ個人の整形医院に入院していたのです。
 私は全てのデータを渡して、帰り際『せめて北海道なら行ったり来たりして情報の交換をしながら私も訓練のアドバイスを出来るんですけど』と別れました。
 ところが1999年の春、突然『私達は一家全員引っ越して実家でリハビリに専念する事になりました』と連絡があったのです。それから間もなく千歳に着いたその足で森さんを訪ねてきました。
 私は一目見て『あっ!これは助かる』と思ったのです。なぜ瞬時にそう思ったのかはうまくは言えませんが強いて言えば勘です。

 先ず父親と叔父が言った通りの明るさと活発さ。挑戦してみようとの探究心と意気込み、加えて粘り強さ。『私、寝ぼけて階段から落ちて動かなくなってしまった』と実に屈託ない切れのよさ。そしてご主人と肉親挙げての協力態勢。実家の資金力。住まいの環境。
 およそ立ち上がるためのありとあらゆる条件が備わっていた珍しいケースでした。早速森さんに歩いてもらい床運動、寝返りなどの全てを見てもらったのです。そして『今にこの人は必ず立ち上がり、歩く』と確信したのです。それはこの人の表情、とりわけ目です。実に生き生きと溌剌としてまるで楽しいものでも見ているように非常な興味をもって見ていたからです。

 今迄数多く来た方の内、このような反応を示した人は先ずいません。全員といっていいほどけ絶句と溜め息、深い嘆息、そして悔恨と重い沈黙でした。
 この人の中には自分に降りかかった未曾有の災難すら素直に受け入れて,しかもそれを跳ね返す強靭なバネと明るさ持っているという事はすぐ分かりました。
 辛く長い訓練を行う上で一番大切なのはこの性格の明るさ(前向き思考)で森さんもこの方と全く同じです。これは多くの専門家も指摘しています。何よりも感心したのは悲愴感が全くなく『必ず歩いてみせる!』との躍動する漲りを強く感じたのです。
やはりその通りでした。

 『絶対』と何回も宣告されてもものともせず、決して諦めず、病室で自から工夫した独自の訓練に励み、そのため健康人そのものの手足でした。しかも筋肉の衰えなど一切なく、いま直ぐにでも立ち上がり動く足だったのです。
 そしてこの方の凄いところは目標をただ一点に絞り、それに全力を挙げたことです。その目標とは。 当然尊厳に関る排泄でした。
 人間の尊厳を取り戻すため、懸命に努力してついに導尿カテーテルを外すことに成功したのです。しかもトイレに行きたい時は自分の意志でベッドから車椅子、車椅子から便座へと誰の手も煩わせず入院期間中それを成し遂げたのです。
この間、半年余りです。
 これらの毎日毎日の訓練による刺激のお陰で身体全体が柔らかく、張りがありました。しかも私が揉み、屈伸させて電極で刺激をすると全てに確かな反応があったのです。脊髄を損傷していますので当然、無反応の部分はあります。しかしこの方は持ち前の積極性と明るさで、この反応する点と無反応の点を今に必ず結びつけると思ったのです。

 この例からして私が考えさせられた事はこの方に限らず、動きを取り戻した人には次のような確実な共通点あるという驚きです。
先ず何と言っても「諦めなかった」事が根底にあり、これは当たり前です。
 リハビリに見放されたからこそ「自分で考え工夫」した独自訓練を、しかも「受傷直後」に始めています。そして以外と思われるかも知れませんが脊髄損傷という知識を「深く追い求めなかった」という実に皮肉な事実です。
これは動いた人、全てに共通していました。
 この方は持ち前の活発な性格から、医師の宣告などものともせず、決して諦めないで事故直後、自分で工夫した訓練を始めました。そのため脊髄損傷という恐ろしい傷害を知ろうとも思わず、また知る時間も無かったのです。
文章で言い表すとこうなります。
知識を深く追求していたなら脊髄損傷で動くわけはない、と諦めてしまうからです。
このこと全てがかつての森さんであり、私でした。

 何をさておいても受傷直後という急性期の刺激が最優先します。私は森さんがICUから出た直後から関節を揉み、刺激を与え続けました。看護師さんも当然やってくれたのです。
 この時期は四肢麻痺を宣告されて、本人にとっては地獄の辛酸を舐め、精神的に苦悩の極みに達するときでもあります。今後その方の人生を決定付けるのは偏に「急性期における徹底した刺激」「本人の性格」「励ます周りの人達」そして何より担当した「医師の人間性」今後の全てはこれで決まると言って過言ではないでしょう。

 森さんはこの四つの条件が見事に備わっていました。
脊髄損傷という知識を深く頭に詰め込みすぎるとどうなるか。それは突き放された絶望を知るばかりです。
 そこには神経の再生、修復は不可能。現代の医学を以ってしても治療法の確立は無い。神経再生のメカニズムはようやく端緒についたばかり。末梢神経と違いヒトの高度に発達した脳の一部である中枢神経の再生はあり得無い。従って動かすというのは時間の無駄でありリハビリは残存機能の活用。
どの本を読んでいてもこの羅列です。

 かつて私が森さんに『在宅リハで動かす!』と決意したのは脊損の知識が限りなくゼロだったからに他なりません。帰り際『森さんともども頑張りましょう』と言ったら『私は絶対負けません。必ず立って歩いてみせます』とにこやかに言い切りました。
 1999年秋。この方がまた森さんのところに来てくれました。念願の新居を建てるということでその設計図を持ってきたのです。私はそれを見て唸ってしまいました。完璧といっていいリハルームの広さと明るさ。独立したその部屋は実に機能的に設計されてエレベーターの設備さえ描き込まれていたのです。
 実家のご両親の娘に対する社会復帰への並々ならない意気込みが伝わってきます。『で、これだけの家を建てる間、どうするの?』『その間、知り合いに紹介された札幌の病院に入院する手はずが整いました』と言うのです。
 私はここに何か引っ掛かりを感じました。本能的な不安と言っていいかも知れません。『何とかその間、在宅リハは出来ないの?私も時々行きますから』『家は商売があるし、昼間は面倒を見てくれる人がいなくて』
 こうしてこの方は入院したのです。大工さんの都合もあり、半年掛かるというのです。私はその後も釈然としない重苦しい不安な気持で落ち着きません。それで知り合いの先生にその病院を聞いたのです。札幌郊外にあるその病院は確かに総合病院でした。が、これといった看板科目は無く、この方に一番必要なリハビリ科はほんの付け足しという事も分かりました。

 2000年3月。札幌の病院から『家も出来たし今日退院できることになりました。途中寄って行きます』私達は半年振りに会うのを楽しみに待っていました。
 車からご主人に抱きかかえられ降りてきたその姿を見て私達3人は『あっ!』と激しい衝撃を受けました。
足が無いのです。いや、無いと一瞬疑わせるほどのブラブラなズボンでした。
 今すぐにでも立てた足。張りのある温かなぬくもりを持ったあの足。今はすっかり削げ落ち、冷たい艶の無い死んだ棒です。しかも前屈から起き上がることも出来ず、車椅子座位さえ苦痛でした。臀筋と腹筋、そして横隔筋の落ちです。しかもこれ等の筋肉の衰退で発声も弱く、半年前の生き生きしたかっての張りはどこにもありません。当然感覚はゼロでした。              
『…なんという事を!』私は激しい怒りに目が眩みました。

 案の定、下肢完全麻痺を宣告されて残存機能活用訓練と称し、上肢訓練のみを徹底させられたこれが結果です。その手は残存ではなく、もともと動いていた手です。しかも太っていました。これは脊髄損傷者の訓練を行うにとっては最大の敵で最も気を付けなければならない体重管理です。
 1年掛けて2cm上がった足が、3㎏太ったらその両足にそれぞれ1.5㎏の鉛を付けた事になります。いくらやっても直ぐ追いつかれてしまうのです。
 森さんは驚くほど少食ですが、太りやすい体質を先天的に持っています。そのためにも激しいリハビリが必要なのです。この方は全く逆でした。

 『だから私はあれほど言ったでしょう!!』と怒鳴りたい気持をかろうじてこらえました。それはこの方に付き添い、神経内科の先生とPTが付いてきたからです。
 何のために付いてきたのか私には分かります。それはこの方に聞き、最重度頚髄損傷者が歩いている、との興味本位だけで来たということはその態度を見ても直ぐ分かりました。

 森さんは目の前で立ち、歩き、見事な床運動と寝返りをします。
この二人は見事な位、全く無関心でした。それどころか「ふぃ!」と横を向いたその顔に薄笑いがチラッと走ったのです。それを見て動かなくした理由の全てが分かりました。本能的な私の不安は見事に適中したのです。
 私の不躾な神経伝達回路のメカニズム、現代の手術法とその術後管理。脊髄損傷者に対する訓練方法などの質問に対してまるで分かっていません。いかに専門外とはいえどもです。ましてPTは20才そこそこの脊損訓練経験も無い小娘です。
 驚いたことに森さんのような重度脊損がどうして動くのかも全然理解していません。片麻痺の人が厳しいトレーニングで平衡を保って歩ける、といった信じられない認識でした。このような者に確実に立って歩けた人が残存機能活用という名のもとの訓練(?)により、立ち、歩く足をもぎ取られ、まだ30歳代の若さで生涯最重度脊髄損傷者として車椅子にも座れない気の遠くなる一生を負わされたのです。まさしくよく言われる第二次障害という名の人災の極みです。誰が見ても削げ落ちた脚部は廃用性萎縮・症候群でありこれほど残酷なことはあるでしょうか。私は無念で堪りません。


■しなびたバナナ     

 札幌に住む63歳の男性(頚椎損傷Cレベル2~5での四肢麻痺。知覚麻痺。自律神経麻痺。排泄障害原因、階段落下。受傷歴1年6ヶ月)

 この方は森さんと全く同じC2~5レベルであり最重度高位頸髄損傷です。職業が夜警員で、昼間は熟睡できず、そのため導眠剤を常用し、意識が覚醒されていない朦朧とした状態でトイレに立とうとしました。
 奥さんは危険と思い自分の肩にご主人を預けて階段を下りようとした一段目、その瞬間、何と奥さんが足を滑らせて落下させてしまったのです。発生原因の中でも最も重篤障害となる高所転落による頭頂落下です。 
 余りの恐怖に凍りつき、助けを呼ぶことも出来ず半狂乱となり『お父さん、立って!起きて!』と必死に揺り動かしましが『駄目だ!全然動かない』と呻いたといいます。
 奥さんがはっきり覚えているのはここ迄であり、後は救急車をどのように呼んだのかさえ全く記憶にありません。一番肝心な『その後どんな状態でした?』と私が聞いても『とにかく錯乱していて…』とどうしても思い出すことは出来ず顔を覆ってしまいました。

 ここで実に不思議な、どうしても理解できないことを聞かされました。 
搬送された大病院では手術もせず100日間、ただ点滴と身体管理だけで寝かせっぱなしだったということです。
 私は何としても納得がいかず、色々な先生に聞いたのですがどの先生も『手術できる状態に無かったのかも…それにしても?』と首を傾げるばかりでした。
 そのため容体は悪化して危険な状態までとなり、堪り兼ねた息子さんが 『親父に何も治療しないで、もしもの事があったらこのままでは絶対済まされないからな!』と凄い剣幕で言い放ち、その場で転院させたのです。
 転院先の病院では『…何で手術しなかったのだろう。もっと早く手術していたらここまでならなかったのに…。』と首を捻っていたと言います。
そして直ぐ手術をして容体は安定しました。

 その奥さんが1999年6月、私達の記事が載ってから8ヶ月以上過ぎた時に偶然、それを読み新聞社に問い合わせて駆けつけて来ました。私は不思議に思い『なぜ8ヶ月過ぎた今ごろ?』と聞いたのです。そこで聞いたこのご家族の余りに悲惨さには言葉を失います。
 息子さんは一人います。しかし生まれながらにして重度の腎臓病でありその上、心臓も悪化していました。週3回の透析で命を繋いでいるという程の重篤な状態です。
 ご主人は定年後も夜警員として働き、奥さんも昼夜のアルバイトで家にいることは殆どなかったほど働きづめでした。
なぜそこまで懸命に働かなければならなかったのか。
それはこの息子さんに少しでもおいしい物を食べさせてやりたかったからであり、両親亡き後、いくらかでもお金を残してやる為でした。そこで新聞も取らず電話も引かないで節約していたのです。

 ところがご主人の事故から8ヶ月を過ぎたある日、この息子さんがコンビニでパンと一緒に新聞を買ったのです。私達の記事が載った新聞です。しかし、息子さんは見逃してしまいました。
 それから更に8ヵ月後の1999年6月。この奥さんは息子さんの買った新聞を取っておいたのです。それは靴を干すためでした。ここに私は運命的なものを感じます。
 何気なく開いたその記事を見て余りの衝撃と激しい動悸でしばらく立つ事が出来なかったと言います。

 この奥さんの一日は凄まじい一言であり、私達は絶句しました。真夜中の2時に起きて繁華街の風俗店のお風呂洗い。それも遠距離の道を雨の日も吹雪の日も自転車です。
 5時に帰り、ご主人の体位交換、そして揉みと柔軟訓練。6時には近くの会社の机と床磨き。帰って直ぐ体位交換と関節揉みと柔軟。食事をさせて11時から焼肉店の下働き。帰ってご主人と息子さんの世話。自分の時間というものは殆んど無く、僅かな時間を見つけてはご主人の揉み、屈伸、刺激の与え続けの毎日です。
 それはご主人を自分の不注意で取り返しの付かない身体にしてしまったという拭う事の出来ない自分を苛む罪の意識でした。
『私は寝る間もなく何時もふらふらです』事実痛々しいまでの疲れを感じさせます。
『主人をあんな目に遭わせて…私は生きていく資格など無いんです』
『私達がほんの少しだけ幸せになるのがそんなにいけない事なんでしょうか』
そして息子さんは最近こう言うそうです。
『親父!俺は先に行くからな!』
そう言って奥さんは堪らず泣き崩れてしまいました。

 森さんの所へ行くように強く勧めたのはご主人でした。
『お母さん、森さんのところに行って来てくれ。俺はいない間、頑張る。出来るだけ詳しく話を聞いてきてくれ!その結果を待っている』しかしこうも言ったそうです。『…だけど恐ろしい…。』
 その気持は私には痛いほど分かります。『自分より重度の人はいない筈だ。森さんが動いたのは自分よりずっと軽かったからだ』『残念ですがあなたは森さんとは比べものになりません』と言われるのが恐ろしかったのです。
 本人が来る事が出来ない以上、私は奥さんが今迄どのような訓練をやっていたかを森さんがモデルとなってみせてもらいました。同じCレベル2~5という四肢麻痺であり症状も似ていたからです。
 驚いたことに関節柔軟の実に理に叶ったその揉み方。硬くなった筋肉を揉みほぐす個所の捉えどころとそのマッサージ。更に神経に刺激を与えるための要点を掴んでおり、その反応を見ながら屈伸・屈曲させては、捻り、その余りの見事さに驚嘆してしまいました。

『どこかで習ったんですか?』
『いえ、全くの我流です。』『私がこの人をこんな目に』との激しい後悔と罪悪感で寝る間も惜しみ、仕事の僅かな繋ぎ目に事故後一日足りとも欠かさず揉み、屈伸させ、刺激を与え続けた1年半だったことが分かりました。
 私達が一日6時間、3年以上にもわたり刺激を与え続けた結果、ようやく微かな指令が脊髄を流れ反応が出ましたが、この奥さんの場合、その指一つ一つに『動いて!何とか動いて!』と全魂を傾注したその内容と重みは、私達の時間という単位をはるかに凌駕する鬼気迫るものであり、その凄みにはただ言葉も無く、戦慄して鳥肌が立つ思いで聞くばかりでした。
ついに功を奏して今では車椅子座位に迄漕ぎつけたのです。

 
 ― それを聞いて私には深く考えさせられる一つの事例があります。
同じ北海道の頸髄損傷で、しかもある会を代表する彼に対してその行動力には常日頃敬服していたのです。その方に森さんの記録と経緯を送り、お互いの情報の交換を申し述べました。
 ところが返ってきた返事は『…科学的裏付けが無い以上、あくまでも推論、仮説であり事実として受け止めるわけには行きません。…個人的にも今のところお目にかかってお話しすることはございませんし裏付けが無い以上、この件に関して私から情報を発信することもございません。今後症例を重ねられ出来れば医師等と共に病理、生理学的な考証を加えられるのが望ましいのではないか…。』
 科学の裏付けが無いから信じられない。医師と共に病理・生理学的考証の補強をしなければ信じられない。この裏付けが無い以上、会うことも発信することも無い。
私はこの全く的外れなご高説に呆れるより先に心底感嘆したのです。
 これこそが医者でもない一介の素人が専門知識を頭だけで追い求める危険性を常々感じていたからであり、よく言われる重責損同士の近親憎悪そのものでした。

 二回目の講演に友人の車で駆けつけたCレベルの人は、大きく傾いた身体を踏ん張り『私は医者から立つことはもう無い、と断言されたのです。しかし辛いリハビリを3年間続けて、今こうして講演に駆けつける事が出来ました。その断言した医者に講演に来ている人達を励まして来い、と言われここに来たのです。ですから私は森さんがこうなるまでの苦しい訓練が分かります。よく頑張って…』後は嗚咽に詰まり言葉が続きませんでした。         
それを聞き、会場から一斉に拍手が湧き起こり、すすり泣きが漏れていました。当事者の言葉はそれだけの重みと迫力があります。
 
 先に紹介したオーストラリアの日本人留学生。空知管内の22歳の娘さん。今紹介している最重度のCレベル2~5の男性。そして森さん。
 その反対に残存機能訓練のみを強制させられ、胸から下全て機能と感覚を失ってしまった38歳の主婦。まだまだあります。
 森さんのところに来ることが出来なかった遠方の方達との手紙での情報交換により、本人と家族が頑張りぬいて反応が出てきたケース。これらの方達には見事な共通点があります。
 『何としても立ってみせる』『絶対諦めない』これが強固な土台となって受傷直後訓練を始め、その結果全てに反応があり、動いた事実をどう見るか。

 これらの人達の精神的覇気と頑張りを科学・病理・生理学的にどのように立証、証明するというのでしょう。
 この方がいみじくも言った医師などと共に考証云々…。と書いてありましたが、私は今迄全てといっていい科の先生と相談して資料を見てもらってきたのです。私が相談しなかったのは産婦人科くらいのものです。
 更に国内で名のあるリハビリ科の先生、その施設の院長、解剖学の先生、そして我が国最高峰と言われている理学・物理・作業療法の各先生。常に医療の最前線を鋭くえぐる我が国ではノンフィクション作家の第一人者と言われる柳田邦男氏までにも森さんのレポートを送り意見を問うて来ましたし、再生医科学、脳の解明などでの特集番をたびたび扱うNHKにも送っています。

 なぜそこまでしなければならなかったのか。それは簡単です。私がやって来たことは森さん個人に対してのリハビリでした。ところが講演がきっかけとなり新聞に報道された途端、どっ!と押し寄せて来た切迫した悲鳴に対して、医学に全く関係の無い素人の一言がこれらワラおもすがる人達に与える影響の大きさに恐ろしくなったからです。
取り返しの付かない結果を怖れました。
これらの諸先生からはほぼ全員といっていいほどご返事を頂いております。
要約すると次のとおりです。

『この分野は現代の科学を以ってしてもまだまだ解明されていない最後の聖域とさえ言えます。従いましてこれほどの症例の人が歩いたという事を科学的に証明できる手立ては今のところ無い、というのが現状です』
 NHKからは『…にわかには信じがたい今迄の医学の常識を根底から覆す出来事です。…右近式メソッドであるかどうか、いずれにしましても重度脊髄損傷で寝たきりの人に対しての大きな福音であることには間違いありません』
 柳田先生からは『これは月並みな医療人の常識をはるかに超えるきわめて貴重な記録であり、神経の自己再生能力の凄さ、筋肉の回復力の凄さ…』との返事を頂いているのです。
 そしてどの先生も『とにかく身体を動かしてやる事、動く事により神経細胞が刺激され活発になり、これが何より大切な事です』と言って森さんの努力を評価してくれたのです。

 森さんは他の人ならいざ知らず、同じ頸髄損傷者からのこのような突き放された返事に傷付きました。血を吐くような頑張りに科学の裏付けは出来る筈はありません。これは素人が知識を詰め込みすぎた高邁な理屈であり、動いたのはズバリ努力。これだけです ―


『うちの人よりはるかに凄い森さんがこうして歩いているのを、早速伝えます。どんなにか喜ぶでしょう。私もこれから励みになります。今度主人を連れてきてよろしいですか?』奥さんの話を聞いてご主人が来るのは恐らく無理だろうと思ったのです。殆んど一日掛かりになるからであり、当然仕事を休まなくてはなりません。
 最寄りの駅までの車の往復と小樽駅から森さんまでの往復の車。そして留守中のご主人と息子さんの世話はヘルパーを頼まなければなりません。この方達にとってかなりの負担になります。
『私が札幌まで迎えに行きます』と言ったところ『それだけは』と最後まで固辞されました。
 帰り際『私はこのような生活ですので何も持って来る事は出来ません』と背負っていた小さなリュックからバナナを2本取り出し『これが私の昼食です。よかったら森さん、食べて下さい』と差し出しました。
それは傷んで黒ずみ、しなびたバナナでした。そして『これも…』と少し躊躇して出したのは期限が3ヶ月過ぎたおつまみ用のチーズです。『森さん、期限がかなり過ぎていますから食べないほうがいいと思いますが、これが私に出来る精一杯のお礼です。』
 この奥さんが帰った後、私達は涙を流し、仏前に黒ずんでしなびたバナナとチーズを供えさせてもらったのです。

 2000年9月21日。
 この奥さんから『うちの主人が何としても森さんに会いたいと言ってきかないのです。明日お伺いしていいでしょうか?』と突然電話が来ました。あの時から1年3ヶ月過ぎ、私達の中には重い疲れが残っていました。
 私も森さんもなるべくそのことに触れないようにしてはいるのですが、訓練が終ったあと『今頃どうしているんだろう…』といつも気に掛かっていたのです。
 今迄来た方はその後、定期的にリハの進捗状況などを聞く為に連絡を取り合って来ましたが、この方は電話での連絡は出来ません。私はそれを聞き『これは凄い!!』と直ぐ分かりました。
 Cレベル2~5の重度障害のご主人を、私が見てもとても訓練を行う時間などないあの奥さんが森さんの所へともかく連れて来る迄に漕ぎつけたその頑張りに対してです。
『是非いらして下さい。今迄待っていたんです』
 
 ところがその夜、10時過ぎ『うちの人が森さんを見ると自分が惨めになるからどうしても行く決心が付かないと言ってきかないのです』と連絡が来ました。
 私は『来る、来ないはご主人の判断にお任せします。ただ私の言えることは少なくても森さんの所へ行ってみたい、と思ったその気持が何より大切だと思っています』と言い『ご主人の気持は分かります。しかし何時かそのうちに、という「いつか」はご主人にとっては何時なのか、体調か、精神的なのか、あるいはもっと回復してからなのか、そこのところをきちんとしてからいつでもいらして下さい』と電話を切りました。
 その夜12時ころ『あれから二人で話合いました。主人は例え自分が惨めになっても受け止める。このような機会はもうないと思うから』といって伺うとの返事でした。

 ハイヤーから降ろして車椅子にトランスファー(移乗)させる奥さんの見事な介助には舌を巻きました。痩せて小柄の奥さんが大柄なご主人を実に無駄の無い動きで手足を交互に組ませ、いとも簡単にクルリと体交させ、何事も無かったようにトン!と座らせます。運転手の出る幕等全くありません。
 今迄森さんの所には多くの脊髄損傷者が来ました。当然全員が家族付き添いです。私はその方が部屋に入るまで一切手伝いません。家族の動きをじっと見ています。
 車椅子に乗せず抱きかかえた家族。時間を掛けて運転手に手伝ってもらう方。何回もやり直しをする家族。ペダルの足、手の組みをその都度神経質に直す方。座らせてから位置を直す人。実に様々です。
 これらは全て訓練をやっているかいないか、本人の身体にどれだけ長く接しているかどうか、一目瞭然でありそれを見る為です。

 この奥さんは脳外病棟のベテラン看護師のそれでした。かつて森さんが第二病院に入院していたころ、小柄な看護婦さんが80㎏以上あると思われる男性患者を何の苦も無くクルリと体交させて立たせる余りの見事さに声も出なかったことがありますが、私のアシスである美子も専門家が舌を巻く実に見事な無駄の無い動きをします。この奥さんはそれと全く同じでした。
 ご主人は実にいい顔をしていました。日本人離れした温厚な顔立ちと落ち着いた物腰。本当に穏やかな態度でした。この方が自分は惨めになるから森さんの所に行かない、と言った人とはとても信じられません。

 ご主人に森さんの全ての動きを見てもらいました。一言も、本当に一言も発せず、ただじっと目を凝らし見ているだけです。
 奥さんはご主人に『お父さん。森さんが歩けるようになるまでに…』と言いかけた時『いいから、あなたは黙って見て、その一つ一つをメモにとっておきなさい!』とビシッ!と叱り付けたのです。
これがご主人の発した唯一の言葉でした。

 私は『これは凄い!』と思いました。
何故凄いか。それはご主人は森さんになりきって今、歩いているからです。
瞬きもせず息を詰めて歩いているのです。これは脊髄を損傷した本人、その訓練行っている者しかその心境は分かりません。私がよく言う雑音を一切排除して切り詰めた精神の凝縮です。
 その訓練の成果は身体の反応にはっきり表れていました。
何と手が肩迄挙がるのです。しかも足は筋肉の衰えなどどこにも無く、関節拘縮など一切無い柔軟さです。これが3年以上揉み続け、屈伸させ、刺激を与え続けた結果です。
 私が試しに電子鍼で電極を押しました。驚いたことに『痛い!』と言って手を引っ込めたのです。
 森さんはびっくりして『私よりはるかにいい!』と叫んだのです。

『奥さん、最初から手は動いていたの?』と思わず聞きました。
『いえ、最初は全く動かずそれこそ寝たきりでした。それが何時の間にかこうなって…』
 私は1年半前、奥さんが最初に来た時、森さんをモデルとしたその柔軟運動、関節の揉み、そして刺激の与え方にびっくりしたものです。失礼な言い方ですが、そこには学問も知識も全くない我流です。
 それが最重度頚髄損傷者の手を肩迄挙げ、ベルト無しの座位姿勢を保持させて下肢全ての筋力を保たせているのです。これこそ科学的根拠、裏付けなどの理屈は噴飯ものであり、その努力が動かした何よりの典型です。ただし、手首から先、特に掌屈、掌握は限りなくゼロでした。
 『何でここ迄回復したのに』と聞いたところ『そこだけは今迄やった事が無かったのです』との実に単純明快な言葉が返ってきました。

 刺激を与え続けたところと一切しなかったところ。言葉を変えれば動かしてやろうと思ったところと諦めたところ。これは森さんを通して散々経験していることでしたので私は直ぐ納得しました。
 奥さんに手首の柔軟と刺激、そして腹圧の強化訓練を強く勧めました。声が非常に小さく、重責特有の浅呼吸であり、肩で息をいていたからです。
 そこでベッドに座らせて私の片膝をご主人の背中に当て、両肩を掴みグイ!と反らせてやりました。
『あぁこんなに息をしたのは何年ぶりだろう』と言い、奥さんは『お父さん!顔が赤くなった!』と叫んでいたのです。
 ご主人は『電動車椅子を操れるようになるでしょうか?』と聞いていましたが、電動どころか奥さんの熱意とこのご主人の頑張りで立つ事さえ全く不思議ではありません。
 『お父さん、来てよかったね!ほんとに来てよかったね!私も頑張るから、お父さん頑張ってね!』奥さんは泣きながらご主人の肩をゆすります。惨めになるどころかこのご主人は何回も何回も頭を深く下げて涙をこらえていました。

 帰り際『私達はどんな時でもこれを肌身離さず持ち歩き、お守りにしています』と言って車椅子から取り出したのは私が送った森さんの膨大な記録でした。
何回も何回も読んだのでしょう。
ページは黒ずみ、めくれていました。


■駄目でもともと

 道東圏内の28歳男性(胸椎損傷、T5骨折。下肢完全麻痺。知覚無し。排泄障害、原因バイク事故。受傷歴7年)

 私の所に来た男性が全て28歳という不思議な附合に驚きます。
 7年前、大学生のとき東京府中でバイクでの走行中に突然前方の車が右折したため激突して以後3日間生死をさまよい、駆けつけた両親が諦めたくらい酷い状態で4日目に意識が戻ったと言います。
この青年も森さん同様強運に助けられました。それは都内でも設備が整っている病院の目の前での事故だったからです。
 術後転院して10ヶ月に及ぶリハビリの甲斐も無く退院して大学に復学して実家の北海道に帰り、現在は車椅子ながら就職をしています。
 この青年もまた新聞を読んで連絡してきました。その手紙です。

 『今日の朝刊を読み、首の骨を4ヶ所も損傷した人が立って歩けるとはとても信じることは出来ませんでした。私は日々新聞やらインターネットを通じて、なにか最新の情報は無いかと常に気をつけていたのです。そしてとうとう森さんの信じられない記事を読みました。暖かくなったら是非お伺いしたいと思います。』

私は直ぐ資料を整理して送りました。その返信です。
『送って頂いた分厚い資料。講演のテープとその写真を見て余りの感動に寒気がして身を震わせて読ませて頂きました。その資料をもう何度も何度も読ませて頂きました。そこには私が今迄見聞きし、得た知識を根底から覆す驚くべき内容にただただ言葉がありません。
 3人が一体となって一日6時間の厳しいリハビリを6年間続けてこられたというコーチする側、受ける側の忍耐と努力。しかもその質の高さ。これは安易な気持では近づく事はとても許されない事だと感じました。
 私も足の機能を失って7年になります。もしここで立つ事が出来たらどんなにか素晴らしいだろう、と遭遇する場面が今迄何回もありました。失って初めて当たり前な能力の素晴らしさに気付き、それだけに憧れ、機能を失った自分の足が可哀相になるのです。
 私はこのたび右近さん、森さんとお知り合いになることが出来、生きている事の素晴らしさを感謝できるようになりました』(原文のまま)

 機能を失った人でなければ絶対書けない手紙です。
この青年とは何回も手紙と電話のやり取りを通じ、会う前から私の心の中に親近感が芽生えてきました。
 その話し方、文章から垣間見る人間性などですが、重度の障害にもかかわらず前向きに生きる主張と姿勢そして力強さを感じていたからです。しかも脊髄損傷に関して『これはかなり勉強しているな』と分かりました。

 春になって暖かくなったら必ず来ると約束しました。ところがそれから一週間くらいして『これからお伺いする』と連絡が来たのです。厳寒の1月中旬でした。青年はJRに乗り継ぎ一人で来ました。
 青年を一目見た私は『やはり!』という自分の勘に驚きました。私が想像していた人そのままであり、いや、それ以上の青年でした。
 重い障害を持っている人とはとても思えない明るい表情。苦悩を引き摺ってきた疲れなど微塵も無く、暗さ、ましてや卑屈さなど全くありません。

 『どうして急に?』『右近さんの資料を読んで、実際に立って歩いている写真を見て信じようとしているのですが、どうしてもこの目で確認しなければと思い、いてもたってもいられない気持で来たのです』
また、奥さんとお母さんが『貴方がどうしても信じられないならその目で確認してきたらいい』と強く勧められたというのです。
 私は損傷の度合い、特に主治医の意見とリハビリの内容を殊更詳しく聞きメモを取っていたのですが、時折青年の目がチラッ!と森さんの足に走るのは知っていました。
森さんは時折、手足を動かして居住まいを正します。
そのとき突然『あーっ 足が、足が動いている!』と叫びガクリと俯いて顔を覆ってしまいました。

 私にはこの青年の慟哭が分かります。それは『動く事は有り得無い』と言われ続けた本人の心からの悲鳴であり、その訓練に携わった者だけが知る身体から絞り出す悲痛な叫びです。
 青年の過去7年間のめくるめく万感の想い、激しい心の揺れ。それが森さんのほんのちょっとした足の動きで一挙に噴き出たのです。
 この青年とは比較にならない最重度障害を負った森さんが立って歩き、寝返りして床運動をします。実に辛い残酷な時間であったと思います。食い入るように見詰めて、的確な質問をしてメモを取り、そしてまたうなだれ顔を覆います。

 思ったとおり医師から『足の感覚は無いでしょう。だから歩くことは諦めて手の機能を最大限に活かしてこれから生活する事です』と言われ、そのために入院期間中、一度も足のリハビリはやらなかったと言います。それどころか足の機能を回復させるというその発想すら浮かばなかったとも言っていました。
 『駄目なものは駄目なのだから時間を掛けるだけ無駄です。それより機能が残った手に全力を傾けなさい』
これが脊髄損傷者へのリハビリにおける我が国の紛れもない現実です。
 脊髄を損傷して全く改善の兆しが無い3ヶ月、もしくは6ヶ月過ぎてもなお変化がなければ臨床的に症状の固定化と断を下されます。むしろ半年も経過を見てくれるのは異例であり良心的です。

 森さんのところに訪ねてきた方。遠方からの電話、手紙での相談。これらの方は見事に同じ事を言われています。
『100%駄目といって間違いありません』
『立つ事は有り得ません』
『可能性というのは1%でもあるのなら別ですが、貴方の場合はそれも無いのです』
『ゼロはあくまでもゼロです』
『立ち、歩けたら奇跡でしょう。しかしその奇跡も無いのです』
そして最後に言われる言葉
『とにかくこの現実を早く受け止めることです』

 これがいわゆる受容(諦め)勧告であり、しかも訓練を行なう前からです。この青年のようなT損者が言われる『残存機能の活用訓練』とは何か。
 それは全国一律、何ら損傷を受けていない上肢を利用して車椅子トランスファー(移乗)とプッシュアップ(両手を使ったお尻上げ)であり、ただただ車椅子バスケと車椅子マラソン、そして手芸といった両腕を使うことのみ終始します。そのため、上肢の筋肉と骨格は異常に発達して見事な逆三角形であり、反面下肢はゴソリと筋肉が削げ落ち、それはまるで板となってしまいます。
しかしこれは残存でも何でもありません。もともと何ら損傷を受けずに「備わっていた」ものだからです。
ましてや手芸と刺繍訓練などはまさに噴飯ものです。

 このように上肢を使うと使うほど、下肢には一切運動と感覚は遮断されてしまい、以後、文字通り死んだ両脚となってしまうのです。しかも立たせることによりかかる荷重という負荷が下肢にかからないため、生涯にわたり重度の排泄障害が付きまといます。
 これが唯一絶対の選択肢のごとく受け容れさせる我が国の専門リハ病のやり方は一度でも転院した多くの方々の話とインターネットでの膨大な情報で欧米諸国から大きく立ち遅れていることは既に皆さんは知っているのです。

これを絶対として受け容れるか。受け容れないか。
逆にいうと諦めるか、諦めないか。私と森さんは当然後者の方を選んだのです。

 何故あれほどの重度障害にも関わらず諦めなかったのか。それは簡単です。
私は今迄数多くの脳外と整外の先生に意見を聞き、参考にしてきました。いずれの先生も脊髄損傷を数多く手がけている第一線の脳・整外科医です。その結果自分ではっきり分かったのです。
それはこのような先生ほど早急に断定的な宣告を下さないという事でした。
それと訓練を行うはるか以前のCT・MRI所見で完全麻痺と宣告し、動いたら奇跡と断ずることに対する抜き難い不審と『どうしてみんな同じ事を言うのだろう』との強い疑問でした。
 
 やがて、何故我が国では一番大切な急性期リハを行なう前から無理やり諦めさせようとするのかということに繋がったからです。森さんのような高位頸髄損傷では残存機能はそれこそゼロでした。
 しかし最初に搬送された病院がどのような対応をしてくれ、また担当医がどんな先生であったかにより、こうも人生を決定付ける恐ろしさを感じます。
つまるところその先生の人間性と言えましょうか。

 島田先生は勿論そうでしたし第二病院の先生方、さらに札幌でのK先生は『絶対諦めるな。諦めた時がそれこそ終わりだ!神経の再生はあり得る!』と繰り返し励ましてくれました。
私はこれに賭けたのです。
ですから『一生ベッド生活よ』『貴方の足はどんなことをしても歩くに至らない足だ』『お風呂もトイレもベッドだよ』本人が権威あると思って言っている断定など頭から信じていなかったのです。

それは実際に森さんを手術して、その目で確認した言葉ではないという事。
医学の定説、常識を殊更重々しく言っているに過ぎないと分かっていた事。
脳外科医と整形外科医の専門分野の違いによる知識と対処の仕方。
患者の傷みを分かってくれる言葉の選び方。
何より決定付けたのは医師としての真摯な人間性。
このどれ一つとっても余りの違いに疑問を抱かざるを得なかったからです。

 このような入院生活こそ不幸この上ありません。当然心身ともにボロボロとなって退院しました。
 私が過酷とも言える訓練を課したのは、当時の森さんに絶望と自殺の激しい心の揺れを叩き潰す事にあったのです。
 それに挑む事により取りも直さずこの事を考える隙を与える暇が無い、との唯一の選択肢でした。「脊損リハは全く時間の無駄」この観念がある限り動かすリハビリはやってもらえず、当然在宅訓練となったのです。

 私はこれらの経緯を青年に話して『事故後7年経って改善の兆しは無いかも知れない。だけど駄目でもともとの気でやって見ませんか?』と言ったところ『やってみます!』と言い、私は肩の重荷がスッと軽くなりました。
 私はこの青年の足を見せてもらいました。そしてびっくりしたのです。その皮膚の色と艶。フクラハギの固さと太さ。大腿部の張り。そして温かさは体温と同じで健康人と何ら変らない足でした。これが7年もの間機能を失っていたとはどうしても信じる事は出来ません。今直ぐにでも動く足でした。
 聞いてみて『なるほど』と納得したのです。小樽までJRで来たように毎日職場に通っています。当然手の力で何処にでも移動できるといい、現に旅行、あるいは最新の情報を集めに東京へしばしば行っています。この毎日毎日の全身の筋肉を使う繰り返しが下肢にも影響を及ぼしていたのです。
 『これだけ私達と何ら変わりない筋肉を持っているのに自由の利く手でどうして揉んだり、刺激を与えたりしなかったのですか?』『医者に宣告されたので思ってもみなかった』これを聞き、私は嘆息しました。

ともあれその足に電極で刺激を与えてみる事にしたのです。
最初から大きく反応しました。森さんは当然ゼロでした。
次に徐々にレベルを上げた時、何と足の指が動くではありませんか。
 これには息を詰めて見ていた私達全員が『あーっ動いた!』と思わず声が出ました。電極の刺激で抹消神経が反応したのです。勿論これは脳からの指令ではありません。

 今度は目を瞑らせて、足の親指一本を動かすよう全神経を集中させました。これこそが脳の指令であり動いたら意志の伝達です。
 『これから足の親指を動かす。動け!』との明確な意思を流してやるのです。目を瞑った青年の瞼とコメカミが震え今全神経を集中しているのが分かり そのピークに達した時、すかさず私はスイッチを入れます。
親指はゆっくりと確かな動きで曲がったのです。
今度は目を開けさせ脳の指令と共に私の命令と聴覚・視覚による刺激でどう反応するかやってみました。
そこで青年の見たものは何か。今迄死んだと思われていた足指が命令に反応して動いているのをその目で確認したのです。何回やってもその動きは繰り返されました。
 森さんに一日6時間の3年近く、くる日もくる日もやってようやく繋がった反応より確かな動きでした。

 思った通り損傷を免れた神経は生き残り、刺激を与えられなかった為、8年近く深い眠りについていただけだったのです。奇妙にぎこちない静寂の中、青年は言葉も無く茫然としていました。
 自分の目で確認したこの紛れもない事実を青年はどう受け止めたでしょう。恐らく頭の中では混乱して、整理が付かなかった事は容易に想像できます。
 思ったとおり青年は実に勉強をしていました。インターネット情報、仲間との情報交換、更に外国の原書まで読んでいました。
この青年の受傷約1年後、森さんは頸髄損傷となりました。
一週間後、集中治療室から出たその日、もう私達は手足に様々な刺激を与え続けていましたが勿論手術の傷の負担にならない程度です。これが最も大切な受傷直後の超急性期での絶えざる刺激であり、これをやったかやらなかったかで以後残酷とまで言える差が出ます。

 その頃、青年はリハビリの成果も無く退院して、激しい懊悩と煩悶を経て何とか自分の心にけじめがついたのは事故後3年を過ぎた24歳の時だったといいます。言い換えれば3年間諦め切れなかったとも言えます。
手が完全に無傷でもこうなのです。
それよりはるかに絶望的な障害の森さんは、その頃私に鞭を入れられ、松葉歩行で特訓の毎日です。全く接点の無いこの二人の重度脊損者の3年後の大きな隔たりは『一体何だったのか』と深く考えさせられます。

 そして6年後、新聞報道で森さんのところに来て立って歩いている姿に驚愕し、今迄死んだと思っていた足の親指が指令により確かに動いたのです。
 足の指は動いたという事は最初から神経は繋がっており、動かす回路が機能している何よりの証拠です。この動きは青年にとって残酷だったかも知れません。しかし、この神経を繋げるまでが果ての無い夥しい時間の流れです。
『これだけやっても何の反応も無いのだから神経は切断されている』と何回諦めたことでしょう。
 一日6時間、呼びかけにシンとも応えてくれない神経に刺激を与え続け、ついに1028日目に深い眠りから目覚めました。頑なに反応を拒んだ神経に3年近く刺激を与え続けた私達のほうがまさに異常であり、他の人が諦めてサジを投げるのが当然です。それを支え続けたのはこの方達と決定的に違う頸髄損傷による瞬きだけだったからです。

 もしこれが胸椎か腰椎損傷で上肢が幸い助かったなら、私は一体どのようなリハビリをやっていたろうと何時も考えます。やはり私は足を動かすために全力を挙げていたであろう事は断言できます。
「残存機能の活用」この諦めの発想は欠片もありません。
『駄目でもともと、先ずやってみる』この考えが諦めよりはるかに強いからです。
 事故後8年近く経過してこれから訓練を始めてもいい結果が表れないかもしれません。しかしその時でもこの青年は再び深い挫折に打ちのめされる事は無いと信じています。

 今までの訓練で確実に言える事は、何もやらなかった1年と、精一杯頑張り通した1年が同じであろう筈は無いとの確信です。そしてこれも確実なのは諦めて何もやらなかった1年は、より機能は退化し劣化していくという実に厳しい医学的な事実です。
 1年を頑張り通すとその機能の退化と劣化に歯止めが掛かって来るのが分かるようになってきます。身体もまたその努力に感謝して報いてくれているのだと私は思うようにしています。

本当に爽やかな好青年でした。
この交流は今でも続いています。


註 これまで紹介したケースでの受傷歴は全て1998年当時です。またレベルと症状は受傷した際の医師の所見によるものです。

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